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母はトイレに行ったきり、なかなか戻っては来ない。心配になりトイレに入ると、母は洗面台の前で嗚咽を漏らし泣いていた。
「綾さん……」
「私には……何も出来ないんだね……。お母さんに……何もしてあげられない……」
祖母の余命を知り、病室では気丈に振る舞っていても、迫り来る死に平常心ではいられない。
「……綾さん」
私は何のためにここにいるのだろう。
祖母も母も救うことが出来ず、ただ一緒に涙を溢すことしか出来ない。
もっと早く……
祖母に受診を勧めていたら……。
運命は変わっていたかも知れないのに。
「綾さん、ごめんなさい……」
思わず詫びる私に、母は視線を向けた。
「音々さんが謝ることないよ。私が弱いだけ……。お母さんが副作用に耐えて頑張っているのに、もっと強くならないとダメだね」
母(綾)は水道の蛇口を捻り、ザバザバと顔を洗った。目は充血し、泣いたことはすぐにわかる。それでも病室に戻らないわけにはいかない。母は鏡の前で何度も深呼吸し、トイレを出て行った。
病室に戻ると祖父が来ていた。夜勤明け、自宅に戻らず直接病院に来たらしい。
「綾も来とったんか」
「うん……。でももう帰るよ。社宅に寄って晩ご飯作って帰るね。お祖父ちゃんの様子も見てくる」
「そうか、いつもすまないな」
祖父の手には苺のパック。
食事が思うように取れない祖母が『苺なら食べれる』と言ったらしく、祖父はスーパーや商店を回り必ず苺を買って病室に来る。
祖母は洗った苺を、美味しそうに口に運ぶ。でも一度にたくさんは食べれない。それでも祖父は苺を口にする祖母を嬉しそうに見ている。母はそんな両親を見つめながら、病室をそっと出た。
―東区、社宅―
母が台所で料理を作っていると、曾祖父が部屋から出て来た。足が悪く自力歩行も困難で桃弥君が体を支えている。
「綾、蛍子はどんな具合じゃ?」
「お祖父ちゃん、お母さんはだいぶ元気になったから、心配せんでいいよ」
「ほうか……。見舞いに行きたいんじゃが、足が思うように動かんでのう。綾、今度わしも病院に連れて行ってくれんかのう」
「お祖父ちゃん、お母さんがもう少し良くなってからね」
母はやんわりと曾祖父の頼みを断り、まな板の上でトントンと野菜を刻む。桃弥君が母の様子を察し、曾祖父と部屋に戻る。私は目で桃弥君に『ありがとう』と伝えた。
「お祖父ちゃんは病院には連れて行けないの。お祖父ちゃんにとって母はたった1人の娘だから、逢いたい気持はわかる。でも……逢えば、母の痩せ細った顔を見てきっとショックを受けるでしょう。だから可哀想だけど逢わせることは出来ないんだ。今、お祖父ちゃんが倒れたら誰も世話出来ないから。でも、もう限界かな。お祖父ちゃんや美紘姉ちゃんに嘘をつくことが……辛くてたまらない」
「綾さん……」
「音々さんならどうする?」
「……えっ?」
「みんなは産後は養生するべきだから、美紘姉ちゃんに精神的な心労を掛けてはいけないって言うけど、もし私なら、母の余命を知らないまま、突然母が亡くなったら……その方が辛いよ」
祖母だけではなく、美紘伯母ちゃんや曾祖父に嘘をつかなければいけない母の苦悩が、心に突き刺さる。
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