第35話 セレディア大失敗
時間は少し遡る。
会議室を出たクリストファーをセレディアは追い掛けていた。小会議室に辿り着く前に、セレディアはクリストファーを呼び止める。
「クリストファー様」
「セレディア嬢?」
振り返ったクリストファーは訝しげに彼女を見た。何の用だろうか。
「私に何か用かい?」
「はい。実はちょっと見ていただきたい物があって」
「ふむ、何だろう?」
クリストファーは油断していた。前日にアンネマリーと、セレディアは魔王じゃない、なんて話をしていたせいかもしれない。
彼女が差し出す手を何の疑いもなく見つめてしまったのだ。セレディアの右手がクリストファーの双眸を覆い隠した。
「えっ?」
「さあ、堕ちなさい。私のところまで」
「――っ!?」
他者の心を奪うために一日かけて熟成させたセレディアの魔力が、クリストファーの瞳を通して彼の体を侵していく。
(人の心を弄ぶなら、両の眼か心臓に魔力を注ぐのが基本ね。人は視覚で多くを知覚し、心が心臓の辺りにあると信じているから)
一瞬、抵抗しようとしたクリストファーだったが、洗脳するために熟成された魔力に抗うことはできず、クリストファーの精神は簡単に闇の底へ落とされてしまった。
魔力を注ぎ終えると、セレディアはクリストファーから手を離した。
「さあ、殿下。私に何か言いたいことはあって?」
しばし呆然としていたクリストファーだったが、視線がセレディアに向くと瞳が煌めきを宿し、彼女の前に跪いた。
「ああ、セレディア様。私の伴侶よ。一生にあなたを愛し、お仕えすると誓います」
「まあ、嬉しい。それじゃあ、エスコートしてくださる? 校舎を少し回りましょう」
「あなたの仰せのままに」
セレディアはクリストファーにエスコートされて学園内を歩き始めた。しかし、時間が悪かったのだろうか、運が良いのか悪いのか、適当に歩いて被服室に繋がる渡り廊下まで来たが、途中で生徒に遭遇することはなかった。
(もう、クリストファー様が私に鞍替えしたことを知らせようと思ったのに! 皆、気が利かないんだから! あ、でも、このまま被服室まで行けば誰かいるんじゃない?)
現在、被服室ではメイドカフェの衣装作りをしているはずだ。あそこに行けばまだ誰かしらいるだろう。
「よーし、クリストファー様。今から私と被服室へ……クリストファー様?」
「……っ、ぐぅ」
セレディアが見上げると、クリストファーは大量の汗を流しながら苦しそうに歯を食いしばっていた。セレディアをエスコートしている反対の手で胸を強く押さえている。
「ど、どうしたんですか、クリストファー様!?」
(おかしいわ。何が起きてるの? 私はちゃんと人間一人を完璧に洗脳する魔力を用意したはず。完全に私の言うことを聞かせるために許容量ギリギリいっぱいまで注いだのに、どうしてこんなに苦しそうなの? 魔力が足りないわけないし、オーバーだってしているはずないのに)
セレディアは計算ミスをしていた。クリストファーの中には既に彼女の魔力が潜んでいることを彼女は知らなかったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……ぐうっ!」
エスコートする手すらほどかれ、苦しみにもがくようにクリストファーは両手で胸を押さえる。
「クリストファー様!」
(まずい、魔力が暴走しかけてる! 余分な魔力を吸い出して落ち着かせなくちゃ)
だが、セレディアの考えは一歩遅かった。魔力を吸い出そうと手を伸ばしたが間に合わず、クリストファーの体内を傍若無人に暴れ回っていた黒い魔力が一気に爆発した。
「やばっ――」
セレディアの言葉はそこで途切れた。
魔力の暴走によって生まれた衝撃波がセレディアを吹き飛ばしたのである。渡り廊下をゴロゴロと勢いよく転がっていくと、セレディアはうつ伏せになって倒れた。いくら中身がティンダロスとはいえ、その肉体はか弱き少女のもの。あの衝撃に耐えられるはずもなく、セレディアは気を失ってしまった。
「はぁ、はぁ、なん、だ、ここ……俺は、どう、してここ……に、うぐうっ!」
一度魔力が放出されたおかげか、クリストファーはうっすらと理性を取り戻していた。だが、それもいつまで持つか。どうやらなぜ自分がここにいるのか覚えていないらしい。セレディアに洗脳されたことすら覚えていないようだ。
自分の背後にセレディアが倒れ伏していることに気付かないまま、クリストファーは胸を押さえながら苦しそうに歩き出す。
(これは、まさか……闇堕ちしそうなのか? 闇堕ちって、中二病か、ははは……)
