第51話:金曜日の夜は飛べる気がして
プレミアムフライデー。
それは毎月、月末の金曜日は早めに仕事を切り上げ、その余暇を使い国民にゆとりと豊かさを与えようという試みだ。
都市部でも名の知れているメーカーに行った彼や、公務員に落ち着いた彼女は今頃何をしているのだろうか。僕は電子たばこを吸いながらキーボードを叩き続ける。
地方の電波でTOKYOーMXが映らないように、何処かの端っこに存在する集落にまで宅配ピザが届かないように、何にでも不平等というものが存在する。つまり、プレミアムフライデーというのは所謂、特権階級の人々が行使できるもので僕にはそれがない。
まぁ、そんな日々も終わりだ。僕は間もなく蹲ってばかりの蛹から蝶になるんだ。いや、フライにかけて蠅でも良いか。
1
新宿にある雑居ビルの一画を借りた小さなウェブデザイン会社、そこに僕は勤めている。大学を卒業してここに就職してもう5年が経つ。そろそろ頃合いかな、と、最近思うようになっていた。
心変わりの理由は別に上司のパワハラが辛いわけでも、取引先から納期に対してプレッシャーをかけられているわけでも、会社に仕事がないわけでもない。
僕の会社は社長と僕と同期の松江さんのみだ。一般企業であれば部署スケールのこの会社では喧嘩はおろか、噂話もない。というより何もかもが筒抜けなのだ。また暮らしている場所も偶然同じ沿線状にあるため、通勤時には鉢合わせすることも多々ある。
それに僕は社長には感謝している。去年の冬から僕の会社には大寒波が到来していた。それを3ヶ月程度で小春日和に回復させてくれたのは社長の手腕と彼の持つネットワークのおかげだ。
「横島君、そろそろ終わりにして飲みにでも行きませんか?」
「ああ、それって駅前に新しくできた居酒屋ですか」
「おっ、そうそう。なんだ話が早いですね。今日分の仕事はだって終わっているじゃない」社長は上機嫌で手首を口元でクイっとやる。
「ええ、まぁ」
ディスプレイには来年夏オープンのレジャー施設のホームページ案が表示されている。社長が僕の手元にいくつも横たわっている栄養ドリンクの空き瓶をつまみ上げる。
「こんなに根詰めてどうされたんです?これなんて納期だいぶ先の仕事ですよね」
はい、と言いながら僕はまたキーボードを叩く。
「先回りして仕事するなんて、なんか用事でも?まさか…デートでも?」
「違いますよ」僕は笑いながら社長の推測を真っ向から否定する。
「そんな相手がいたら僕は休日まで返上して会社に来ることなんてしてませんよ」
確かに、そうですね、と社長は笑う。
「そういえば、松江さんはさっさと仕事を切り上げて彼氏のもとに行ったみたいですよ」
「ああ、今日記念日らしくて」
「ほう。でも横島君はそういう予定はからっきしですね、相変わらず」
「いいんですよ。人にはそれぞれの幸せの形というものがあるんですから」
「そう言っていると、私みたいになってしまいますよ」
「仕事に生きる社長のようになれるのなら本望ですから」
キーボードを叩き続けながら僕がそう言うと、社長はもうこれ以上誘ってもこの男はなびかないだろう、と判断したみたいだ。
「思ってもないことばかり口にしているといつかその通りになってしまいますよ」
社長はオフィスチェアの背もたれに掛かるスーツジャケットを肩に掛けた。
「んじゃ、戸締りお願いしますね」
「分かりました。おやすみなさい」
僕はそれから1時間ほど仕事をして、ビルの地下駐車場に向かう。
キーのボタンを押すとプリウスのヘッドライトが暗闇の中で一度だけ明滅する。
時刻は深夜の1時過ぎ。だけど街は明るい。太陽光ではない多くの人工的な明かりの下には派手な髪色の若者や、それに向かって吠える酔っ払いや、これからホテルに向かうであろう女子高生とサラリーマンが歩いている。みんなもうすぐ終わろうとしている金曜の夜の中で踊り続けている。
金曜日の夜には不思議な魔力がある。
金曜の夜は人を開放的な気分にする。僕も例外ではない。
金曜の夜、近所にできた居酒屋に一人でふらっと入ったり、そうでない週は帰りがけにコンビニに寄ってジャンクフードと缶ビールを買って庶民なりの贅を尽くすこともある。いつもは350ミリ缶なのを金曜だから500ミリ缶にしたゃったりして。庶民なりの贅沢というやつだ。
きっと金曜日の夜には夜風とともに人の理性を何処かへ連れ去ってしまう魔法がかかっているのだろう。そんなことを思いながら僕は車を走らせる。
駅前ロータリーを通り過ぎるとギターをケースにしまう若者が目に入った。彼が撤収作業を終えるとともに霧散していくオーディエンス。
彼の人生は幸せなのだろうか、ふと思いながらウィンカーを点ける。
自分の声や歌に振り向いて、立ち止まってくれる人たちがいて、その人達と一時だが一体となって夜を過ごす。それはきっと気持ちのいいことなのだろう。だが音楽を聴いても腹がふくれないように明日、彼が生きるための糧に、金に、その時間がなっているか、と問われればそうとは言えない。
余計なことをまた僕は……と思いつつも、つい考えが廻ってしまう。それはきっと保証はないけどやりたいことをしている彼に嫉妬しているからだろう。
―――どのツラ下げて、どこへ向かうの。結果的には嘘つきじゃねぇの?
