第九章

 とりあえず、月渚ちゃんには大好物の子供用のレトルトカレーを食べさせた後、子供部屋で彼女の大好きなアニメのDVDを流し、夢中で見入っている娘を残してそっと部屋を出た、ちか子さんとご主人の堀米さん。


 二人きりで話をするため、キッチンのテーブルに向かい合って座りました。



「今日、社長室に呼ばれて、社長から直接言われたんだよ。『君の奥さんは何を考えてるのか、常識を疑う』って」


「何で? あたし、そんなこと言われるような事、したっけ??」


「ちか的には、全然身に覚えがないって言うの?」



 少し考えた後、ちか子さんは首を傾げながら、



「ん~、ない! 強いていえば、晴ちゃんのいない時に彼女ン家に遊びに行ったら、一回だけ姑が出てきて、何か嫌味っぽく追い返されたことくらいかな~? それ以来、なんか家に行き辛くって」


「ちょ…それって、苦肉の策としての最終手段じゃん! そこまで拒否されてるのに、自分で全然気付かなかった訳!?」


「あたしが拒否られてる?? 晴ちゃんに? まっさか~…!」


「だいたい、その『晴ちゃん』って呼び方! 相手はうちの社長の奥さんなんだよ? 昔からの知り合いならともかく、いい大人が初対面の人に失礼だって思わないの?」


「だって、オダマリの友達なんだし、あたしも一緒にお茶会してるし、それってもう友達じゃん」



 事の重大さをまったく感じていないことが、真剣に話す堀米さんへの返答の節々からも伝わります。



「あのさ、友達の友達だからって、一回くらい一緒にお茶会したくらいで、すぐに友達認定ってなるわけじゃないでしょ? もっとこう、段階を踏んで、お互いに相手を受け入れてからようやく、っていうかさ」


「何それ、面倒臭せー! あたしが友達って思ってんだからいいじゃん」


「だから! 少なくとも、むこうはちかのことなんて友達だとは思ってないし、立場を考えてよ!」


「んで? 晴ちゃ…奥さんや社長さんは、そのことで怒ってんの? だとしたら、小っちぇー!」


「そうじゃないよ! ホントに何にも分かってないんだな。今から、社長に言われたこと全部伝えるから、事実かどうかも含めて、どうしてそんなことしたのか、答えて」


「わかった」



 当初、社長室に呼び出され、これまでの出来事を聞かされたときには、まさか、自分の妻がそこまで非常識だとは、堀米さん自身、にわかには信じられず、それらはきっと何かの間違いではと思ったほどです。


 ですが、ちか子さんの言動を見るに、どうやら石森新社長から言われたことは、やはり事実なのではないかと考えざるを得なくなり、溜め息をつきながら、一つ一つ、事実確認を始めました。



「じゃあ、まず、社長のお宅へ遊びに行った日のことだけど」


「ティーパーティーに招待された日だね」


「招待って…まあ、いいや。そのときに、うちの月渚が我が儘言って、無理やりお友達の大切なバッグを貰ったり、お家の中で大暴れしたそうだけど、ホントなの?」


「ホントだよ」


「そのとき、どうしてちかは、月渚のこと止めなかったの?」


「だって、まだ子供なんだから、飽きちゃえばじっとしててなんかくれないし、暴れたりするのはしょうがないじゃん?」


「バッグの件は?」


「どうせ、そんなのたくさん持ってんでしょ? 一個くらい月渚が貰ったって、どってことないじゃん。金持ちなんだから、ケチくさいこと言ってないでさ~」



 それを聞いた堀米さんは、眉間にしわを寄せながら大きくため息をつくと、まるで他人事のような態度のちか子さんに、噛んで含むように言いました。



「確かにさ、まだ小さい子供だと、飽きちゃったら、大人しくしててくれないことってあるよね」


「でしょー!? ヒロだって、分かってんじゃん!」


「でも、それを大人しくさせるのが、親の役目じゃないの?」


「はあ!? そんなの無理! どうせ言ったって聞きゃしないんだし、ちょっと怒るとギャン泣きしてうるっせーし、子供のすることにいちいち目くじら立てるほうがおかしいんだよ」


