12-12

 薄暗くなった部屋の中でもう数時間、宣子はただ、横たわっていた。

 ぼんやりと見える天井の木目を数えながら、一志のことを想っていた。

 ——可哀想な、可哀想な一志。

 最初は苦手だった。一志は無愛想で、常に怒っているように見えて、怖かったから。

 宣子は父親の暴力から逃げるようにして村に辿り着いた。当時の彼女は暴力に耐性があったけれど、その反動で、ささいなことに恐怖心を抱いてしまう傾向が強かった。

 しかし一志は、暴力的なことはなにひとつしなかった。ぶっきらぼうな言動は生まれつきの性質で、彼の性根はとても優しいものだと、やがて彼女は知った。

 とりわけ、妹である弥絵には果てしなく優しかった。宣子が嫉妬を覚えるほどに。

 血を分けた、たったひとりの肉親だから。仕方がないことだと宣子は思っていた。どんなに愛していても、たとえお互いに愛しあっていても、妹と結ばれることはない。それが宣子の心の支えだった。

 けれど。本当は、一志は弥絵を、女として見ていたのではないのか。

 「……気持ち悪い……」

 宣子は身を震わせた。

 弥絵ちゃんは、可愛い。

 可愛げのないところが一志くんによく似ていて、可愛い。

 細長い手足も、大きな瞳も、長い三つ編みも、とても愛らしかった。

 ふたりが黙って寄り添っている姿は、まるで長年連れ添った夫婦のようだった。声をかけるのに気後れしてしまい、思いきってわざと明るく話しかけ、その完成された、ふたりきりで完結していた雰囲気を壊したこともある。

 弥絵は盲目的に兄を信頼していたが、一志のほうは弥絵をどう思っていたのだろう。愛していたことには間違いがない。ただそれが、肉親の情なのか女性への情なのかが、宣子には判らなくなった。

 宣子と寝るようになってから、一志は弥絵の話をあまりしなくなったかもしれない。彼女とふたりきりのときには、話題に出すのをなるたけ避けていたようにも思える。彼は宣子に気を遣っていたのだろうか?

 どうして気を遣う必要があったのだろうか?



 いつのことだったか記憶に遠いけれど、何日か前に、彼女は診療所へ出かけた。

 彼を喪ってから、未だによく眠れなかった。強めの睡眠薬を処方してもらおうと宣子は思った。

 昨晩つくりすぎた煮物をタッパーに詰め、彼女は家を出た。ぼんやりと準備をしていたら、いつもの癖で一志の分まで用意してしまったのだった。

 ……なぜ、よりによって彼が、死ななければならなかったのか。

 宣子の頭には、あの日から消えない疑問が渦巻いていた。

 車を使わずに歩きながら、宣子は一志とのたくさんの想い出を反芻していた。涙がこぼれた。ひとりで泣きじゃくりながら森の中を歩いていった。足を交互に出せば、なんとか倒れずに診療所へ到着できるはずだった。

 診療所に着いたのは一時間ほど歩き続けた頃だった。彼女は零れた涙を厚手のハンカチに染み込ませた。もう、泣くのはやめなければ。みっともないところを見せて、心配されるのは面倒だ。いくら慰められても、あのひとはもう還ってこないのだから。

 入口へ向かう途中、小屋の側を通った宣子は、煙草のにおいにはっとして立ち止まった。

 一志の吸っていた銘柄と同じにおいがした。

 杉本医師は、煙草を吸わない。

 それなら、誰が?

 そんなはずはないと知りながら、一志の姿が見えることを期待して、一縷の望みを抱いて、窓の近くに寄った。

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