ランダム再生していたプレイリストからヒップホップが流れていた。
フロントマンは煮えたぎる拳で容赦なく僕を殴る。僕の瞳や鼻の奥に傷ができる。聞こえてくるギターリフができた傷痕に炎症反応のように沁みていく。打たれ弱い僕はいつの間にか泣いていた。どこでも良いから、遠くへ行きたい気分だった。
2
適当に方角を決めて当てもなく、なんて考えていたのに、見知らぬ道や店や景色が出てくる度にどうしようもなく不安になって、内向的に分岐のどちらかを選んで車を走らせていくと、辿り着いたのは一番辿り着きたくない場所だった。
「何が、いざ、最北端へだよ・・・・・・」
辿り着いたのは僕の育った街だった。ここは何もない場所だ。だからこそ出てきたのに何でここに僕はまたいるのだろう。うなだれながら寝静まった街で僕はうろうろと車を走らせる。
学校の屋上に僕はいた。不審者以外何者でもない僕が何の検閲もなく、学校に忍び込めたのは共犯者がいたからだった。
「何年ぶり?」
隣で笑う共犯者は高校の同級生で、昔、僕が好きな人で。よりによってだ。帰ってきて一番会いたくない人と遭遇してしまった。
「えっと、大学時代に地元でプチ同窓会した時以来かな」
「あー、それって大輔君と由依と秋雄君とあたしで集まって呑んだ日のこと?」
「そうそう」
「それ、同窓会って言う?」
「だから「プチ」って言ったんだけど」
「なにそれ」
屋上には僕らの笑い声だけが響く。
県をひとつ跨いだだけだというのに此処はこんなにも静かだ。頭上には高層ビルに象られずに伸び伸びと広がっている夜空がある。
秋の終わりを感じさせる風で身体が冷えてきた。
ライトダウン羽織ってくればよかったと思いながら隣を見ると、彼女は小さな毛布をマントのようにして身体を包んでいる。
「いいなぁ、それ」
「いや、意外とそうでもなかった」
足元を見ると、彼女の膝が震えていた。彼女も寒いのは僕と変わらないようだ。
「そういや、なんか雰囲気変わった?」
「うん。まぁ思うところがありまして」
彼女は長かったはずの前髪を掻き上げた。指股からはすぐに金色が消えていく。
運動部の男子ぐらい短くなった髪型も、金髪も、薄花色の瞳も、それはそれで彼女によく馴染んでいる。
「どう?」
「うん。似合ってるよ」
「そっか」彼女が笑う。
きっと何かがあった、もしくは何かを乗り越えた後なのだろう。安堵のようなあるいはため息のようなものが彼女の笑顔に滲んでいる気がした。
日本に残ると言って喧嘩したらしいご両親とはいま、うまくやっているのだろうか……ああ、クソ……余計なことをまた僕は考えている。
「公務員も残業あるんだね」
「うん。今年から美術部の顧問も、担任も持っちゃってるからね。いろいろ大変なの。やっと仕事が一段落ついたとこだよ」
「今日はプレミアムフライデーなのにね」僕が吐き出した長い溜息が夜空に霧散していく。
「大輔君もおつかれみたいだね」
「ま、それなりにね」
彼女は何がプレミアムだよ、と叫んで笑った。
仕事の愚痴をこぼしながら笑顔を咲かせる金木犀は出逢ったあの時よりも遙かに垢抜けていて、すっかり大人の女性だ。この笑顔の隣にいることができたらなんてことを今更思い、僕は彼女に見られないように下唇を静かに噛んだ。
今日僕は死のうとしていたんだよ、なんて言ったら彼女は止めてくれていたのだろうか―――。
「ねぇ、外寒いし大輔君の車の中で話さない?」
突然の提案に僕は返事に困った。
なぜなら車の中は電子たばことはいえ、ヤニのニオイが染みついているかもしれないからだ。
こんなことになるのなら松江さんがおすすめしていた車内用のディフューザーでも買っておけば……他人の惚気話でも親身に聞いておく重要性を僕は初めて知った。