「じゃあ聞くけど、今はまだ子供だから、それが許されるとしてもだよ? いつかは大人になるよね?」


「そりゃ、なるよ」


「でも、躾も何もされないで、そのまま大人になったら、とてもじゃないけど社会に適合なんて出来ないよね? そうなって、一番辛い思いをするのは、月渚自身じゃないの?」


「じゃあ、あたしにどうしろっていうの!? じゃあ、ヒロだったら、どうしてたっていうのよ!?」


「僕だったら、何度でも『駄目だよ』って言って聞かせてたと思う」


「これだから、普段から子育てしてない人は! そんなことで言うこと聞くなら、だれも苦労しないっつーの!」


「何度も何度も言って聞かせて、それでも駄目なら、有無を言わさず強制的に連れて帰ってきたと思うよ。実際、休みの日に公園に連れてったとき、そういうシチュエーションは、何度かあったし」



 その言葉に、ちか子さんは目を見開いて、堀米さんの顔を見つめ、意味が分からないといった顔で尋ねました。



「何で? そこまでするのに、何か意味あるの?」


「ちかだって分かってると思うけど、正直言って、我が家はギリギリ中流かなってくらいのランクの家でしょ。どんなに月渚のこと愛してたって、あの子がやりたいことや、欲しがる物を、何でも与えてやれるほどの経済力なんて、残念ながらうちにはないんだよね」


「だから?」


「可哀想かも知れないけど、今のうちから、分相応に我慢するスキルを身に付けさせないと、他人の物を羨む人間になるよ」



 まさに、それこそがちか子さんの人間性そのものでしたが、自身がそうであることも、その問題点すらも理解していないようでした。



「それって、何か問題でもある?」


「手段だよ。何かを手に入れるために努力するならいいけど、力づくで奪い取ろうとしたり、盗んでまで手に入れようとするようになったら大問題でしょ?」


「盗むのは駄目だけど、向こうがくれるって言うなら、貰ったって良くない?」


「そりゃ、円満に譲渡されたならいいけどさ、少なくとも相手が納得してないなら、遺恨が残るって思わない?」


「そんなに嫌なら、相手のほうがはっきり言えばいいじゃん? そう言わなかった本人にだって、責任なくない?」


「世の中には、それを言えない人もいるだろうし、嫌だって言ってるのに、ごり押しして奪い取ったのが月渚だったんじゃないの?」



 言い返す言葉が見つからず、むくれて黙り込んだちか子さん。



「それにさ、ちかは月渚が貰ったバッグが、どういうものだか分かってるの?」


「そんなの、知るわけないじゃん。普通に、子供用のおもちゃのバッグじゃないの?」


「あれさ、うちの会社の創立40周年記念と、新社長の就任披露を兼ねたパーティーの記念品の一つとして、有名なデザイナーさんにオーダーした特注品だよ。金額だって一つ何万円もする物なんだから」


「嘘っ! マジで? たかが子供のバッグに何万って、頭おかしいんじゃね!?」


「つまりさ、それをお渡ししたのは、それだけ大切なお客様のお子様たちだってこと。そもそも、月渚が駄々こねて貰えるような物じゃないんだよ」


「マジか~! んじゃ、返すわ…つっても、月渚、裏にマジックで自分の名前書いてたな~。まずいよね?」


「いや、それはもう要らないって、社長のほうからも言われたから」



 おそらく、そういう事態になっていることを、美晴さんも予想していたのでしょう。無残な姿で取り戻すより、なかったものと諦めるほうが、精神的なダメージは少なくて済むこともあるのです。



「それから、月渚が触ったピアノのことだけど」


「ああ、あれね~。お菓子食べた手で触ったとかって、こうめちゃ…んって何て名前だっけ? ま、いっか、彼女に注意されてさ~。たかがピアノくらいで、いちいち神経質だなって思ったんだよね」



