第30話 唐突な倦怠期
「……いてぇ」
暗闇の中、クリストファーはポツリと呟く。
明かり一つ見えないため自分の姿すら捉えることができない。分かることといえば、右腕がやけに痛いということくらいだ。
何か針のような物が無数に右腕を刺しているような感覚だ。左手を近づけようとすると外に向かっても針があるのか指先をプツリと刺してやはり痛い。
それは縄に針が取り付けられているのだろうか。少しずつ右腕を縛り付けて針が食い込んできてさらに痛い。取りたくても針が邪魔で振れられず、生殺しのようにずっと痛いのだ。
「……こんな夢、早く覚めてくんねえかな」
クリストファーはこれが夢であると早々に気付いていた。だからこそこの痛みにも我慢できているのだが、痛いものは痛いので早くどうにかなってほしいところだ。
なぜか身動きも難しく、彼は寝転がったままボーッとしていた。
そんな闇の空間に突如光が現れる。クリストファーの目の前に四角い光が灯った。それはまるでテレビ画面のようで、実際に何かを映し始める。
『ちょっと、クリストファー様は私の婚約者なの。近づかないでちょうだい!』
『私はそんなつもりじゃ』
『やめないか、アンネマリー』
『クリストファー様は私の婚約者なのですから彼女の味方などしないでください!』
テレビ画面に映っているのはクリストファーとアンネマリー、そして顔はよく見えないが銀髪の少女の姿があった。画面の向こう側では嫉妬深い女による寸劇が開催されているらしい。
(つーか、あれ、アンナじゃん。うわぁ、みっともねえ)
婚約者のクリストファーに近づく女性へ手当たり次第に言いがかりをつけていくアンネマリーに、画面に映るクリストファーも辟易した様子だ。
「だろうな。俺だってアンナがあのアンネマリーだったら話もしたくねえよ――いっつぅ!」
右腕の痛みがさらに増した。縄と針が右腕にさらに食い込み。そしてハッと気付く。この画面の光で右腕の様子が見えるのではないかと。クリストファーは右腕を見てギョッとした。
「マジかよ」
クリストファーの右腕に巻き付いていたのは茨のような植物であった。よく見れば茨は成長を続けており、これからもっと大きくなりそうだ。
「マジかよ」
思わず同じ言葉を繰り返してしまうクリストファー。なんでこんな夢を見ているんだ俺は、と嘆くも答えなど分かるはずもない。
テレビ画面はどうなっているだろうか。クリストファーは視線を画面に向けた。
「うわぁ……」
画面の向こうでは、アンネマリーに続いて失態を犯すクリストファーの姿があった。あれほどアンネマリーに注意されたにもかかわらず、闇堕ちして中ボス化しているクリストファーだ。
銀髪の少女が何か叫んでいるがクリストファーは意に介さず、少女に剣を向けた。
「闇堕ちすると俺ってああなるのか? 美少女に剣を向けるとかサイテーだわ、俺。マジでああはなりたくねえなぁ」
そう言って、パチリと瞬きをした瞬間、画面の映像が一瞬で変化していた。先程まで闇堕ちしていたクリストファーが別人になっていたのだ。
少女に剣を向けている人物は、栗田秀樹であった。
「……マジかよ」
目を覚ましたクリストファーは小さく呟いた。
◆◆◆
「クリストファー様、少しお話が」
「ヴィクティリウム侯爵令嬢、少し静かにしてもらえないだろうか」
学園に登校し、授業が始まるまでの時間で声を掛けても、クリストファーは本を読みながらそう返すばかりで、取り付く島もない。
クラスメート達もクリストファーが突然アンネマリーに冷たい態度を取り始めたことに困惑しているが、声を掛けるなといわんばかりの彼の態度にどうすることもできないでいた。
クリストファー自身、最初のうちは自分の態度に違和感を覚えていたが、それも次第に薄れつつあることを自覚している。自分でもアンネマリーに相談した方がいいと思っているのだが、行動に移そうとすると異常なほどに彼女への嫌悪感が溢れ出して、とても相談する気になれないのだ。
当然、その雰囲気は学園舞踏祭実行委員会にも影響が出ており、委員会は常に緊張感に包まれている。クリストファーもアンネマリーと事務的な会話まで嫌がるわけではないようで、委員会活動に大きな支障を来してはいないが、なるべく早期の改善を周囲は求めていた。
「クリストファー様、何かあったのかい?」
