第92話 メフィストフェレスの館にて その2

「なんじゃこれは!」


 メフィストフェレスは声を荒げた。めったに大声を出さない普段の彼からは考えられないような豹変ひょうへんぶりだ。


「冗談にでも限度というものがあるであろう。ものにはやっていいこととならぬことがある。ましてや“神”をだしに使うなど、到底許されることではないわ。しかもりに選ってお前が。あのファウストの視力を奪うほどの忠臣であるお前がそのようなことをするとは。いったいいかなる了見か!」


 巨雷のような叱責が放たれた。その目のようすは尋常ではない。顔には青筋が走り、肩はつり上がっている。さらにはブルブルと震える手で手紙を握りつぶすと床へとたたきつけた。ゾルゲがあまりの恐ろしさに思わず一歩下がるほど。それほどまでの怒りようだったのだ。


「で、ですがメフィストフェレス様」


 おびえたようすでゾルゲがようやく声を絞り出す。声も体もまだ恐ろしさで震えている。

 メフィストフェレスがジロリと彼女をにらみつけた。


「なんじゃ」

「それは決して冗談などではございません」

「なんじゃと」

「それは本当についさっき届いたのでございます。本当です。嘘ではございません」


 怯えるゾルゲの必死の訴え。それを見て、メフィストフェレスは床の手紙を横目で見やると同時に忌々いまいましそうに指さした。


「これはいかようにして届いた。いつもの黒蝙蝠こうもり便か?」

「はい、仰せの通りで」

「怪しいようすは?」

「いいえ、ございませんでした」

「ほかに手紙は?」

「いいえ。ほかにはなにも」

「そうか……」


 メフィストフェレスはあごに手をやった。そして首をひねると考え込んだ。ゆっくりと床から手紙を拾い上げ、くしゃくしゃになった手紙を広げて再びそれを読んだ。今度は声に出して、一言一句いちごんいっくを確かめるように。

 彼は部屋の中を大きく円を描くようにしてゆっくりと歩いた。その間も目は手紙から離さず、手紙を持つ手と反対の手は顎から離さず。


 突然、メフィストフェレスが立ち止まった。そして手紙から顔を上げるとつぶやくように言った。


「ゾルゲよ。ネロを連れてくるのじゃ」


 しかしその命令はゾルゲにはよく聞こえない。


「は? メフィストフェレス様、今なんと?」

「聞こえなかったのか。ネロを連れてくるのじゃと申したのだ」

「はっ、申しわけございません。ただちに」


 ゾルゲは大あわてで部屋の外へと消えた。しばらくして彼女が戻ってきたとき、その腕には一匹の動物が抱えられていた。片目が青の、もう片方が緑の黒猫だ。


「連れてまいりました」

 部屋の入り口でゾルゲがかしこまる。


「結構。ではネロをここへ」


 メフィストフェレスはそう言うと床の上にあの手紙を広げて置いた。ゾルゲはネロと呼ばれた黒猫をその少し手前に置く。


「お前は離れておれ」


 メフィストフェレスが静かに言う。ゾルゲは数歩後ろへと下がると再びかしこまる。

 メフィストフェレスがネロと手紙の前に向き直った。背と首を伸ばし、両の足を踏みしめるようにして大上段からそれらを見下ろした。


「よし。ではネロよ、この悪魔メフィストフェレスが命ずる。この手紙の真偽たるや、いかに」


 そのめいは直立したままおごそかに言い渡された。


 ネロは少しの間、キョロキョロとあたりを見回していた。やがて手紙を見つけると、首をにゅうっと伸ばしてのぞき込んだ。匂いを嗅いでいるようにも見えた。そしてゆっくりと手紙に近づくと、その上に座り込みひと声「にゃあ」と鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る