02: Nape Port
「教授」
声をかけられたのは、ちょうどそのときだった。
そちらを振り向くと、そこに居たのは先程わたしの質問にはっきりと答えていた信楽くんだった。
「どうしたかね、何か質問があるのなら答えるが」
柔和な笑みを浮かべつつ、わたしは訊ねる。
対して信楽くんはそれを伝えるかどうか悩んでいるようだった。なぜそう分かるかといえば、言葉を紡ごうとして噤んでしまい、また、紡ごうとして――それの繰り返しだったからだ。
「……ええと、何かあったのかね。もしここで話すことが出来ないならわたしの研究室で話せばいいと思うが」
「それで……お願いできますか」
「分かった。ついてきたまえ」
そうしてわたしは彼女を研究室へと招くことに決めた。
そのときは、あまり深くそのことについて考えたことは無かったが、今考えれば――それは大きな間違いだということにわたしは気付かされるのだった。
研究室は二階の奥にある。理由は特にないが、わたしはこの空間がとても有り難かった。誰も行きたがらない場所に押し込まれた、と言ってしまえば身も蓋もないが、そのあたりが学校の思惑なのだろう。
研究室の扉を開けて、先に彼女を中に入れる。一応、入れる時に誰も学生に見られていないことを確認している。わたしの講義はほかの先生に比べれば少ないため、わたしが戻ってくるときは大抵ほかの先生は講義中だ。だから二階の通路はかなり静かな空間となっていた。
「いつも、これほど静かなのでしょうか」
「まあ、そういうものですよ。……さて、そこに腰掛けてください。今、コーヒーを出しましょう。ところで、次の講義は?」
「次は休みなので……問題ありません」
信楽くんはソファに腰掛けると、深い溜息を吐いた。
やはり何か深い感情を抱えているのだろう。そう思いながら手に持っていた書物を机上に置き、調度品の入っている棚へと向かった。
コーヒーカップとソーサーを二つ取り出し、コーヒーマシンにカップを置く。そしてボタンを一つ押すと、ゆっくりとコーヒーが注がれていった。
「砂糖とミルクはどうするかね」
「砂糖を一ついただけますか」
顔を下げたまま、信楽くんはそう答えた。
一杯分注ぎ終わったコーヒーマシンは、注ぐことを停止していた。それを確認してわたしはコーヒーカップをソーサーに置いて、角砂糖を一つ入れた。そしてスプーンで暫しかき混ぜた後、信楽くんの前に置いた。
信楽くんはそれを見て、ありがとうございます、と一言だけ呟いた。
「まずは、コーヒーを飲んで落ち着くといい。わたしも時間がある。質問したいこと、或いは相談したいことがあるなら、落ち着いてから話をした方がお互いにいいからね」
わたしの分のコーヒーを注ぎ終えて、わたしも彼女の向かいに腰掛ける。
彼女はそれを見てゆっくりとコーヒーを一口啜った。
「……先生、ほんとうにお時間を作っていただきありがとうございました」
「いいんだよ。別に、わたしはあまり時間に余裕が無い、というわけではないからね。わたしに出来ることであれば、なんとかしてあげたいとは思うが……。さすがに、単位をください、といったことは無理だが」
「わたしは、そのようなことで話しに来たわけではありません」
きっぱりと言い放たれた。
まあそうだろうな、と思いつつわたしもコーヒーを飲む。
「……では、何があったかね」
「いや、実は……」
彼女はコーヒーカップをソーサーの上に置いて、ゆっくりと話を始めた。
「先生は、ミルクパズル症候群についてご存知ですか」
「もちろん。記憶科学、いや、脳科学を研究する者としてはホットな話題だからね。明確な解決法が見えない。進行速度を遅くさせることも出来ず、唯一の対策法は記憶が完全消去される前にバックアップをとっておくこと……、だったな」
「ええ。そのミルクパズル症候群なのですが……」
彼女は深呼吸をし、髪をかき上げる。
そしてそのまま彼女はわたしに背を向ける形で体勢を変えた。
「……見えますか。先生」
わたしの目に映ったのは、入出力ポートだった。
正確に言えば、楕円形の入出力ポートがうなじに設置されていた。その部分から脳にかけて二本の線が背骨を沿うように肌の下を這っているのが確認出来る。
驚きを隠せないわたしだったが、それを気にすること無く、彼女はゆっくりと元の体勢に戻し、わたしの目をしっかりと見つめた。
「わたしは、ミルクパズル症候群なんです」
彼女は、驚いた表情のままの私を余所に、はっきりと真実を告げた。
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