 その言葉に、再び堀米さんは頭を抱え、うんざりしたような声で言いました。



「そのピアノをクリーニングしてもらうのに、二十万円くらい掛かったんだってさ」


「はあっ!? 何それ、ボッタクリもいいとこじゃん! そこにそんな金掛けるくらいなら、新しいの買ったほうが良くない!? お金あるんだし!」


「ちかさ、あのピアノがいくらぐらいするか、知ってて言ってるの?」


「知るかよ、そんなの! 見た感じ古くって、鍵盤だって薄汚れてたし、あんなの、ほとんど価値ないんじゃないの?」


「あれ、一千万以上するものなんだってよ?」


「嘘でしょ!? あんな中古のピアノが!?」


「超一流メーカーのアンティークピアノっていうのらしい。幸い、処置が早かったから、大事には至らなかったそうだけど、会長夫人が相当ご立腹らしいんだよ」



 その値段を聞き、さすがにちか子さんもこれはマズイと思い始めたらしく、ややトーンを落とした声で尋ねました。



「…んでさ、そのクリーニング代だけど、うちが弁償させられるのかな…?」


「それも要らないって。社長が言うには『そういうお子さんもいるんだってことが分かって、いい勉強になった』って、奥さんがおっしゃってたそうだから」



 その言葉に、パッと笑顔が戻ったちか子さんは、全身で喜びを表し、



「良かった~! 弁償って言われたら、マジ、どうしようかと思った!」


「良くないでしょ!」


「何で? お金取られないで済むんだよ?」


「よく考えてよ! これって間接的に、月渚が『躾の出来てないお行儀の悪い子』って言われてるんだよ! 自分の子供がそんなこと言われてるのに、親として恥ずかしいし、悔しくないの!?」



 思わず、声を荒げてしまい、子供部屋でDVDを見ている月渚ちゃんに聞こえなかったか、そっと様子を伺うと、アニメに夢中で何も気づいていない様子でした。



「前に住んでたところでもさ、日曜日に月渚を公園に連れて行くと、いつも遊んでる子供の親から、『月渚ちゃんは、パパと一緒だと、良い子ね~』って言われることが、よくあったんだよね」


「何それ? どういう意味?」


「月渚はさ、自分に厳しい人か、甘い人かを、ちゃんと見分けて、人によって対応を変えてるんだよ」


「別にそれって、普通じゃない?」


「良いことと悪いことの判断が、人によって変わるってことが問題なんでしょ?」



 実際、あのパーティーの日、颯斗くんを追いかけ回していた際も、美晴さんや颯斗くんがどんなにやめるように言っても聞かなかったのですが、私が一言、



「月渚ちゃん、颯斗くん嫌がってるから、追いかけるのをやめたほうがいいよ」



 と言うと、おずおずと母親であるちか子さんの脇に逃げ戻り、それまでの傍若無人が鳴りを潜め、このタイミングで、美晴さんが解散宣言を発令しました。


 月渚ちゃんは、何をしても放置したままのちか子さんや、あまりきつく言えない美晴さんと違い、私がはっきり叱る人間であることを、あの短時間の間にちゃんと見抜いて反応していたのです。


 家族内でも、母親と違い、きっちりと叱る父親に対しては、従順な顔を見せていた月渚ちゃん。堀米さんが、お友達のママたちから聞いたセリフが、その事実を物語っていました。


 本当は、とても頭の良い子なだけに、躾を怠れば大人でさえも手玉に取るような困ったちゃんになってしまう可能性が高く、このままだと、将来トラブルメーカーになることは必至でしょう。





 バッグのことにせよ、ピアノのことにせよ、これはまだ、ほんの序の口でした。


 これらに関しては、謝罪も弁償も不要といわれたのですが、ただ、残るもう一つの出来事が、はたして事実なのかどうか。


 小さく咳払いをして動揺する気持ちを落ち着けると、大きく深呼吸した堀米さんは、意を決して、最も重要な話を切り出しました。



「でさ、一番聞きたいのは、社長のお宅に行った日の帰りは、奥さんが呼んでくれたタクシーに乗ったんだよね?」


「うん、乗ったよ」


「そのとき、奥さんがドライバーさんにタクシーチケットを渡したそうだけど、勿論、料金はそれで清算したんだよね?」


「ああ、あれね。せっかくタクシーチケット貰ったのに、たった家まで帰るのに使うの勿体ないじゃん? だから、料金は自腹で払っうからって、チケットは返してもらったんだよね」


