最終話:真白の下で、踊れ。

1


 ずっと変わらない。今日の続きがまたやってくる。


 新人作家の重版決定を祝うパーティーに出席したのは担当がしつこく誘ったからだ。

「若い刺激に触れれば先生だってまた書けるようになります。変われます」だってよ。

 

 そう言い放ったのはつい数時間前のこと。変わったのは酒癖の悪さだけだった。


 2次会は安酒ばかりが出てきた。つまみが遅い。

 だから僕は文句を言い、アルコールを間髪入れず身体に流し込んだ。そういえば25歳の時、大学の同期に「お酒の失敗は今年いっぱいまでにしときなよ」と言われたっけ? 昔のことは考えないようにしてる。


「いいかい。君の文章はね、まだ粗いの。いいかい、全然磨きを掛けてない状態で発表した作品なんてね、世間の善し悪し問わず全て駄作だ。分かってくれるかな? 僕の言ってること」

 新人作家くんが僕の向かいで正座して、単なる絡み酒なのに実直に聞いている。


「おっしゃるとおりです」

 真っ直ぐな瞳を見て奥歯を噛みしめた。


 昔は良かったんだけどね。

 その言葉を聞くようになってから何年経ったのだろうか。高校生で文壇入りを果たした僕は昔は神童なんて呼ばれていた。貯まっていた金はもうそろそろ尽きそうだ。


「教えてください。先生が思う良作とはどういったことなのでしょうか」


 僕の賞味期限はもう何年過ぎているのだろうか。ずっと気づかないフリをしている。


「そういう態度、かんに障るんだよ! 先生ってね……僕は君の教師じゃないんだ。こういうのは自分で考えろ。それかそのポケットに入っているモノで調べてみればいいじゃないか」


 唾を飛ばす。

 槌のようにジョッキを振り下ろす。

 隣の隣に座る出版社の新人の男の子が僕をみている。ハイボールのジョッキをつかむ手が震えている。から揚げはずっと彼の皿に置き去りにされたまま、もうすっかり冷え切って、肉の繊維は固くなっている。


「先生、ちょっと風に当たりましょう。ね? 」

 担当編集の彼女に担がれてチェーンの居酒屋のドアを抜けると、雪が降っていた。


 星のない闇。

 靄がかった空を見上げる。

 踊り場の窓の右上の隅に蜘蛛の巣が張っている。 

 

 無色の僕らの前で街だけが、ただ真白に染まっていく。 


「見てください。降ってますよ」


「別に珍しくない」


 階段を下りて、彼女と建物の外に出る。

 伸ばした右手の上に雪が舞い落ちて、掌の中でしんと形を失っていく。


「そうは言っても触りたいんですね。子供みたい」


 こころはこんなにも陰鬱なのに、目の前は静謐な美しさで、そして僕はそこにただ佇む美しさを言葉で言い表せない。それが歯がゆかった。


「五月蠅い」


「はいはい、そうですね。雪なんて、だって先生は長野のご出身ですもんね」


「白々しい。知ってるくせに」

 ふふふ、と彼女はただ笑う。スマートフォンの液晶が光って彼女の顔を照らす。何かを入力して耳に当てる。

 相変わらずこの人の横顔は美しい。


 離婚したのは昨年の4月のこと。

 アパートの前の桜が丁度咲き始めた頃、そんな話が出て僕らは結婚した。それから一年住処を共有して、桜が散るとともに僕らは別の人生を歩み始めた。別に喧嘩別れというわけではない。だから今だって信頼できるビジネスパートナー。それはきっと二人の間に子供がいなかったからだろうか。


「なぁ、もう少し歩かないか? ここの近くにバーがあるの知ってるだろ? 」


「冗談を。今、タクシーを呼びましたから」

 彼女はすでに僕のクラッチバックを抱えていた。薬指にはめられた指輪が光っている。はい、とスマートフォンと革の小銭入れを渡される。

 