内心で無理矢理笑って理性を保とうとするクリストファーだが、体内を巡る闇の魔力にいつまでも抵抗できそうにない。
(せめて、誰もいないところへ……被害が少なくなるように)
闇堕ちした状態で人前に出れば、この国の王太子が国民を襲ったことになる。自分自身、そんなことはしたくないし、王国の権威に傷を付けるわけにもいかない。自分がダメだったとしても、弟にバトンを渡す時に傷などあってはならないのだから。
クリストファーは、足を引きずるようにゆっくりと歩いた。利用者が少なく、かつ周囲からは死角になるような場所を選び出し、苦しみながらもそこへ向かう。
校舎の死角に辿り着いたクリストファーは、薄れゆく意識の中で最低限の対策が取れたことに安堵した。
しかし、それは一瞬の安心でしかなかった。
「クリストファー様?」
死角に隠れたはずの彼を呼ぶ者がいた。愛らしい黒髪のメイドである。
「君は……メロディ? ど、どうして」
「クリストファー様をお見かけして、とてもつらそうだったので追い掛けたんです」
「あ、ああ、何てことだ。早く、ここを、立ち去るんだ! ――あっ」
「クリストファー様!」
まさか少女の優しさがこんな危険を呼び込むことになるとは。クリストファーはこの世の間の悪さを呪い大声でメロディに立ち去るよう伝えたが、それが気力の限界であった。人形の糸が切れたようにカクンと力なく地面に倒れてしまう。
慌ててメロディはクリストファーの下へ駆け出した。
「大丈夫ですか!?」
「ダメ、だ。俺からすぐ、に、逃げ……逃げろおおおおおおお!」
クリストファーの叫びとともに、彼から魔力が立ち上った。まるで地面から空へ向けた雷のようなそれは、学園内に轟音をまき散らす。
メロディは思わず立ち止まって目と耳を塞いだ。音がやんで目を開けると、クリストファーが立ち上がっている姿が目に映った。
「よかった、クリストファー様。起き上がれて……クリストファー様?」
一歩前に出ようとしてメロディは違和感に気付く。クリストファーの目に生気がない。体にはさっきまでなかった茨のような黒い紋様が浮かび上がっている。明らかに異常だ。
「クリストファー様!」
メロディが呼び掛けても返事はなく、生気のない瞳がメロディを捉えた。そして彼は右手をメロディに向けると、手のひらから突き出るように黒い光を放つ剣が姿を現す。
異様な緊張感がこの一角に生まれ、メロディは一歩後退った。しかし、クリストファーの異様な姿を目にしてメロディはあることに気が付いた。
「黒い剣、黒い茨の模様……まさか!」
メロディは瞳に魔力を凝集し、クリストファーを視た。その結果は予想通りのものだった。
「間違いない。クリストファー様に黒い魔力が」
王都に現れた魔物達と同じく、今度はクリストファーに黒い魔力が宿ったのだ。その姿は明らかに何者かによって操られているように見える。
「クリストファー様! 正気に戻ってください!」
メロディは叫んだが、その声はクリストファーに届かない。茨のような黒い紋様を全身に浮かべた男は、冷徹な視線でセシリアをいつらぬく。
そして、その黒い剣の切っ先をメロディに向けた。
「――!?」
息を呑んだメロディは想わず一歩後退る。学園舞踏祭開催に向けて準備中、突然様子がおかしくなった彼を追い掛けてみれば、この唐突な事態だ。
何が起きているのか分からない。しかし、黒い魔力を取り除くことができるのはメロディただ一人。ここで逃げればクリストファーがどうなるか分からない。
メロディの胸がギュッと締め付けられた。
学園の廊下で二回もぶつかってしまったにもかかわらず、優しい笑顔で許してくれたこの国の王太子。メロディがルシアナのメイド募集を受けることができたのも、定期馬車便を発案してくれたクリストファーのおかげ。
メロディは彼に恩がある。このまま彼をこのままにはしておけない。
(このままでは最悪、銀製武器で王太子を殺さなければならなくなるかもしれない……させない)
そんな誰も幸せになれない決断なんてさせるものか。
恐怖に支配されていた心に勇気の光が差し込む。
「絶対に……」
後退った足が一歩前に出た。
「誰も、死なせない!」
(今度こそ守ってみせる。セシリアとして抱いた決意はこの私、オールワークスメイドのメロディが引き継ぎます! 黒い魔力になんて負けないんだから!)
心を失った冷徹な瞳と、決意の光を灯した熱情の瞳が向かい合う。
クリストファーを救うため、メロディのたった一人の戦いが今、始まる――。
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