或るの日の朝

 朝露は降りない、沖縄の蒸し暑い夜明け前。

「…………」

 目も眩むような白装束に鉢巻きをしたひとりの少女が、滝の下で瞑想をしていた。轟音を響かせ降り注ぐ水の壁を一身に浴びてなお、微動だにしない。その華奢な体からは想像もつかない不動の心は、見る者に文字通り神聖な力を感じさせた。

「――――っハァ」

 そして少女は、滝から体を脱する。軽く息を吐き、そして首を振って周囲に水玉を散らした。長い長い黒髪は、一瞬少女の姿を覆い隠すほどだった。

 その漆黒のカーテンの先に、異形のモノが蠢いていた。

【オォ……オォォ……】

「…………」

 少女はそれに、構わない。いつものように滝の中をバシャバシャと進み、対岸を目指す。

【ォ……オォォオォ……!】

 そこへ、異形のモノたちが追い縋ってきた。怨嗟のようなものを撒き散らし、その爛れた両手を伸ばしてくる。

「――――」

 それにも少女は、一顧だにしない。肩、背中、腰に手を回されても、気にする様子すらない。それが臀部に回りそうになったときだけ、五月蝿そうに打ち払った。

 視えるようになったのは、いつ頃からか。

 少女がそんなことを考えたのは、過去にただ二度だけだ。毎日毎日飽きることなく続く"コレ"に、鬱に近い状態に陥った時。そして決定的にそんな自分を受け入れると決めた、好きだったひとに拒絶された日――

 それからは決して、いつからだなんて意味のないことを考えることは無かった。恨んでも悩んでも苦しんでも、現状が変わることはない。だから少女はそのままを受け入れて、日々を生きることにした。

 そのまま、孤独に生きることを選んだ。

 そして高校に上がり、間六彦と出逢った。

 彼は、弥生の虚言にもブツブツ言いながら付き合ってくれた。あのトンでもないパンチ力には、正直ビックリした。そのあとも彼は、ずっと自分のワガママに付き合ってくれた。

 強い一面を、見せてくれた。

 情けない一面も、見せてくれた。

 カッコいい一面を、見せ続けてくれた。

 だけど辛い一面が、今ではずっと瞼に焼き付いていた。

「…………」

 形容しがたい感情が、胸中でとぐろを巻いていた。コレはとてもよくない傾向だった。だから間六彦とは、距離を置こうと考えていた。なのに昨日、夕方、彼の元へ疾(はし)ってしまった。

 そこで、聞いてしまった。彼の言葉を。彼の真意を。

 そして自分は、逃げた。一晩明けて、自分はここにいる。

 とても、マズい兆候だということは理解できている。だけどどうしようもない。このままでは本当にマズいと、心臓が脈打つ。

 濡れた鉢巻がズレ、視界を奪う。鬱陶しい。手で持ち上げ、改めて前の風景を見つめる。

「……ォオ……オオオオオ!」

 彼に出逢ってから視えていなかった異形が、目の前に列を成していた。彼に出逢ってから変わっていた世界が、元の姿を取り戻していた。醜くて、汚くて、吐き気がするような魑魅魍魎ども。所詮世の中、こんなものだ。自分はなにを、期待していたのだろう?

 なんで自分は、こんなにも愚かなのだろうか?

 すべて、忘れたい。

 ズルッ、と白い鉢巻きが、目の前を覆う。

 鬱陶しい。

「!」

 反射的に少女は、対岸に用意していた脇差しを手に取り、パッと目の前に疾(はし)らせた。真っ二つになった鉢巻きが宙を舞い、滝壺に浮かび、吸い込まれていく。脇差しを振り切った姿勢の少女の額には、赤い一文字が浮かび上がり、赤い滴が線を作る。それがポタっ、ポタっ、と池を赤く染めていく。

 帰りが遅い少女を心配して現れた母親が、その惨状に愕然とする。

「な……こ、これは……」

「アはハはハはハ」

 少女は暗く、嗤っていた。

「なにやってんの、あんたはっ!!」

「あいたっ」

 めいっぱい、叩(はた)かれた。巫女の母は、強かった。

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