「そうか。僕は、除け者か」

 彼女のほころんだ顔が温度を失う。


「ええ。はしゃぎすぎよ。ちょっとは大人になりなさい」

 冷や水のような彼女の言葉が胸を刺し、身体の芯を冷やす。


「説教なんて勘弁してくれ。ただでさえ最近この風が腰に障るというのに」


「じゃあ、分かってますよね」

 能面のような笑顔。

 女性は本当にいろんな顔を持っている生き物だ。この人を見るといつも思い知らされる。


「わかったよ。消えればいいんだろ」

ええ。と彼女が微笑んだ


 彼女が運転手に行き先を告げ、僕は後部座席に放り込まれた。ドアの閉まる音に何故か驚いて、反射的に苛立ちが顔の表に出た。

 彼女は少し驚いた顔をして、また柔和な笑顔に戻った。


「大人げないなぁ、僕は」


 俯くと窓を叩く彼女。顔を上げると、彼女は―――どんな顔をしていたのだろうか。


 閉まったドアの窓越しからじゃ、ガラスが溶けた雪で濡れていて顔は見えない。

 いや違うか。彼女の顔が見えないのは僕が瞼を拭っているせいだ。

 顔を覆っていた右の掌をコートの裾で拭った。





 瞼を開けるとタクシーは知らない道を走っていた。ラジオから流れてくるのは若いパーソナリティの声。パーソナリティは相談内容を少し噛みながら読み上げている。

 降り続く雪がフロントガラスに当たる。雪は星屑みたいで、まるでSF映画のワープシーンみたいで……ん?ワープ?

 そういえば窓の外にはきらびやかなイルミネーションもないし、そもそも店もない。見えるのは緑の看板のみ。


「あれ? ここは……」

 そこで微睡んでいた意識がやっと覚醒した。


 問いかけたのにもかかわらず、運転手からは返事がない。

 タクシーは真っ直ぐに僕の知らない道を進む。

 助手席の前にあるネームプレートを確認すると、運転手は女性だった。年相応の弾けるような笑顔で高校の時に好きだった子にちょっと似ている。


「ちょっと、運転手さん? ねぇ、聞いてますか? 」

 返事はない。ならば女性だろうがなりふり構ってはいられない。だって僕は今、誘拐犯と対峙しているかもしれないのだから!


「ちょっと―――! 」


 思い切り肩をつかんで後部座席から身を乗り出すと洟を小さく啜る音が聞こえた。


「え、泣いてる? 」


 目に入ったのは真珠のような輝きを纏った横髪だった。あまりにも色が抜けているせいでコントか教育番組に出て来る女エイリアンみたいに見える。それか雪女。いずれにしてもこの世界の外の住人のような。


「……ごめんなさい」


 拭った瞼の周りは淡く紅く。


「あ、いや―――」

 僕の目は―――奪われていた。


 ハンドルをまるで命綱みたいに握りしめているタクシー運転手の彼女は唇を震わせたまま話し始めた。


「ごめんなさい。わたし、道間違ったみたいです」


「間違ったって今更ですか? 家あそこから徒歩15分の所なんだけど」


「ごめんなさい。わたし方向音痴だから」


「え、じゃあなんでタクシーなんてやってるの? 」


「なりゆきで」


「なりゆき??? 」


 はい、と彼女が小さく嘆息をつく。

 いやいや溜息をつきたいのは僕だよ……と言い返したいところをぐっと堪えて、僕は数百メーター先にあるサービスエリアにタクシーを止めさせた。


「トイレ行くついでに缶コーヒー買ってくるけど君は何かいる? 」

 