「いやぁ……夜も遅いし帰ろうよ」
「誰のおかげでここにいれるのか、大輔君は分かってるのかなー?」
急所を突かれて、まさにぐうの音も出ない状態に僕は陥った。それにしても、こんなにこの人強引だったろうか。
いいでしょ、と迫る圧に結局、僕は押し負けた。
本当なら彼女の薬指を指して「本当に良いの?」とだけ問いかければ未来は違っていたのだろう。
でもまぁ、金曜日だしいいか、と、無理矢理こじつけながら僕は先に降りていった彼女の後に続いて車の助手席のドアを開けた。
「男の人のニオイがする」
それはどういった意味の言葉なのか、僕は問いただしたかったがやめておくことにした。彼女がドアを閉める。額にじわっと汗が浮かぶ。
「どこか行く?」
「どっか。誰も知らないところ」
「かしこまりました」
僕はパワースイッチを入れ、シフトレバーをドライブポジションにして明かりの消えた住宅の前からゆっくり車を出す。主張が控えめなエンジンはこういうときに助かる。
3
内向的な僕と違って外交的な彼女に任せて分岐や交差点を曲がっていくと、いつの間にか高速道路に乗っていた。この人が隣にいるといつの間にか東北にまで行ってしまいそうな気がする。
どことも分からない峠を越え、その頃から僕も彼女も帰り道のことなんてどうでもよくなっていたため気の向くままに右へ左へ。そしたら今度は車内がよく揺れた。いつの間にか僕らは舗装されていない道を進んでいたのだ。
そうか。これも金曜日が僕たちをバカにさせるせいなのか。
やがて僕らは本当に誰も知らないところへ僕らは辿り着いていた。
「これじゃ遭難だよ」
ヘッドライトの狭い視界の中で檻の柵のように大木が乱立していた。パワーウィンドウを下げると夜風とともに木々の葉が震え微かに音を立てていた。
「大丈夫。来た道覚えてるから」
「本当に?」
「私ね、意外と記憶力いいんだよ」
「どうだか」
ここは森の中だということは分かったが、もう、元来た道を戻る自信なんて僕には無い。それに彼女の言葉も手放しには信じられない。
本当は自身がないのだろう、彼女からこれ以上返答はなかった。隣を見ると彼女は黙ったまま蹲っていた。
「ごめん……トイレ、行きたくなっちゃった」
「へ?」
慌てふためく僕をよそに彼女はよっぽどもよおしていたのか、助手席のドアを開け放ち一目散に茂みの奥へと消えていった。
幸い、音は聞こえないが、僕は車内で堪らなく居たたまれない気持ちになった。顔が熱くなっていく。
くそ、こうなるのなら松江さんの話をちゃんと聞いて携帯トイレを買っておけば……なんてそんな話はない。それに女性の涙を拭くためのハンカチを持つ甲斐性と携帯トイレを持っていることはまた別の話だ。
数分経って、晴れやかな顔をして彼女が帰ってきた。
「ふー、すっきりした」助手席に再び乗り込んだ彼女は胸を撫で下ろした。
「わざわざ言わないでよ」ごめん、と言って彼女が笑う。
外でできるのはやっぱり国土の違いからなのだろうか? まぁ、何にせよ彼女が笑っているのならそれでいいか。
「ごめん」
こんなによく笑う人だったかな、と思いながら僕は昔のことを思い出していた。
* * *
彼女は僕が高校2年の秋頃に転入してきた。
一年が経ちクラスの中はなんとなくだがグループ分けが済まされカーストができあがっている。そんな中で異分子である彼女はクラスに馴染めないでいた。
当時、彼女は自分の髪色が学校の中で浮くのが嫌で黒く染めていた。だが時が経つと地毛の色が浮かび上がってきてしまう。だから分け目に近い部分は金で毛先は黒になってしまい、彼女は所謂、逆プリン状態によくなっていた。それをクラスメイトはからかうことはしないが色眼鏡で見ていたことは明らかだった。