「それで、そのチケットはどうしたの?」


「その次の週に、実家に行ったときに使った」


「!!!」



 すでに、社長室で概ねのことは聞かされていましたので、心の準備は出来ていたとはいうものの、悪気もなくぬけぬけと答えたちか子さんの態度に、堀米さんは、思わず椅子から転げ落ちそうになったほどでした。





 ちか子さんの両親は、現在は父親の転勤により、今住んでいるこの町の二つ隣の県に移り住んでいました。


 かつて家族が暮らしていた、麻里さんの実家がある町よりは近いとはいえ、タクシーで移動するような距離ではないことくらい、良識ある大人なら分かりそうなものです。


 あの日、タクシーのドライバーさんからチケットを返してもらったちか子さんは、一番近いバス停でタクシーを降り、ワンメーター分の料金を精算すると、そこからはバスで帰宅しました。


 その翌週、日帰りで実家に行かなければならない用事があり、その際にドライバーさんから受け取ったタクシーチケットを使用したというのです。


 しかも、自分が実家にいる間中、タクシーを待機させ、実家と自宅を往復するという、常識では考えられない使い方をしていたのでした。


 当然、料金は軽く十万円を超え、請求明細を見て驚いた美晴さんが、タクシー会社に問い合わせしたところ、チケットのナンバーとサインから、ちか子さんが利用したものだと判明したのです。



「あり得ないよ! 常識で考えて、そんなことするってあり得ないでしょ!」


「何で? せっかくタクシーチケット貰ったんだから、遠くへ行くときに使わなきゃ損じゃん?」


「ちかさ、タクシーチケットの意味、分かってる? 乗り放題の無料パスじゃないんだよ? 乗車した料金は、契約してる人が払うんだよ? 今回使ったチケットは、社長個人の契約してるチケットで、社長が自腹で払うことになるんだよ!?」



 すると、ちか子さんはあっけらかんとした顔で、信じられないことを言い放ったのです。



「そうなんだ。ま、いいじゃん。晴ちゃんちなら、うちなんかよりずっとお金持ちなんだし、それくらいどうってことないでしょ」



 もう、開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。堀米さんは、次の言葉が見つからず、しばらくの間、口をぽかんと開いたままでした。





 仮に、ちか子さんが使ったチケットが、美晴さん宅からちか子さん宅までの運賃の請求であれば、もちろん、何も問題はありません。


 百歩譲って、請求金額が十万だろうが百万だろうが、それが石森家にとって、必要経費と判断する相手であれば、納得して負担したことでしょう。


 が、ちか子さんの個人的な実家の用事のために、二つも県をまたいだ町までの往復に掛かった非常識な高額運賃を負担する義理など、どこにもないのですから。



「とにかく、タクシーで使った分の料金は、社長に返すから」


「冗談言わないでよ! 十万超えてんだよ!? うちにそんなお金、あるわけないじゃん!」


「そもそもタクシーで実家を往復したのは、ちかでしょ? 普通に考えれば、やって良いことと悪いことくらい、分からない? 言葉悪いけど、これ、泥棒したのと同じなんだからね!」



 ふて腐れた顔で黙り込み、目に涙を浮かべている妻を見て、泣きたいのは自分のほうだとばかり、がっくりうな垂れた堀米さんに、ちか子さんは呟くような声で言いました。



「あたしだって、ヒロが少しでも出世すればいいな~って思ってしたことなのにさ…」


「気持ちはありがたいんだけど、むしろ足を引っ張ってるだけじゃない」


「あたし、どうすればいい?」


「とりあえず、僕は今から実家に行って、事情を話してお金を借してもらえないか、お願いしてくるから」


「お義母さんたちに、話すの!?」


「仕方ないでしょ? 今、うちは車と住宅のローンでいっぱいいっぱいで、貯金なんてないこと、分かってるよね?」


「だけど…!」


「前にも、月渚にバレエ習わせたいとかで、入会金が十万掛かるからって立ち消えになったことあったけど、習い事と違って、使ったタクシー代の支払いに『やめとく』っていう選択肢はないんだから、実家の親に頭を下げるしかないよ」