 何をしているんだろう、とふと思う。


「あ、じゃあわたしはそこのソフトクリームでいいです」


 意外と図太い神経してる。


 だが見上げた瞳と真っ赤に腫らした瞼を見ると言い返そうとした言葉は喉の奥にスッと隠れてしまった。項を掻きながらもう酔いが醒めていることを自覚する。

 パーキングを出て行くファミリーカーのヘッドライトが目の奥に沁みて瞼を擦りながらトイレに入り、これは夢なんじゃないか、と考えながら用を足して鏡を見た。


 頬骨のあたり。ぴちんと痛い。


 戻ってくると、ずっとそうしていたのか、それとも仮眠を取っていたのか。運転席で俯いていた彼女が重たそうに顔を上げる。

 あ、目元が崩れている。


「ほら、ティッシュ」


「ずびばぜん」

 小さな肩はまだ震えている。


「別に怒ってないから安心してよ。ほら、」

 ありがとうございます、と、彼女がバニラソフトを受け取る。助手席に乗り込むと、柑橘系の香水が鼻先をくすぐった。


「で、何があったんだい? 」

 おじさんに話してごらん。とは言わなかったがまるで子供を諭すように口調を変えた。大学の頃の劇団経験が意外と役に立ったみたいだ。


「わたし、ご当地アイドルなんです。ユニット組んでて、」


「は、はぁ……」


「よく、アイドルが街のお仕事体験するみたいな企画あるじゃないですか。ソレで今月はわたしが当番で、わたしこの通り地味じゃないですか? 別にダンスが上手いわけでも歌がうまいわけでもないし、総選挙の順位も良くないし。だからロケぐらい頑張ろうと思ったんです」


 嫌な予感しかしない。だけど僕は黙って聞くことにした。


「で、タクシー会社に行ったんです。でもわたし免許持ってるけど全然車なんか外で乗ったことなくて、それでもワタシには今これしかない。頑張るしかないと思って、だから調子よく話しを受けちゃったんです」


 彼女がまた洟を啜り、目尻を人差し指で拭う。

 地味なんてそんなこと微塵も思わなかった。渋谷駅に新しく建った商業施設のスクリーンに映し出されてもおかしくないくらいの輝きが彼女には在る。涙を拭う人差し指は細くて、まるで硝子細工みたいだ。だけど人間はそれだけじゃない。


 得手があれば、もちろん不得手もある。

 多分彼女はその、不得手の部分が今の魅力のほとんどを塗りつぶしてしまっているのだろう。


 彼女は慣れないお仕事ロケに精一杯取り組んだ。だけど精一杯になればなるほど周りは見えなくなるもの。

 案の定、彼女は空回りを続けて勝手に自滅し、自己嫌悪に陥ったところで丁度、運転手の一人に絡まれたらしい。


「その人言ったんですよ。『この場所はな、女の子がオママゴトするところじゃねぇ』って」


「そりゃあ、ひどい」


「ですよね! いくら何でもそんなこと言わなくてもよくない? そう思うよね? 」


「あのさ、僕は君のお友達ではないんだけど」


「あっ……すみません」


 素が出て口調も乱れている。大分、根に持っているみたいだ。

ああ、危ないって。その手に持っている溶けかけのアイス頼むから早く食べきってくれないだろうか。切に願いながら僕は話の先に耳を傾ける。


「それで、『だったら、やってやる』って、たんか切っちゃったんです。で、街に出て、あなたを乗せました」


「え? 待って。てことは、言うなればこのクラウンは盗難車で、君は絶賛暴走中って……ことではないよね? 」

 