彼女が転入してすぐに文化祭シーズンが到来する。
僕らのクラスの出し物は検便が面倒だ、と言う理由で飲食系の出し物は選択肢から外され、数分の会議の末、一番無難だという意見に押されて校門に設置するアーチ制作に決まった。
クラスメイト達は班分けされたわけでもないのに波長が合うもの同士で勝手に小さなグループをいくつも作って、パネルの上に指定されたイメージ通り線を描きそこに色を塗っていく。彼女は案の定独りぼっちだった。
「その花なんていう名前のやつ?」
「これはプリムラオブコニカっていうの」
彼女がまるで独り言のように呟く。おそらく彼女はまだ話しかけられたことを自覚していないのだろう。もうすでに色が塗られているパネルに添えるように彼女は『青春の輝き』と言う花言葉の花を描いている。
数秒間を置いて彼女が勢いよく僕の方へ振り向く。今更彼女は僕に話しかけられたことに気づいた。
「あっ…あの、別にこれは落書きじゃ、いや、落書きなんですけど、でもっ、このパネルは足下に設置されるし、それにあたしが描いているところは、いや、そうじゃなくって……」
違う違う、と言いながら彼女は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。普段丸まっている彼女の背中が余計小さく丸まって見えた。
「絵、昔から描いてるの?」
てっきり落書きについて追求されるのかと思っていたのだろう、顔を上げた彼女は僕の顔を呆然と見ている。瞼には微かに涙が溜まっている。
「えーっと……6歳くらいから」
「そんな小さい頃から?」
アーチの足下にはもうプリムラオブコニカが描かれていたのではなく、咲いていた。
「うん。絵は描くのも見るのも好きだから」
「だから、こんなうまいのか」
僕は彼女が描いたプリムラオブコニカを見つめ続けていた。彼女は自分の肌でも覗かれたかのように恥ずかしがっていが、僕はそれに気づいていなかった。なぜなら指定されたイメージ通りに描かれているデザインのどれよりも彼女が描いた一輪の方が僕の目には何十倍も華やかに見えたからだ。
「あのさ、もっと自由に描いてみない?」
「え―――」
また呆然としている彼女の手を取って僕は離れていたグループに戻る。戻ると幼なじみの秋雄が僕に向かって愚痴をこぼす。つべこべ言わない、と昔から僕ら二人の姉役である由依が秋雄の頭を叩く。
「あたし、坂野由依よろしく」
筆を止めて由依が手を伸ばして握手を求める。
彼女が伸ばされた手を握ると、由依はすぐに彼女に転がっていた筆を手に取り「一緒にやろっか」と彼女を誘った。
秋雄が「それ、俺のなんだけど」と言いきる前に由依は僕等男子二人に買い出しを命じた。
昇降口にある紙パックの自販機で人数分のフルーツオーレを買い、作業場へ戻る。
「さすが由依だよな」
「うん、さすが僕らの姉貴だよ」
由依と彼女が一緒に筆を動かしている。二人はまだぎこちなくも見えるが、彼女の表情にいくらかやわらかさが生まれている。
僕と秋雄はまだ残る夏の熱気に少しのぼせながら彼女たちを見る。顔を上げた由依と目が合う。
「おい、そこのふたり。サボるなー」
やべ、と僕らは声をそろえぼやき、足早に二人の元へ戻っていった。新しくできた小さいがかけがえのない輪の中に。
* * *
「ねぇ覚えてる?」
何がと僕が言うと彼女は、高二の文化祭だよ、と返した。驚いた。同じことを考えていたなんて。
「今、思えば無茶な計画だったよね」
「何が?」
