魔獣騒乱19

 鱗で覆われているけれども、基本的には馬鹿デカい猫である魔獣。


 いわゆる猫パンチ的な手法でもって、エリエルを叩き落とそうとするけれど、これをエリエルはサラリと躱す。


 サラリと躱しますけれど、魔獣のスピードとパワーを考えたら、これちょっと擦っただけでも大ダメージになりそう。


 ただ避けているだけでも、エリエルの消耗は見た目以上に激しくて、余裕をがあるように見えるけれども、実のところはあんまり無い。


 という訳で、自分から仕掛けたのにも拘らず、エリエルちゃんは防戦一方…だから、よせばいいのにと言ったのです…



 そんな危なっかしいエリエルを見ていれば、聴衆と化してる避難者たち固唾を呑んで、静かになってしまう。


 そんな中一人の子供が、母親らしき女性に


「ねえ、あのお姉ちゃん、お名前なんて言うのかな?」


 小声で聞いてるけれども


「うーん…なんだったかな?えまにえる?えみ…」


 母親は、喉まで出かかってるけれど思い出せないといった感じ。


 読んでいたにしては、世代的に少し上のような気がするけれど、きっとエリエルの絵本の事を知っていはいるんだ。


 それをたまたま近くで聞いていたニコラは、あまりのもどかしさに堪え切れず


「エリエルです!エリエル・シバース!」


 割と大きな声で答えてしまうから、ちょっと注目されてしまう。


 それを聞いた子供は唖然とするけれども、母親の方は喉のつかえが取れたとばかりに、表情がパッと明るくなり


「そうだ!エリエル・シバースだよ!懐かしいな…」


 こちらも思わず大きな声を出してしまうから、やっぱり注目されてしまう。


 それにしても懐かしいとは…エリエルの絵本は世代を超えて愛されてたという事でしょう。


 それはともかく


「そっか、エリエルちゃんって言うんだ!」


 母親の言葉で、ようやくそれが彼女の名前だと理解したその子は、目をキラッキラさせて、空飛ぶ魔法少女を見つめるのです。






 さて、エリエルですけど、このままではジリ貧。


 何もしないまま魔力切れ、なんて事だけは避けたいですから、少し無理をしてでも攻撃へと転じます。



 魔獣の目の前をチョロチョロと飛んで見せれば、それだけで挑発となり、基本的にデカい猫である魔獣が無視できる訳もない。


 飛んでくる猫パンチを、わざと紙一重で避けてみせると、先ずはその手を平手打ちで叩き落とす。


 魔獣は痛みで悶絶し、そこに隙が生まれるから、体当たりをするようにして顔面を殴りに行くけれど、これは読んでいたのか、魔獣は痛みに苦しみながらもなんとか躱す。


 渾身の一撃が空振りとなったエリエルは、止まる事無くその勢いのまま魔獣の後方へと飛んでいく。


 それを追いかけるように、魔獣は身体ごと後ろを向こうとするけれども、それが終わるよりも早く、エリエルは素早くUターンするから、魔獣はエリエルの姿を見失う。


 困惑する魔獣の側面から、その腹の下を潜り抜けるように飛ぶエリエル。


 そのついでばかりに、軽く腹を小突いてヒット&アウェイ。


 ところが、軽く小突いたつもりのその一撃が、今日一番の大ダメージ。


 あれだ…そんなつもりじゃなかったのに、鳩尾に当たっちゃった…みたいな?…


 ともあれ、その場に崩れ落ちる魔獣。


 ここは畳み掛けるチャンスなんだけれども、そんなエリエルの耳に


「がんばれえりえるぅ!」


 子供の叫ぶ声が聞こえてくるから、ハッとして避難所の方に目を移す。


 すると、そこには信じられない光景が広がっていた…


 いや…だってエリエルは『できる限りこの場を離れてください』と言ったはずですよ?


 それなのにもかかわらず、避難所には多くの人がそのまま残っているってどういう事ですか?


 『何をしてるんですか!』という話ですよ…逃げろやお前ら…


 それが逃げるどころか


「がんばれエリエル!」


 って…


「負けるな!魔法少女!」


 って…


 子供だけじゃなく、良い年した大人達までが、エリエルに声援を送ってる…


 なんだこれ…


 ホント、なんだこれ?