 静かに彼女は頷いた。震えがそこで止まった。


「あちゃー。随分とお転婆を」


「……はい」


 もう、お手上げだわ。こりゃ。


 いつの間にか止んだ冬の夜空を見上げながら缶コーヒーの残りを飲み干す。生ぬるい。マックスコーヒーになんてするんじゃなかった。

 はー、とついた白い溜息が夜風に流され静かに消える。

 周りを見渡すといつの間にか隣にも、向こうにも、車はいない。端の方でハイエースの明かりがぽつりと一台だけ見える。


「きみはかわいい。けど残念な人ですね」


「かわいい? ほんと? 」


「えぇ……そこ? 」

 飛び出してきた彼女の身体をゆっくり後ろに遠ざける。


「だってかわいいなんて言ってくれた人。いなかったから」

 拗ねてるように背を向けて窓の外を見ながら彼女が呟く。窓ガラスが彼女の息で白く曇った。


「そうなんだ」


 とは言ったが、まぁ、そうだろうな。

 だって、彼女が気づいていないだけで周りは彼女の魅力に気づいている。というより、思い知らされているのだろう。

 だから素直に言葉なんて紡げないし、事務所は彼女を養う責務がある。褒めないのは世間知らずの彼女に胆力をつけさせるためなのだろう。


「そういえば、お客さんは何されている方なんですか」


「僕はねぇ……なにも」


「えっ、ニート? 」


「違う! 失礼だな君は」


 反射で否定してしまった。


「じゃ、なんです? 」


 喉につかえた小骨を出すみたいに、小説家と呟いた。どうしてすぐに言えなくなったのだろうか。気づかないふりをこんな時でも、知らない人の前でさえも、続けている。


「へぇ、センセイか」


「まぁ、そうだよ」


 彼女の瞳にフィルターがかかったのがはっきりと見えた。

 その瞬間喉の奥がざらついた。両肩がゆっくり沈み、開いていた瞼が日差しを遮るように落ちる。

 テレビでも、ラジオでも、カルチャー系のネット記事でも、幾度となくされてきた質問。まるで子守歌みたいに単調で、インタビュアーはすっかり彼女に変わってしまった。


「なぁ、もう勘弁してくれないか」


 電柱にぶつかった犬みたいにはっと気がついた彼女は前のめりになった身体を即座に引く。


「ごめんなさい。小説家さんなんて会ったことがなかったし、地元の友達にもいなかったから」


「そりゃいないでしょ。だってこんな陰気な奴じゃないとやらないからね」


「そうなんですか? 」


「そうだよ。だって僕は出来ることなら普通に会社員やって、奥さんと子供に看取られながら死んでいきたかったんだ」

 助手席のドアを僅かに開いて、煙草をくわえる。

 彼女に背を向けて僕は肺に溜めた煙を開けたドアの隙間に吐き出した。


「本当だ。確かに陰気ですね」

 ふふっと彼女が口元を細い指で隠しながら笑う。


「お客さんに向かってそんなこと言う? 」


「あっ……ごめんなさい」


 会話が止まる。

 車内の静寂の中、聞こえてきたラジオからパーソナリティの声。

 再び降り始めた雪にフリートークの内容が吸い込まれていく。

 どこかでトラックが走っている。タイヤに着けられたチェーンの音が聞こえ、時刻を見るともう0時を越えていた。  


「でも、そうはなれなかったんですよね」


 振りかえると彼女の横顔は髪で隠れていて見えなかった。車内灯のオレンジが彼女の髪に反射していた。







 突然彼女が口を開いたので何のことか、と思ったが鼻の奥にメンソールが抜けていくのとともに「僕が会社員になれなかったこと」だと気がついた。


「うん。なれないみたいなんだ」


「わたしもそうです。普通に就職して、仕事が出来る格好いい先輩と結婚して、夜は彼の食事を作って、昼はお隣さんと話して……そう思っていました」


 消え入りそうな声で彼女が呟く。振りかえると涙は出ていない。だけどソレを必死にせき止めているかのように彼女はしまいこんだ下唇を噛んでいる。


「でもそんなの無理だった。だって自分が、大嫌いなんだから」

 いままでめそめそと泣いていたのに、何故そこは堪えるんだ。泣いてさんざ喚いてさ、そんなこと漂白剤に着けてしまえばいいのに。洗い流してしまえばいいのに。


「認めたくないんです。こんな身勝手で空回りばかりの自分」

 彼女の肩はこんなにも震えているのに、それでも泣かない。


「死んじゃえって毎日思うんです。でもそれと同じくらい生きたいって思うんです」

 相反する感情が必ず人の心の中には存在する。

 だけど彼女の場合は、振り幅が違うのだろう。だから園児が取り合う人形みたいに彼女のカラダは今、引き裂かれそうなのだ。


「センセイもそういうときありませんか? 」


 鋭い氷柱が僕の心臓に刺さった。

 見開いた目と小さく震え始める僕の指先。心臓がゆっくりと体温を失っていく。


 咄嗟に僕は窓の外を見た。


「ないよ、そんなのあり得ない」


 すきま風はこんなにも冷たいのに、背中が生温かく、嫌な感じがする。まるで湿った手でひたひたと触られているような、そんな感覚。


 もう、飼い慣らしたはずだった。


 僕の中にある「死ぬ」と「生きる」という感情はストーブの前の猫のように小さく丸まって静かだと思っていた。


「センセイは強い方なんですね」


「いや―――」


―――違う。


 ついに泣き崩れる彼女を見て、本当にこの人はよく泣く人だ、と思う。なんでここまで我慢してたのに今なんだよ、と思う。そして、自分の中にある暗闇が身体に溶けて広がっていく。蝕まれていく。


「なんです? 」


「……違うんだ」

 タイムリミットを告げるかのようにじりじりと煙草の先が短くなっていく。おい、嘘だよな?なんでちゃんと南京錠でしっかりと鍵を掛けとかなかったんだよ。だからこんな会って間もない女に土足で入られるんだ。 


「違うって? 」


「だからさ、」


 まるで冷え切ったタイルの上に裸足で立たされたみたいだ。

 身体の芯が暗闇に囚われる。

 コートを着ていても感じる寒さ。目でも心でも可視化できない恐怖が僕を優しく包み込んで

―――おかえりって。


 咥えていた煙草を携帯灰皿に落として、ポケットにしまうとドアを閉めた。


「どうしたんですか? 」

 いや、と吐き出した息が微かに震えている。


「ほんとさ、なんで夢じゃねぇんだよ……」

 どうしたって、こんな顔見せられるわけがない。


「え―――? 」


 信じたくない。認めたくない、こんな脆い自分。

 奥歯をいくら噛んだって止まりはしない両端の滴は次々と溢れて震える頬を濡らす。

 身体を彼女から背けたって今度は肩が震える。ずっと彼女を諭していた立場だったのに。大人は僕だ。僕じゃなきゃダメなんだ。おっさんの涙ほど醜いものはないのに。


「なんだ、同じなんですね」


 その時、彼女が僕の背中に触れた。


 小さな指先を背中に感じたときその感覚はやさしく波紋のように広がっていった。


 幼い頃の記憶がふっと蘇る。


 公園のベンチと文庫本。

 またな、と去って行く友達。

 それに燃える太陽。

 そして、なんの前触れもなく訪れた将来の夢。


 ぱらぱらと風のように軽やかにページが捲れて、僕もそうなれるんだと、ずっと信じていた。


 嫌だ。帰りたくない。もう、頼むから消えてくれ。僕の中から出て行ってくれ。もう、僕は僕じゃない誰かになんて戻りたくはないんだ。

 だって、青空で溺れるアヒルほど醜いものはない。

 

 だから―――書くことをずっと避けていたのに。


「大丈夫ですよ」


 分厚いコート越しじゃ彼女の体温は伝わってこない。だけど声を聞いてはっきりと分かる。柔らかいんだと、温かいんだと。

 ああ、やめてくれ。ほどけてしまいそうだ。


「気休めはやめてくれ」

 奥歯を噛みしめて、やっと言葉を紡ぐ。そうやって哀れむのはもう、やめてくれ。もう話しかけないでくれ。


「すみません。でも、こうして欲しそうだったから」


「そんなこと、思ってなんか」


「じゃあ少しの間。わたしが落ち着くまでの間でいいです。こうしててもいいですか? 」

 彼女はそう呟く前に僕の腰に彼女の手は回っていた。背中に彼女が覆い被さり、頬が触れた。


「つめたいね」


 触れた指先も冷たい。

 だけど淑やかで、まるで細雪に覆われていくみたいだ。


「センセイも同じです」


「そうか」


「ねぇセンセイ、元気がなくなったら結局こうするのが手っ取り早いんですよ」


「近くにそういう人がいなかったらどうするの」


「その時はその時です」


 無責任だな、と、悪態をつく僕の顔はいつの間にか自然とほころんでいる。

 あんなに拒んでいたのに、閉ざされた身体がほぐれていく。不思議な人だ。だから最初彼女の横顔を見たとき、怪異と接しているような感じがしたのだろうか。


「わかりました。そしたらセンセイがいつでも元気を出せるようにワタシが一肌脱ぎます」

 そう言った後、彼女は「変な期待はしないで下さいね」と僕に忠告して、運転席を下りる。


「そんなこと微塵も思ってな」


 手招きされたので車を降りる。

 風が痩せ細っていくばかりの身に沁みて、くしゃみをした。洟を大きく啜って、前を見る。

 