「何がって校門に設置するアーチのデザイン俺らが急遽変更して君に描いてもらったことだよ。いくら秋雄が生徒会役員だと言ったって今思えばかなり無茶な提案だった」
彼女が装飾したアーチが文化祭期間中有名になり、僕等のクラスは表彰までされた。そしてそれがきっかけで彼女はクラスにあっという間に溶け込み、それどころか瞬く間に彼女は学校の有名人となった。
「あー、そんなこともあったっけ」
彼女の反応は薄い。
僕にとってあの出来事はとても大きなことだったのだが、今の彼女にとっては些細なことなのだろうか。
思えばあの時からだ。彼女を遠く感じるようになったのは。
為す前はあれほど大きく感じていたのに、為した後、僕等は為したことの大きさをすっかり忘れてしまう。きっと彼女もそうなのだろう。
「そうじゃないよ。私が思い出していたのは後夜祭の花火大会の時のことだよ」
「なんかあったっけ?」
彼女の長いため息が車内に充満する。
覚えてないの、彼女はこちらを向き僕に詰め寄った。
必死に僕は思い出そうとしたがやはり何があったのかすっかり忘れてしまっている。と言うより彼女の顔が近くて、考えがどうにもまとまらない。
「花火大会の時、大輔君さ、私の隣で言ったこと覚えてる?」
「えぇーっと……『付き合ってください』とか?」彼女がバカ、と叫んで叩く。
「私が『なんであんなこと思いついたの』って聞いたら大輔君『君なら僕等の世界を簡単にひっくり返してくれる気がして』って言ったんだよ。覚えてないの?」
今、思い出した。
あの失言は慎ましく生きることがモットーだった僕の数少ない黒歴史のひとつだ。引き出しの奥の奥に仕舞っていたのに……自然と顔の表面温度がどんどんと上がる。
「あぁ……あれはその文化祭で僕もそれなりにはしゃいでいたからと言うか、まぁなんというか、忘れて」
「嫌だよ」
彼女の声に僕をからかうような軽薄さは含まれていなくて、伝わってきたのは切実な想いだった。驚いて振り向くと彼女は真っ直ぐ僕を見ていた。大きく心臓が跳ねる。
「だってその言葉のおかげで私はまた絵が大好きになれたんだよ。『忘れて』なんてそんなひどいこと言わないで」
彼女の声は今にも木々のざわめきの中に消えていってしまいそうだった。
「ごめん」
なんとなくダッシュボックスの上に置いていた左手に彼女の指先が触れる。バカ、と再び呟いた彼女の瞳は微かに潤んでいた。心臓がきゅう、と音を立てて絞られていく気がした。
僕らは一度だけキスをした。
せわしなく過ぎる日々の中で僕らは翅をやすめるように唇を重ねる。9年ぶりに出逢った初恋はカカオ70%の味がした。
それから数秒間だろうか、数時間だろうか、沈黙が流れた。
「そういえば今何の仕事してるの?」
非日常から引き戻すように彼女が当たり障りのない話題を僕に振った。
「小さなWEBデザイン会社の会社員だよ」
「え、そうなの?」
「何だと思ってたの?」
「いや、てっきり画家とかイラストレーターとかになってるかと」
きっと少し通じ合ったと僕は安堵していたのだろう。だから可笑しくなって僕は吹き出した。
「よくいうよ」
「え、なに?」
「いや、なんでもない」
あの花火大会の日、パネル一面に広がった彼女の才能に僕の細い筆は折られてしまった。
「でも、美術系の大学に行ったんじゃなかったっけ」
「まぁね」
そうだ。僕は1度へし折った筆に何重にもセロテープを巻いたきた。だが苦しみ抜いた4年間を経て僕は何になれた?
あー、こんなつもりじゃないのに。内に籠ろうとする僕の心はどんどんと苛立ちに向かっていく。
「ねぇ、結婚生活ってどう?」
彼女は咄嗟に薬指を左手で隠して僕を見た。なぜ、僕を睨む?