「…」


「今夜は、実家に泊まるから。明日朝、そのまま出勤して、社長にお金返して、謝ってくる」


「ヒロ…」


「もしかしたら、許してもらえなくて、クビになるかもしれないけど…」


「クビ…」


「もしそうなったら…ごめん」


「!」



 それだけ言うと、明日の会社の準備を整えて車に積み込み、堀米さんは一人で実家へと出掛けて行きました。





 ここへきて、ようやく事の重大さを認識したちか子さん。


 幼い娘と二人、自宅に残され、もうどうすれば良いのかわからず、意味もなく自宅の中をウロウロするばかり。


 小一時間ほどして、堀米さんから電話があり、何とかお金の工面が出来たということでしたが、電話の向こうでは、大声で何かを言っている義母の声が聞こえ、それがちか子さんへの文句であることは、雰囲気で分かります。


 良かれと思ってしたこととはいえ、ここまで夫を苦しめてしまったことに酷く罪悪感を感じ、何か自分に挽回出来る方法はないかと、一晩中考えた結果、一つの答えにたどり着いたのです。





「うん、今、幼稚園から戻ったから」


「じゃあ、今から行くね」



 麻里さんからの電話で、私は自宅を出て、徒歩何分もしない彼女の家に向かって歩き始めました。


 来月には産み月に入る麻里さんですが、菜々子ちゃんのとき同様、里帰りはせず、この町の掛かり付けのクリニックでの出産を予定していました。


 予定日の数日前には、麻里さんのお母さんがお手伝いに来てくれる予定になっていましたが、何しろ遠方ですし、もし出産が早まったりした場合には、私がヘルプに入る約束をしていたのです。


 とは言っても、私に出来ることは緊急時の連絡(ご主人やご実家)と、お母さんがいらっしゃるまでの、菜々子ちゃんの幼稚園の送り迎えくらいですが、こうしたご時世ですので、園児の送迎には予め申請しておく必要がありました。


 まだ出産までは一か月ありましたが、几帳面な麻里さんのことですから、昨日、私とお母さんの名前で申請を済ませており、園から発行されたIDカードを取りに行くところでした。





