70

 母はトイレに行ったきり、なかなか戻っては来ない。心配になりトイレに入ると、母は洗面台の前で嗚咽を漏らし泣いていた。


「綾さん……」


「私には……何も出来ないんだね……。お母さんに……何もしてあげられない……」


 祖母の余命を知り、病室では気丈に振る舞っていても、迫り来る死に平常心ではいられない。


「……綾さん」


 私は何のためにここにいるのだろう。

 祖母も母も救うことが出来ず、ただ一緒に涙を溢すことしか出来ない。


 もっと早く……

 祖母に受診を勧めていたら……。

 運命は変わっていたかも知れないのに。


「綾さん、ごめんなさい……」


 思わず詫びる私に、母は視線を向けた。


「音々さんが謝ることないよ。私が弱いだけ……。お母さんが副作用に耐えて頑張っているのに、もっと強くならないとダメだね」


 母(綾)は水道の蛇口を捻り、ザバザバと顔を洗った。目は充血し、泣いたことはすぐにわかる。それでも病室に戻らないわけにはいかない。母は鏡の前で何度も深呼吸し、トイレを出て行った。


 病室に戻ると祖父が来ていた。夜勤明け、自宅に戻らず直接病院に来たらしい。


「綾も来とったんか」


「うん……。でももう帰るよ。社宅に寄って晩ご飯作って帰るね。お祖父ちゃんの様子も見てくる」


「そうか、いつもすまないな」


 祖父の手には苺のパック。

 食事が思うように取れない祖母が『苺なら食べれる』と言ったらしく、祖父はスーパーや商店を回り必ず苺を買って病室に来る。


 祖母は洗った苺を、美味しそうに口に運ぶ。でも一度にたくさんは食べれない。それでも祖父は苺を口にする祖母を嬉しそうに見ている。母はそんな両親を見つめながら、病室をそっと出た。


 ―東区、社宅―


 母が台所で料理を作っていると、曾祖父が部屋から出て来た。足が悪く自力歩行も困難で桃弥君が体を支えている。


「綾、蛍子はどんな具合じゃ?」


「お祖父ちゃん、お母さんはだいぶ元気になったから、心配せんでいいよ」


「ほうか……。見舞いに行きたいんじゃが、足が思うように動かんでのう。綾、今度わしも病院に連れて行ってくれんかのう」


「お祖父ちゃん、お母さんがもう少し良くなってからね」


 母はやんわりと曾祖父の頼みを断り、まな板の上でトントンと野菜を刻む。桃弥君が母の様子を察し、曾祖父と部屋に戻る。私は目で桃弥君に『ありがとう』と伝えた。


「お祖父ちゃんは病院には連れて行けないの。お祖父ちゃんにとって母はたった1人の娘だから、逢いたい気持はわかる。でも……逢えば、母の痩せ細った顔を見てきっとショックを受けるでしょう。だから可哀想だけど逢わせることは出来ないんだ。今、お祖父ちゃんが倒れたら誰も世話出来ないから。でも、もう限界かな。お祖父ちゃんや美紘姉ちゃんに嘘をつくことが……辛くてたまらない」


「綾さん……」


「音々さんならどうする?」


「……えっ?」


「みんなは産後は養生するべきだから、美紘姉ちゃんに精神的な心労を掛けてはいけないって言うけど、もし私なら、母の余命を知らないまま、突然母が亡くなったら……その方が辛いよ」


 祖母だけではなく、美紘伯母ちゃんや曾祖父に嘘をつかなければいけない母の苦悩が、心に突き刺さる。

 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る