「別に、どうということはないよ。息子は可愛いけど」
「へぇ」
「私は大輔君が羨ましいよ」
「え、なんで?」
つい、語尾が強まってしまった。僕の苛立ちに彼女が肩を少しすくめる。
「だって色々な柵がないじゃん」
僕には彼女の言葉が君はいつまで経っても宙ぶらりんだね、と言っているように聞こえた。
「あ、そう。僕は君の方がずっと羨ましいけどね」
冷たく言い放って僕は彼女に背を向けて目を閉じた。
「そんなつもりじゃ……」
「別にいいよ。お互いないものねだりばかりだ」
彼女から返答はなかった。数分経って彼女の方を見ると、彼女も僕に背を向けて寝息を立てていた。
「ごめん。おやすみ」
車内灯を消して僕は再び目を閉じた。
4
週明け、僕は何事もなかったかのように会社に行った。そして先週断った駅前に新しく出きた居酒屋で社長と松江さんと飲んでいる。
「アバンチュールですね」
「からかわないでください」
社長は半分ほど減ったグラスにまた瓶ビールを注いだ。この人どれだけ僕に呑ませる気なんだ。こうして得意先の人たちも沈んでいったのだろうか、いらぬ勘ぐりがまた僕の頭の中で廻る。
「それで、その後は」
社長の問いかけに僕は小さく首を横に振る。
結局その後、少し眠って車の中で朝日を見た後、何もなかったかのように僕らは来た道を戻ってお互いの家路についたのだった。
「連絡は?」
「いえ、それが何も」
向かいの席に座る松江さんが鼻で笑った。
「意気地なし」
「ちょっと、松江さん。飲み過ぎですよ」社長の笑顔には困惑が滲んでいる。
「社長いいんですよ。この童貞にはお灸を据えないと、大人の女性としてね」
酒に呑まれているくせに大人だなんてどの口が……心の中で独りごちる
彼氏に記念日をすっぽかされたらしく松江さんはここ一週間、こうして僕に当たり散らしてばかりいる。
「だから男は嫌いなのよ」
「それは、どうゆうことです?」
興味深そうに社長が松江さんに尋ねると、松江さんは舌足らずのままこう続けた。
「さっきもいったけど最近の男には意気地が無いの。その子、多分大輔に助けを求めていたはずよ」
最近の男とひとくくりにする松江さんに少し苛立ちながら僕が眉を寄せると、松江さんはなんか思い当たる節ないの?と詰問し続けた。僕はゆっくり帰り道のことを思い出してみる。
「あ、そういえば彼女僕に『大輔君は自由で良いね』って」
「それで、なんて言ったの?」
「いや、結婚してる方が羨ましいって」
松江さんの手が僕の頭に一直線に落ちた。小気味よい音が店内に響くと、周囲の客の何人かが僕たちを見た。
ふと、隣を見ると社長がいない。辺りを見回すと社長はすでにレジの前で会計を始めている。巻き込まれると察したのだろう。
「だって女性の幸せは結婚だっていうじゃないですか」
「あんたいつの時代を生きてるのよ。そんな考えはとっくに風化してるわ」
松江さんに僕は叱られ続ける。
何と返してもため息をつく松江さんと彼女の横顔がなんとなく重なって見えた。別れ際、彼女が言った言葉をふと思い出した。
―――あなたの毎日を生きたいと思っている誰かはいるんだよ。
アパートに着いて助手席から降りるとき、彼女はそう言ったのだ。
朝靄の中で見えなくなっていくあの背中を引き留めていたら、何か違った未来があったのだろうか―――僕の悪癖がまた顔を出す。
居酒屋の出て駅に着くと、松江さんは憑きものがとれたかのか、晴れやかな笑顔で颯爽と埼京線のホームに消えていった。
社長と別れて僕もホームに向かう。終電の閑散とした車内には酔っ払いが眠りこけている。真っ黒な車窓に僕の草臥れた顔が映った。
アパートに帰ると、ベッドに自然と吸い寄せられる。倒れ込むとスマホがスラックスの右ポケットの中で振動していた。
仰向けになってスマホの液晶を覗くと、彼女からメッセージが届いていた。
[私さ、大輔君のこと好きだったんだ]
「なんで……いまさら」
電話を何度かけ直しても彼女が出ることはなかった。
5
それから三ヶ月が過ぎた。
約15回魔法使いが僕の前で手招きしていたが僕は翅を生やすことなく、地べたに足をつけて今日も生きている。
一回の共同ロビーに降りて、自販機で缶コーヒーを買い、となりのベンチに腰を下ろす。足を組み、スマホでネットニュースを見ていた。似たような不幸の幾つかと芸能人のスキャンダルがトピックに並ぶ。
液晶の上を滑る指先が止まった。
20代女性教師、
虐待夫、
死体遺棄、
逮捕。
まさか、と思った。なぜなら記事に貼り付けられている死体遺棄現場に僕は見覚えがあったからだ。頭の中で3ヶ月前の記憶の断片が有機的に繋がっていく。
男子高校生くらい短くカットされた彼女の金髪。
時折見せる、疲れを無理矢理誤魔化すような笑顔。
そして着いた途端、トイレといって藪の中に消えていった後ろ姿。
合点がいってしまった。
彼女は当てのない旅をしたかったわけではなく、『殺害現場の下見』という明確な目的があった。そして僕はそこにたまたま居合わせてしまったのだ。
―――あなたの毎日を生きたいと思っている誰かはいるんだよ。
耳元でまた囁かれた気がした。
同情するわけでもない。彼女とのこの先を望むわけでもない。
ただ僕は「ごめん」と伝えなければいけない気がした。ロビーを飛び出した僕の背中に追い風が吹いた。
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