 玄関チャイムが鳴り、てっきり私が到着したと思った麻里さん。



「早かったわね~! ジョギングでもして来た…」



 モニターを確認せず、ドアの鍵を開けると、そこにいたのは、ちか子さんでした。このところ、顔を合わせても完全無視だったので、すっかり油断していました。


 いったい何をしにやって来たのか分からず、驚いて言葉が出てこない麻里さんに、挨拶のつもりなのか、ちか子さんはふて腐れたような顔をしたまま、小さく頭を下げました。



「…何か、ご用でした?」



 やっとの思いでそう尋ねた麻里さんに、ウロウロソワソワしながら、消え入りそうな小さな声で言いました。



「あのさ、頼みを聞いてほしいんだ…」


「え? 何?」


「だから、あんたに頼みがあって来たんだけど…!」



 そう言いながら、屋内へ入ろうとするちか子さんを牽制するように、自分の身体でブロックしながら、何とかドアの外へ押し戻し、そこで話を聞くことにしたのですが。



「あたしさ、晴ちゃんを怒らせちゃったみたいでさ」


「そうなんですか」


「他人事みたいに言ってないでさ、あんたからも許してくれるように、謝ってくんない?」


「他人事みたいって…」


「友達でしょ!? それくらいしてくれたっていいじゃん!」



 あまりにも都合の良いちか子さんの言い分に、麻里さんは呆れて、思わず笑ってしまいました。


 が、それが彼女の神経を逆撫でしたようで、カッとして、



「何、その態度!? あんた、何様なんだよ!?」


「えっ!? ちょっ…!」


「あんたのそういう人を小馬鹿にしたとこが、昔っからムカつくんだよっ!!」


「やめ…っ!」



 そう言うと、ちか子さんは麻里さんに掴みかかったのです。





 電話を切った私は、自宅を出てすぐに、斜め向かいの葛岡さんのおばあちゃんに捕まっていました。


 ちょうど彼女も出かけるところだったらしく、バス停に向かう途中まで、一緒に行こうと言われ、彼女のペースに合わせて歩いていたため、いつもなら2分も掛からない道のりが遠いこと。


 その間も、おばあちゃんの口からは、ちか子さんの悪口が止め処なく溢れ出していました。



「まあ~、しゃあしゃあと嘘ついて、私たちを騙そうとしたんだからねぇ~!」


「そうなん…」


「百合原さんが気が付かなけりゃ、そのままシレッとして押し通してたんだと思うと、考えただけで腹が立つやら、頭に来るやら、ねぇ~!」


「それ…」


「園原さんも気の毒に、あんな人が同級生なんて、とんだ災難だとしか言いようがないねぇ~!」



 こちらに相槌を打つ猶予すら与えないほどの剣幕で喋り続けるおばあちゃん。どうやら一度嫌いになると、憎さ百倍になるタイプのようです。


 そうこうしているうちに、麻里さん宅が近づき、これでようやくおばあちゃんのマシンガントークから解放されると安堵したのも束の間。


 何やら揉み合うような声が聞こえ、まだまだ話し足りないおばあちゃんを一旦制止して、声の聞こえるほうへ耳を澄ますと、発信源はどうやら麻里さん宅のようでした。


 いったい何が起こっているのか、恐る恐る覗きに行くと、そこには麻里さんに掴み掛かって罵るちか子さんの姿がありました。



「やめて…! ちか子さん、落ち着いて…!」


「全部あんたのせいだから! あんたなんかいなきゃいいのに…!」


「や…っ!!」



 その瞬間、バランスを崩した麻里さんは、玄関の踊り場から数段下のアプローチへ、転げ落ちたのです。


 一瞬の出来事でしたが、その場にいた誰もが、スローモーションのように目に映っていたと思います。


 固まったまま、その場に立ち尽くすちか子さんを横目に、私はすぐさま倒れている麻里さんに走り寄り、怪我の有無を確認しようとしたのですが、



「ぎゃああああぁぁぁっっ!!! 人殺しぃぃぃ~~~っっ!!!」



 そう叫んだおばあちゃんの奇声に、周囲の家から、続々と住人の方たちが出ていらっしゃいました。


 皆さん驚きながら、心配そうに駆け寄ってくる人、興奮状態のおばあちゃんを宥める人、ただただ見守るしか出来ずにいる、人、人、人。



「早く! 早く救急車と110番を呼んでっ!」


「葛岡さん、落ち着いて!」「大丈夫だから」


「何言ってんの! 早く110番!」


「ね? とにかく、一度落ち着きましょ?」


「もういい! 私が110番するから! 110番の電話番号って何番なの!?」



 興奮しすぎて、何が何だか訳が分からなくなっているおばあちゃんはとりあえず他の人に任せ、麻里さんに怪我がないか、立てるか尋ねたのですが。



「痛い… お腹が、痛い…!」


「分かった! すぐ救急車呼ぶから!」



 救急車を手配し、到着を待つ間、麻里さんをお隣の奥さんに託し、屋内から麻里さんの携帯と自宅の鍵、そして幼稚園のIDカードを持って、病院へ同行することにしました。


 運良く、麻里さんがお世話になっているクリニックが受け入れOKとのことで、すぐに診察して頂いたのですが、主治医の先生のお話だと、このまま出産になるかも知れないとのことでした。


