第三話

勅使河原くんと、お父さん Ⅰ

 逃避行生活も、もう五日目の夜を迎えようとしている。

 僕は野営地の側の小川で他の四人と一緒に歯磨きをしていた。

 歯ブラシは細い木の棒に何かの動物の毛を植えた、ドワーフ謹製の物だ。

 今は歯磨き粉が無いので、水だけのブラッシングになる。

 アウロペになら歯医者も一応は、あるらしい。

 抜歯や入れ歯などの治療も可能だそうだ。

 ただし、麻酔は無いらしいけど……。

 ──レアなら虫歯菌だけを分離して治療できたりするのかな?

 そんな事を、ぼんやりと考えながら『対の門』で作った簡易水道で小川の水をコップの中に移すと、口の中をゆすいで小川の中へと流した。

 そして、ふと顔を上げると、大きな月が視界に入ってくる。

 元いた世界の物とは、目に見えて大きさの違う異世界の月……。

 ──元いた世界か……。

「父さんと母さん、元気かな?」

「ほへはひひへほ! はほはほへふはひは……」

 僕の呟きに対して、美恵が反応した。

「ちゃんと、ゆっくり歯磨きを終わらせてからで、いいよ?」

 僕は彼女を生暖かい目で見ながら、優しくさとした。


「それが聞いてよ! あの後で二人は、自宅を引き払って仁美ひとみさんの所へ引っ越しちゃって……」

「姉さんの所に?」

 勅使河原仁美てしがわらひとみは、僕の六つ歳上としうえの姉だ。

 僕なんかよりも、よほど父さんに似ていて、性格がサバサバしている。

 実家のある地方を出て東京の大学に進学して、そして卒業をして、そのまま東京の会社に就職して一人暮らしをしている筈だ。

「……じゃあ今は、姉さんのアパートで一緒に暮らしているのか……」

 何度か遊びに行った事はある。

 ──あんな狭い所で?

 僕は疑問に感じた。

「……あ、そうか」

 美恵は何かに気付いた様に呟いた。

「あたしと政孝の間に時間差がある事を、すっかり忘れていたわ……。仁美さんは結婚して、今は都内の広い一戸建てで旦那さんと一緒に暮らしているらしいわよ?」

「……」


 ──ええっ!?


「そ、そうなの?」

 僕は驚いて、思わず美恵の両肩に手を置いてしまった。

「う、うん……。政孝が飛び込んでからは、あたしは政孝の葬式にすら出られずにいて……段々と勅使河原さん家とは疎遠になっていったから、人伝ひとづてに聞いた話だけど……」

 ──仁美姉さんが結婚?

「祝ってあげられなかったよ……。結婚式を見たかったなあ……」

「……でも、あたしのいた未来での出来事だから、今の時間軸で言えば、まだ、なんじゃないかな?」

 ──そうか。

「こっちの時間だと僕は、まだ飛び込んでから一ヶ月も経っていないから、葬式を終わらせて落ち着いた頃なのかな?」

「そうね……。あたしは流石に平気で政孝の葬式に顔を出せる様な精神状態じゃ無かったから分からないけど……学校の教室にあった政孝の机の上に、先生が花を生けてくれてたりしたわね……」

 ──自分で見たら、さぞかしシュールな光景だろうな。

「それを見てからショックで、しばらくの間は登校が出来なかったわ……」

 美恵は腕を組んで目を閉じると、ウンウンと頷いた。

「ごめんね? 迷惑を掛けて……」

 僕は美恵に謝った。

「今となっては、お互い様よ。こちらこそ、ゴメンね?」

 彼女が、それなりに立ち直ってくれて、勉強して、留学して、異世界転移して……今は側にいてくれる事に、僕は感謝した。


「それにしても都内の一戸建てかあ……。どんな所なんだろう?」

「うははっへひはひょうは?」

 僕の呟きを聞いてマリアが、歯磨きをしながら声を掛けてきた。

「……終わってからで、いいよ?」

 僕は生暖かい目でマリアを見ながら、そう伝えた。


「占ってみましょうか?」

「何を?」

 マリアの問い掛けに、僕は尋ね返す。

「マサタカさんの、お姉様が御結婚なされて、どんな新しい、おうちに住まわれるのか? ……をです」

「……様とか要らないから」

 ──仁美お姉様……?

