第4話 北へ戻らぬ雁

4-1 鳥群 Cikapsay





 首の後ろが、冬の夜風を受けて寒い。さっきまであった後髪が、格好悪く切り落とされたから。


 ツキガタ温泉近くの三日月湖、その向こうのイシカリ川を越えたところにある、雪平原。

 ハルは、谷宮セポ......わたしから聞いた話を思い返した。


 農村の田園のど真ん中に残る湿地。ミズゴケしか育たない柔らかな地がある。

 そこはかつて、イシカリ地方全体を包んでいた大湿原の名残、ミヤジマ沼と呼ばれた沼があったの。

 何も農作できない不毛の大地だった北海道は、日帝人の開拓によって生まれ変わった。わたしたちの先祖は偉大だったのね。アイヌが手をつけなかった泥炭地を開発し、寒さに耐えられるような米を品種改良して創り出した。今じゃこの国のお米は、アメリカ合衆国に渡って親しまれる高級米みたいだし。

 でも、この大地が失ったものも大きい。そのミヤジマ沼には毎年、ハクチョウやヒシクイ、そして5万ものマガンが渡来してきていたの。

 冬になるとロシア連邦国の極東から、越冬のために何万というマガンがこのミヤジマ沼をねぐらに中継し、内地へと南下していったというの。わたしのお父さんは5万もの渡り鳥が、夜明け前に一斉に飛び立つのを見たって。それはそれは、壮大な風景だったそうよ......。




 今や、ミヤジマ沼は消え失せ、タンチョウもマガンも集い降り立つことなくなり、湿地野原が残るだけ。ハルは失われた自然の上に立ち、年々衰えていくキムントミコロクルのことを思っていた。

 時代の流れとともに、カムイの力も、アイヌの文化も、国民の暮らしも衰えていく。それが重要な問題なのかどうか、ハルには考えもつかない。カムイの力に仕えるためだけに生きてきたのに、ハルはもしかすると、神の力のない方が自分のような人間が存在しなくて済むのでは、と思ってしまうのだった。


 闘うこと、そして殺し食らうこと。それがハルにとっての存在意義だった。でもその分、ハルは見なくていいものも見てきた。

 神の加護をなくし疲弊した村、暴走する野獣・この世のものならぬ怪物に追われた人々。迷信を振りまく依人、利権を振りかざす役人、復讐の牙を剥く自然、の三重苦。


 その全ては、果たして人文神オキクルミの降臨によって解決されるのだろうか。

 それが、村泉ミラルの目的、英雄になる手段。



 復讐心は、なくしたわけではない。未だにハルにとってミラルは、憎悪の対象だった。

 ムシャクシャする心を紛らわすために、肉まんを頬張り冷たい缶ビールを飲む。


 草木も静まり返る丑三つ時...... というのかな。2時半の、泳ぐような暗闇を仄かに照らす月光の下、ミヤジマ沼の残滓ざんしに積もる雪の上で、ただただ考え込んでいたのだった。


 


「Мне кажется порою, что солдаты, 

С кровавых не пришедшие полей.....,」


 ハルユキは、どこからか聞こえてきたその歌声に耳を疑った。

 月夜の雪野原の、どこからか聞こえる、流れるように歌われるがその言語が判らない歌。それは、まだ幼い彼にとってこの世のものではないように思えたようだ。


「Не в землю нашу полегли когда-то,  

А превратились в белых журавлей......」


 そこには、その幼くも美しい歌声に聴き入る、ハル自身の姿があった。

 その姿と、自分の方へと近づいてくる、雪を踏みしめる足音に気づいた瞬間、ハルはナイフを構えた。


「Они до сей поры с времен тех дальних Летят и подают нам голоса. 

 Не потому ль так часто и печально  

Мы замолкаем, глядя в небеса......?」


 頭上を鳥が飛んでいった気がした。

 思わず振り向き、その影を追う。それは一目見て、マガンとわかった。

 だが、それはマガンのシルエットを持ちながら、丹頂鶴のように巨大で細長かった。


 それにも見惚れている自分がいた。

 そしてまたそれに気づいた瞬間、ハルの目の前に電撃が走った。



「......!」

 思わず目の前に起こったことに、驚かずにはいられなかったそうだ。

 すんでのことで避けたそれは、月光に照らされて冷たく鈍く輝いている。

 およそ120厘米、決して人間の持てる大きさではない長太刀が、自分の頭を掠めたことを、驚かずにはいられなかった。

 そしてその太刀を振るったのは、マハワトを凌ぐほどの大男...



 ではなく、大きく見積もっても155cmに満たない少女だったのだ。



собакаサバーカ, 気づかれてしまいましたか」



 その声は、確かにあの歌声の少女だった。

 再び刀を鞘へとしまう。プラチナブロンドの髪が揺れ、その間から灰色とも青色ともつかない美しい瞳がこちらを覗いている。


 ハルは三度我に返ると、ナイフを両手に構えた。


「誰だお前は!」


「見ての通り、女の子ですよ。ただし狩人ではありますが」


「俺の手で捕らえられる前に名前を名乗れ。俺を山中ハルユキと知っての凶行だろう!」


 目を閉じ、少女はフフフ、と笑った。


「何がおかしい!」


「山中...ハルユキ。かつて本山マハワトの直弟子であり息子であり、正当な後継者と呼ばれた少年。血も涙もない暗殺作戦で敵対組織に恐怖を植え付け、『悪神ハルユキ』の二つ名を与えられた......」


「......」


「目の前にいるあなた。それが、私の外見から、『殺さず』に『捕らえる』という答えを導き出し、私に向かって表明した......フフ、いや、失礼。思わず笑ってしまいました」


「......!」

 身長は30cm差がある。だがこの妙な落ち着き... 確実に年上である。

 年上ということは、自分以上に経験を積んでいるはずである。


「改めてご挨拶をいたしましょう。私は鞠島まりしまナターシャ... 上命によりあなたを斬処いたします」


 黄緑色の雷光が、月の隠れた闇夜に光る。

 その光の向こうで、また巨大な雁が飛んで行ったのを見た気がしたそうだ。

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