 すぐに、お仕事中の園原くんと、麻里さんのご実家のお母さんに連絡。大急ぎで駆けつけた園原くんが到着したときは、すでに分娩予備室で、陣痛が始まっていました。


 お母さんもすぐにご自宅を出発し、新幹線の到着がお昼頃になるという連絡が入ったので、私が駅まで迎えに行き、病院に戻ったのは、まさに分娩室に入る瞬間でした。


 麻里さんにとっては、二度目の出産とはいえ、やはり不安も大きく、またこんな急な状況でしたから、ご主人とお母さんに立ち合って貰うことが出来、心強かったと思います。


 母子とも健康で、安産であることを祈りながら、私は受け取ったばかりの自分のIDカードを付け、菜々子ちゃんのお迎えに行き、その足で病院へ戻ると、そこには新しい命が誕生していました。





 ちょうど入り口で、立ち合い出産を終えて出て来た園原くんと出くわし、菜々子ちゃんを渡して尋ねました。



「こうめちゃん! 何から何まで、本当に本当にありがとう! おかげで本当に助かったよ!」


「園原くん、『本当』が多すぎだから。そんなことより、麻里ちゃんと赤ちゃんは?」


「体重2480gの男の子だったよ。予定より一か月早いから、要経過観察とはいわれたけど、おかげさまで、母子とも健康だって」


「そう! 無事生まれて、本当に良かったね。おめでとう!」


「ありがとう!」


「ねえ、パパ? もう赤ちゃん、生まれたの?」


「そうだよ。菜々子の弟が生まれたんだよ。会うかい?」


「うん!」



 菜々子ちゃんの問いかけに、私たちは新生児室に向かい、生まれたばかりの赤ちゃんを見せてもらいました。


 ガラス越しに対面した小さな弟に、菜々子ちゃんは少し戸惑ったような顔をしましたが、すぐに満面の笑みを浮かべると、ガラスにへばり付きながら、嬉しそうに見入っていました。



「そろそろ、ママとおばあちゃんのところへ行こうか?」


「う~ん、もうちょっと見てる~」


「でも、ママたち待ってるよ?」


「菜々子のことはいいから、パパ一人で行ってあげて」


「そんな無茶な!」



 余程、弟のことを見ていたいのか、そう言って、なかなかその場を離れようとせず、園原くんを困らせていました。



「失礼します。今、少し宜しいでしょうか?」



 声を掛けてきたのは、制服を着た警察官でした。


 私たちに身分証を掲示すると、少し話を聞きたいとのことで、産婦人科という場所柄、ほかの患者さんたちのご迷惑になってはいけないと、一旦病院の外へ移動することにしました。





 私たちが救急車で病院へ向かった後、その場に残されたちか子さんは、どうして良いのか分からず、ただ立ち尽くしていたのですが、携帯の着信音で、現実に引き戻されました。


 電話は堀米さんからでした。



「もしもし、ちか? 今、社長と話し終わったとこ」


「ヒロ…」


「ちゃんとお金も返して、ちかも反省していることを伝えて謝ったら、許してくれたよ。会社も辞めなくていいって」


「あのね、あたし…!」


「だから、もう心配しなくて大丈夫だから…」


「ヒロ、あたし、どうしよう!? あたし、大変なことしちゃった…!」


「ちか? どうしたの? 何かあったの?」



 すると、そこへ到着した警察官に、葛岡さんのおばあちゃんがちか子さんを指差し、



「お巡りさん、あの人だよ! 早く、捕まえて!」



 そう叫んだ姿は、サスペンスドラマの崖の上を彷彿とさせるほどの迫力。きっと彼女の頭の中には、クライマックスのテーマ曲が流れていたに違いありません。


 そんなおばあちゃんを余所目に、警察官は電話をしているちか子さんに歩み寄ると、穏やかな声で話し掛けました。



「お電話中、申し訳ありませんが、少しお話を聞かせて頂けますか?」


「はい…」


「ちか!? ちか、いったいどうし…!」



 携帯からは、堀米さんの声が聞こえていましたが、ちか子さんは電源をオフにすると、事情聴取を受けるため、警察官に誘導されて、パトカーの中に入りました。


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