その日の実行委員会が終了した頃、シエスティーナがクリストファーに尋ねた。周囲も聞き耳を立てている。クリストファーは少し眉間にしわを寄せながら尋ね返した。
「何かとは何です?」
「今週に入ってからずっと張り詰めたような雰囲気だから気になって。何かあったのかなと」
「……何もないですよ」
「その割には、アンネマリー嬢への態度がとても冷たいように感じるのだけど」
「シエスティーナ様」
クリストファーの冷淡な声がシエスティーナの脳裏に響き、彼女は思わず口を止めた。
「あなたには関係ないことなので放っておいてください」
「……そう、悪かったね」
シエスティーナはクリストファーから離れた。
(彼がこんなに感情を露わにするなんて。本当にアンネマリー嬢と何かあったんだろうか。だが、あのアンネマリー嬢がクリストファー様の機嫌をそこまで損ねるほどの失態を犯すとも考えにくいのだが)
帝国の諜報活動の一端として、学園の囮役として華々しく目立つ必要があるシエスティーナにとっては、クリストファーの変化はあまり望ましいものではなかった。
(王国に不和を齎す、とはいってもさすがに少し早すぎるよ。どうしたものか)
一人になったクリストファーは誰にも声を掛けず、会議室を後にした。アンネマリーは後ろ姿を見つめるだけで動かず、代わりにマクスウェルが後を追った。
静まり返る会議室。王太子の異変に困惑する者達の中、全く別の感情を抱く者が一人いた。
(ふーん、クリストファー様とアンネマリー様、よく分からないけどこれってチャンスかしら)
セレディアは人前でニヤリと笑わないよう気を付けていた。
◆◆◆
「一体何があったんだい?」
「何もないさ」
マクスウェルに呼び止められたクリストファーは面倒臭そうに答えた。雑に髪を掻き上げる姿がその感情をよく表わしている。
「アンネマリー嬢とケンカでもしたのかい?」
「だから、何もないと言ってるだろう」
「だったらどうしてあんな態度を取るんだ。君らしくないだろう」
「俺らしく……イライラするんだ」
「どういう意味だい?」
「アンネマリーを見ているとイライラするんだ。一緒にいるのも苦しい、嫌なんだ。自分の感情を制御できない」
そう告げながら、クリストファーの呼吸が激しくなっていく。
「あんな、女のそばにいるなんて、耐えられない……嫉妬深くて、バカで、あんなのが……」
「何を言ってるんだ? アンネマリー嬢が嫉妬深くてバカだなんて。誰のことを言ってるんだ」
「誰の……? だから、アンネマリーの……いっつぅ!」
クリストファーは突然右手を押さえた。
先日の怪我がまだ治りきっていないのか痛むらしい。
「大丈夫か」
「触るな!」
心配したマクスウェルが指しだした手を、クリストファーは反射的に撥ね除けた。ハッとしてクリストファーの顔を見ると、青褪めた表情をしていてとても正常だとは思えない。
「……すまない。本当に大丈夫だからしばらく一人にしてくれ。頭を冷やす」
「あ、ああ、分かった」
マクスウェルは呆然とクリストファーの後ろ姿を見送った。
「私が嫉妬深くてバカ……殿下はそう仰ったのですね」
「ああ、突然どうしてあんなことを言い出したのか。彼らしくないよ」
クリストファーと別れた後、マクスウェルは先程のやり取りをアンネマリーに伝えた。
(嫉妬深くてバカな……それって、ゲームのアンネマリーよね? 私と彼女を混同しちゃってるってこと? ……明らかな異常事態だわ)
クリストファーの唐突な変化は、ゲーム知識を持つアンネマリーにとっては『闇堕ちクリストファー』の前兆としか思えなかった。
(どこかで魔王に接触した? でも、なんでああなるの? 本来は王太子の重責に対する不安を疲れて闇堕ちするはずなのに、私がゲームのアンネマリーに見えるってどういうこと?)
考え込むアンネマリーの耳元にマクスウェルがそっと囁く。
「もしかして、これも例の件に関わってくるのですか?」
マクスウェルが言いたいのは魔王との関わりについてだろう。
「……可能性はありますが、まだ何とも」
「手伝えることはないと?」
「正直、何を手伝っていただけばよいのかも分からなくて。明日は休みですから、一度ゆっくり彼と話してみようと思います」
「できますか?」
「やってみるしかないでしょう」
アンネマリーは力なく微笑むのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます