第10話:風邪と悲鳴

 ロウソクほどの明かりもない真っ暗闇の中でアリアは1人立っている。


 音もにおいも感じられない空間は、しかし不思議と安心感があった。


 アリアが漂うように立っていると背後から視線を感じた。


 振り向いてもやはり何も見えない。


 だが依然としてアリアをじっと見つめる視線は彼女を離さない。


 すると次第に遠くでペンライト程の小さな光を中心に渦が起こり始める。


 渦は大きくなるに従ってその形は崩れ、万華鏡のように絶え間なく形を変化させながら歪んでいく。


 巨大化する歪みは空間を侵食していきアリアへと迫る。


 アリアは逃げること無く得体の知れない歪みを見続ける。


 目の前の歪みに恐怖を感じるものの、同等に温かみや信頼も感じられた。


 歪みが地を這う蛇のようにねっとりとアリアに触れた瞬間、彼女の意識は海底に沈んでいった。


 アリアはベッドで布団を被りながら天上を見つめていた。最近よく同じ夢を見る。


 翌日はまだ雨水を吸い込んだ地面や濡れた草木の匂いが香り、雨の名残を感じられた。


 遠くから聞こえる鳥の鳴き声が、目覚め始めた自然の中で唯一聞こえる。


 覚醒しきらない頭を持ち上げ、アリアはベッドから降りる。


 寝間着のままリビングへ行くと、人の温もりがない寂しさが居座っていた。


 キッチンに入りヤカンを火にかけて、ぼんやりと外を見る。


 そろそろ地平線から陽が鮮やかに漏れ始める頃合いだったが、生憎の天気のせいで夜中のように暗かった。


 落し蓋のような曇天は、アリアの心にも蓋をして冷たい空気を染み入らせようとしているようだ。


 アリアの夢が彼女を感傷的にさせているのだろうと考える一方、この浮遊した意識が染まっていく感覚を心地よくも感じていた。


「カタカタカタカタッ」


 沸騰した水の蒸気でヤカンの蓋が小刻みに震えた。アリアは火を止めてコーヒーを淹れる。


 苦味とほのかな甘さを含んだコーヒーの芳醇な香りが湯気に乗ってアリアを包み込んだ。


 リビングに戻りソファに掛けてコーヒーをすする。


 熱いコーヒーが喉を通って体がやっと目を覚ます。


 アリアは30分のんびりとしてから朝食を作り始めた。


 暫くするとシェイナが起きてきた。


 彼女は寝癖の付いた頭を掻きながら冷蔵庫を漁って残り少なくない牛乳を容器から直接飲み干す。


 アリアがだらしないと注意してもシェイナは生返事を返すだけでリビングに行ってしまった。


 シェイナが倒れるようにソファに横になるのを見て、アリアは小さくため息をつく。


 シェイナは可愛い顔をしているのだからもう少し女の子らしく振る舞って欲しい。


 今の様子のままでは彼氏の一人もできないのはないかと、これからが心配になってしまう


 アリアは朝食の用意を終えてシェイナを起こす。


 朝食を食べる時間がアリアは好きだった。


 1日の始まりだとスイッチが入ることもそうだが、いつもの日常が今日もしっかりと始まる安心感を得られためである。


 半開きの目をして食べるシェイナを見ていると平和を感じる。


 朝食を済ませ、アリアが立ち上がると激しい立ちくらみに襲われた。


 視界が急激に暗くなってすぐに光が戻ってきた。


 こんな立ちくらみも妙な夢を見始めたほんの数日前から頻発している。


 関連があるとは思えなかったが、不吉な予感はどうしても拭いきれなかった。


 机に手をついて立ったまま動かないアリアを見てシェイナが「大丈夫?」と声を掛ける。


 アリアはゆっくりとまばたきをしてから「何でもないよ」と答えてキッチンへと向かった。


 午前中は客が来店してくることもなく、静かに過ぎていった。


 天候は変わらず重苦しい雲が立ち込めアリアの気分もいまいち晴れない。


 不思議と今日はいつも異常に霧がかった心地だった。


 この天気では今日の客入りは少ないとアリアとシェイナは結論付け、午後暗くなる前に再度畑の方へ行くことになった。


 そんな午後に来た唯一の客はリズだった。


 喉の調子が悪いから薬を貰いたいという。彼女の声は先日とは見る影もない掠れた声になっていた。


 昨日の夜から急に声が出なくなり、咳が止まらなくなったそうだ。


「この歳になって風邪引くとなかなか治らなくて嫌なんだけどね。こんな急に悪くなったこともないし、歳は取りたくないよ。」


 リズは少し熱もあり、ここまで来るのにも一苦労だった様子だ。


 アリアが傍について世間話をしていると、奥からシェイナが薬を持って出てきた。


 シェイナはリズをじっと見つめ、アリアに目配せして手招きした。


 自在扉を抜けた作業場で、シェイナは小さな声で話し始めた。


「リズさんってどこに住んでたっけ」


「農村地帯辺りだったと思うよ。少し市場よりだった気もするけど、どうして」


「魔力に侵されてる。体調が急に悪くなったのも、魔法使いじゃない人でしかもおばあちゃんなら魔力に当てられたのが原因で間違いないよ」


「向こうに魔力があったかもしれないって言っていたやつ?」


「そう。雨は昨日の夜中前には止んでたし、今日は太陽が見えないから魔力の歯止めが無くなってるの。魔力の影響を受け続けてたんじゃ薬でどうこうならない」


「それじゃあ」


「うん。元凶を何とかしないと」


 アリアは作業場からリズの様子をうかがった。


 重そうな瞼を開け、一点をじっと見つめている。頭がちゃんと働いていないのだろう。時折乾いた咳を繰り返している。


「今日は解熱剤とか風邪薬とか出して、私達はすぐ昨日の場所に向かおう。シェイナは準備しておいて」


「わかった」シェイナはそれだけ言ってリビングへ続く廊下を走って行った。


 アリアはリズの許に薬を持って戻った。


 リズはゆっくりと首を上げてアリアをみて、杖に体重をかけながら立ち上がる。


「リズさん今日は家でゆっくり休んでくださいね」


 アリアはリズから硬貨を受取り、彼女の小さな鞄に薬を入れてあげる。


 リズは咳き込みながらその鞄を受取った。


「ありがとう」


 リズは辛いはずなのに相変わらずのくしゃっとした笑顔をアリアに向けて出ていった。


 リズを見送ったアリアは踵を返して自室へ向かう。


 30分もしないうちに2人は支度を済ませた。


 シェイナは白いTシャツにタイトストレートのジーパン、ふくらはぎから下は若干くたびれたコンバットブーツに覆われていた。


 彼女の指の爪にはしっかりと魔法円が描かれている。


 アリアもシンプルにゆったりとしたシャツとショートパンツ、下に60デニールのタイツを履いていた。


 肩には気休め程度に魔力封じの札や薬箱を入れたバッグが掛けられている。


 彼女達は足早に目的地へと向かった。


 森を抜け市場を抜けると突然爆発音が響いてきた。


アリア達が歩く道の先で遠くて全容は見えないが、土煙のようなものが舞い上がっている。


アリアとシェイナは顔を見合わせ走り出す。


数分も立たない内に遠くから今度は悲鳴や騒ぎ声が聞こえてくる。


 2人は一心不乱に走り続けた。

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