 僕は何だか背筋が、ぞわぞわして来た。


「そうだなぁ……物は試しに占って貰おうかな?」

 僕はマリアに占って貰う事にした。

「分かりました。それじゃ、これから私達のテントにまで来て下さいね?」

 野営地のテントは、四人一組で使われている。

 マリアとレアとイアと美恵で、一つのテントだ。

 ──女の子達のテントに僕一人で呼ばれるなんて、初めてだな。

 僕は、そんなに色気のある用事でも無いのにドキドキしてきた。

 ──ま、多分また水晶玉には、何も映らないんだろうけどね。

 今までにも色々なパターンの占いを試してみたものの、僕が元いた世界が映る事など無かった。

 映ったとしても今更、帰る気にはなれない。

 ──と言うよりは、こちらの世界の方が今は、より大事になってしまったんだよな……。

 でも、もし元いた世界を訪れる事が出来るのなら、せめて家族に僕が無事である事だけでも伝えたい。

 そう思い続けてはいた。


「それでは占ってみますね?」

 そう言ってから瞳を閉じて占うマリアの姿は、いつ見ても厳かで神聖な雰囲気で、いつもの彼女とは違う魅力を放っていた。

 彼女の手が、かざされている水晶玉には、僕だけでなく美恵やレア、そしてイアも一緒に注目している。

 やがて水晶玉は、少し光った様に見えた後で映像を僕達に見せてくれた。

 そこは原っぱで立て看板が設置されており、その看板には空き地という文字が、デカデカと真っ赤なペンキで書かれてあった。

 看板の下半分には、不動産会社の名前と電話番号も書かれてある。

「なんだあ、まだ家が建つ前の状態かあ……。ま、そりゃそうよね……」

 美恵は溜息をついた。

 僕もガッカリする。


 ──そりゃ、そうだ。

 ──そうそう都合良く、仁美姉さんの旦那さんとの新居を見られたりは、しないよなぁ……。

 ──あはは。


 ……。


「マ、マリア! 今すぐ『対の門』を出して!? 白い円を、このテントの中に! 黒い円を水晶玉の中の原っぱに!」

 思いもよらぬ棚から牡丹餅ぼたもちに、僕は慌ててマリアに御願いをした。


「じゃ、じゃあ行ってきます!」

「いっ、行って参ります!」

 僕は久し振りに自分の世界へ戻れる事もあって、緊張していた。

 マリアにも、僕の緊張が移ってしまう。

 水晶玉に映った映像が都内なら、僕の家へ帰るには移動をする必要があった。

 一緒に黒い円を移動させる為にマリアには、申し訳ないけれど付いて来て貰うしかない。

 タイムリミットはマリアが意識を失って眠ってしまうまで……彼女が寝てしまうと、『対の門』は消えてしまうからだ。

 彼女の調子からいって、今夜一杯は大丈夫だと思うが、念の為に水晶玉も持って行ってもらう事にした。

 美恵も連れて行こうと思ったのだけど……。

「もう一度だけ訊くけど、本当に行かなくていいの?」

「うん……。万が一自分自身に会ったら、タイムパラドックスを起こしちゃうかも知れないし……政孝も過去の私に会ったり、自分が生きている事がバレたりしない様に気を付けてね?」

 美恵は非常に残念そうな表情で僕に答えた。

「タイムパラドックスを起こした結果が、どうなるかは、あたしにも分からないしね……。最悪、今ここにいる自分の存在そのものが、無かった事になるかも知れないし……そうなると改変された未来や過去の影響で、みんなの存在もどうなるのか……」