 いつも空回りばかりで…良かれと思ってやった事なのに、いつも蔑まされて白い目で見られて…


 そんな思いをしてきたエリエルにとって、それは目的ではないのだけれど、待ち望んでいた光景で…


 嬉しくて…


 ただ嬉しくて…


 ただただ嬉しくて…


 魔獣が回復した事に気付くのが、一瞬遅れてしまうのです。


「あぶない!」


 子供の叫び声と同時に、適当に振っただけだろう魔獣の尻尾が、エリエルにヒット。


 弾き飛ばされ、建物に激突する。


 すんでのところで、防御魔法を展開できたので、大きなダメージにはならなかったけれど、いかんせん脳が揺れてしまった。


 朦朧とするエリエルを魔獣は見逃さず、振り返り様にその腕を振り上げ、建物ごとエリエルを叩き付けようと、渾身の猫パンチを降り下ろす。


 やられる…少なくても魔法少女はただでは済まない…


 聴衆の誰もがそう思い、思わず目を逸らすけれど、続くはずの破壊音が聞こえてこない。


 ゆっくりと目を向けると、腕を降り下ろす直前の態勢のまま、固まってしまったかのように魔獣が動きを止めていた。


 その視線は、エリエルを見てない。


 少し経って動き出した魔獣は、その視線だけは絶対に外さないように後退りしているから、聴衆は自然とその視線の先を追う事になる。


「…誰かいるぞ?」


 誰かが言うまでもなく、魔獣の視線の先に人がいる事に、聴衆達は気付く。


 1人の青年が、剣を持って魔獣の前に立っている。


「あれ、クルーアか?」


「ええ、クルーアさんですね…」


 聴衆の中には、その青年の正体にまで気付く者もいるのだけれど、それだけでは、魔獣がその動きを止め、後退りする事の意味がわからない。


 だってそれは、まるで魔獣がその青年に怯えているように見えるから…




 魔獣は困惑している。


 目の前にいるこの人間は、そのシルエットと臭いから、先程まで小さな魔獣を抱えて逃げ回っていた、あの人間で間違いないはず。


 それにしては、この威圧感はなんだ?こんな物は先程の人間には無かったはずだ。


 目を逸らせば、次の瞬間…確実に殺られる。


 本能が、最大級の警戒をしろと、魔獣自信に命令する。


 戦って勝てる相手ではない…逃げろ…と。


 そうして、その人間から意識を外す事ができないでいるから、いつの間にか、魔法少女が自分の頭上にまで来ている事に気付きもしない。


 まだ意識が朦朧とする中、エリエルはそれが自分の取るべき行動だと考えて、魔獣の頭上までやってきた。


『いや、ソフィア…そんな事しなくて良いのに…』


 頭の中に声が響いくる。


 それは、本当に本当に幼い時、大好きだった人の声。


 ソフィア・パナスの封印された記憶。


 その人のためだと思って何かをすると、決まってその人はこう答えてた。


 余計な事はしなくて良いよ?と…


 それに対してエリエル=ソフィアは、いつもこう答えていたんだ。


「え?でも、こうして欲しかったんでしょ?クルーアお兄ちゃん?」


 おそらくこれが終わった後、エリエルはこの事を覚えてないだろう…



 魔獣のそばまで降りていき、静かに魔獣に手を触れと、エリエルの放つ青白い光が強さを増して、その光が魔獣に触れるエリエルの右手へと集まっていき、一気に魔獣へと流れ込んでいく。


 次の瞬間、魔獣が何かに押し潰されるように崩れ落ちる。


 強い力で押されたとか、何かとてつもく重いものが上に乗ったとか、そういう事ではない。


 巨大化はとっくに止まっている。これ以上大きく重くなる事は無いはずなのに、魔獣の重量が突然増えて、自重に耐えきれなくなって崩れ落ちたのだ。


 何が起こったのか分からずに、魔獣は困惑するけれどそれは一瞬の事。


 すぐに魔獣の重量は元へと戻るが、元に戻ったから一安心とはいかない。


 目の前の人間に致命的な隙を見せた事になったからだ。


 幸いにして、目の前の人間が動く様子はない。


 動く前に立ち上がらなくては…


 魔獣は、大急ぎで自分の身体へ起き上がれと命令をし、身体はその命令を受け入れ、起き上がろうとする。


 …おかしい。


 身体は起き上がってると感じるのに、魔獣の視界が上へと上がらない。


 間もなく、身体が自分の命令を受け付けなくなる…いや、命令が届かなくなったという方が正しいか?


 感じると同時に地響きが起き、視界が揺れる。


 揺れると同時に、今度はその視界が霞んでいく…


 魔獣の目に最後に映ったのは、目の前の人間が持つ剣の刃が砕ける姿。



 その剣によって、頭と胴体が切り離された事を、魔獣が理解する事も無いままに、一体の魔獣によって引き起こされた騒乱は、終わりを迎える事となる。

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