 彼女は跳躍していた。


 頭の中では眠れる森の美女が流れていた。運転手の制服じゃなく、白雪みたいなドレスだったらどんなに良かったのだろうか。


 駐車場の街灯に照らされたプリンシパルはぴんと伸びた爪先で空気を裂く。そのまま彼女は自由に向かって跳躍し、回転し、そして……


「おい―――! 」


 コンクリートに打ち付けられた。





「踊りは……苦手なんです」

 照れ笑いをしながら彼女は捻った足首をさする。僕は慌てて彼女のもとに駆けつけて、でも何も出来ないことに気がついた。


「じゃあ、なんでこんなことした! 」


「なんで、ですかね……笑って欲しかったからかな」


 へへへ、と彼女が笑う。

 身体を起こそうとすると彼女の体勢が崩れ、僕は慌てて肩を貸した。 


「こんなの笑えるわけないだろう! 」


「ですよね」

 運転席に再び座った彼女は俯いていた。


「わたし小さい頃、パリとかでバレエダンサーとして活躍するのが夢だったんです。でものめり込めばのめり込むほど見えてくるんですよね。自分のラインってのが。で、気づくんです。『水面には一生、手が届かない。続けていても溺れるだけだ』って」


「じゃあ、アイドルを続けてるのはなんで? 」


 なんとなくワケは分かっている。けど僕は確かめるように彼女に聞いてしまう。


「諦められないんですよ。目指す気力なんてもうほとんど残っていないのにそれでも追いかけたいんですよ。こればかりはもう、どうしようもないんです」


 どうしようもない。

 やっぱりそうか。彼女の一言が僕の胸に落ちた。


「君はまだ続ける気でいるの? 」

 彼女が顔を上げ僕を見る。表情が柔らかく変わり、僕の前で花が一輪咲いた。

 本当に女の人の表情はころころ変わる。いや、僕の見方が変わっているだけなのだろうか。残滓とか残り香とか。やっぱり実態のないものの隣にいる気がする。


「はい。もちろんです」


「そりゃ、どうしようもないね」


 外はこんなに寒くて、無機質なのに。

 周りは誰彼も自分勝手で、僕を振り回すのに。

 足は重く、もう枯れかけているのに。まだ、僕に歩けというのか。


「センセイもワタシと一緒に踊りましょうよ」


「いや、僕はそういうのに学がないから」


「そうじゃなくて、ワタシと踊ってくれませんか―――無様に、ね?」


 頬に彼女の指先が触れた。


 鍵盤を叩かれたように僕の頭の中で1音が鳴り響く。雪解けのような、あるいは新緑の風のような。


「『無様に』か。うん。頑張ってみる」


 僕が微笑むと彼女は真剣な顔で約束ですよ、と言う。

 背筋を伸ばされた僕の前にゆっくりと彼女の顔が近づいて―――唇が重なる。


 そして彼女の頬に触れて……


 うん?

 ヒゲ……?





 鉛のような首の痛みを覚えて目を開けると、見慣れた白い天井があった。

 鈴の音が聞こえて、目線を向けると猫が窓の朝日を浴びながら伸びていた。


「あ、ヒゲね……そういうこと」


 手を伸ばしてみたが指先が捕らえるのは窓から入ってくる冷たい空気で、何にも触れられなかった手は布団に再び落ちた。


 枕元には読みかけの週刊誌があって、窓際にはあの人が残していった観葉植物が佇む。気づいたときに水をあげているので彼らが生きているのか死んでいるのかは分からない。


 つけっぱなしのテレビからは朝のニュースが流れている。

 起き上がって眼鏡を掛けると不祥事を起こした子が涙を拭きながら頭を下げていた。

 まだ、活動は続けられますか、と記者の質問が飛ぶ。

 彼女ははい、とだけ答えた。


 少し、垢抜けて見えた。


 チャイムが鳴り、猫が鈴を鳴らしながら短い廊下を走る。

 僕は、ゾンビみたいにまた鳴るチャイムに返事をして、転がる空瓶に躓きながらトランクス姿のままでドアノブに手を掛けた。















「あ―――」

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Short Film 野凪 爽 @yanan1001

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