 僕は美恵に出会わなければ、中途半端な魔王の力のせいで教会軍に絞首刑にされている可能性すらある。

 実際は、どうなるかは予想が付かないが……用心しておくに越した事は無いだろう。

「あたしは四年経って改めて機会があったら、政孝と同じ様に生きている事を両親に伝えに戻るわ。……マリアちゃん、その時は宜しくね?」

「はい!」

 美恵の笑顔の御願いをマリアは、快く引き受けてくれた。

 僕は荷物入れの中から自分のスマートフォンを取り出す。

 財布と携帯は、ポケットに入れたままで崖から飛んだので、こちらの世界に持ち込んで来られた。

 異世界に来てから、ずっと電源をオフにしていたので、まだ少しだけだけどバッテリーに余裕がある。

 白い円に向かって、かざすとアンテナが立った。

 時刻合わせを行なうと、年月日は美恵のいた四年後では無く、僕が海に飛び込んだ年である事が確認できた。

 ──まあ四年後の世界だったら、空き地では無くて家が建っている筈だしね。

 地図アプリを起動して、出口側の黒い円の現在地を確認する。

 最寄駅に行けば、タクシー乗り場があるだろう。

 同じく長い間使っていなかった財布の中には、日本円で幾らか入っている。

 自宅までは、まるで足りないけど、着いてから両親に払って貰えば何とかなるだろうか?

 それとも最寄駅から電車を使おうか?

 ──駅まで歩きながら考えれば良いか……。

 今は時間が経つ事の方が惜しかった。


「よし! じゃあ、行ってくる!」

 僕はレアとイア、それに美恵に伝えると、白い円をくぐろうとした。

 レアが僕に声を掛ける。

「気を付けて、いってらっしゃい」

「ありがとう」

 イアが心配そうに見つめた。

「帰って来るんだよな?」

「当たり前だよ」

 美恵が手を振る。

「おじさんと、おばさんに宜しくね?」

「うん。一応は黒い円をマリアに一緒に運んで貰うから、音声だけで悪いけど聞いておいてね?」

 僕は唯一、この中で僕以外に日本語が理解できる美恵に頼んだ。

「それと、こちらで何かあったら連絡して? すぐに戻るから」

「それじゃ、行って参りますっ!」

 三人への挨拶を交わすマリアと共に、僕は白い円の中へと入った。


 信じられないくらいに、あっさりと元の世界は、僕を迎えてくれた。

 少し排気ガス臭がする都会の空気の嫌な匂いですら、今は懐かしい。

 マリアは布製の手提げ袋に黒い円を入れて、一緒に運ぶ事にしてくれた。

 袋に入っているとはいえ移動は、マリアが制御して行なう。

 でも……自分から一定の距離を保つ様にイメージするだけだからラクです……と、彼女は言ってくれた。


「美恵、イア、レア、聞こえる?」

 僕は手提げ袋の中に向かって話し掛ける。

『大丈夫よ。聞こえるわ』

 中から、美恵の返事が聞こえた。

 通話可能な状態である事を確認すると、僕は大きく深呼吸をする。

「じゃあ、行こうか?」

 マリアの顔を見て尋ねた。

「はい」

 マリアは周りの景色を見渡しながら、緊張した面持ちで僕に返事をした。

「取り敢えず、最寄駅に向かうよ?」

「駅?」

 ──そうか……マリアの世界には、鉄道が無いんだ……。

「歩きながら説明するよ」

 僕はマリアの不安を取り除きたいと思って、なるべく優しくなる様に微笑んだ。


 いつだったか、マリアが言っていた。

 ……いざ両親に会える事になったら、気持ちの整理が追いついて来なかった……と……。

 今なら、その気持ちが本当の意味で理解できる。


 ──両親に会ったら、何から話せば良いのだろう?


 胸中に言い様のない不安を抱えつつも、マリアに笑顔を向けながら……先ずは最寄駅だ……と、僕は彼女と一緒に歩き始めた。

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