第五章 閉式の辞01

 蝶番の軋む微かな音を後ろに聞き流しつつ、静かに扉を閉める。

 こうして廊下に出てみれば、もうとっくに見慣れてしまった校舎の景色が、私の視界を覆い尽くした。


 程なくすれば、この光景の中にも夕日の朱色が差し込まれてくるのだろう。

 そんな人気の無い場所に立つことでようやく、式が終わってからもう随分と時間がたっていたのだという状況が、私にも実感することができた。


「さて」


 短い呟きと共に軽く振り返り、今しがた閉ざしたばかりの扉を視界の端に引っ掛ける。

 一枚の木扉。胸の高さあたりに『校長室』と銘打たれたプレートが打ち付けられた、他の物よりも一回りは立派な佇まいを見せる、一枚の木扉。

 この扉の向こう側で、主が不在であったその場所で、そんな只中で取った私の行動。それは果たして、当校の一教員として相応しい類のものであったと言えるのだろうか?


 どうだろうか、分からない。分からないがそれでも──


「我ながら、随分とらしからぬ事をしたものだ」


 とは思っている。


「これでは教員失格だな」


 とりとめも無い思考が自虐的な愚痴を型取りながら、人気の無い校舎の中に漏れ出していく。

 生来、独り言などという悪癖なぞ持ち合わせてはいない性質だと自覚していた。しかしどうやら今だけは、口元の締りがよろしくないようだ。

 と言うのも、今しがた終えてきた自らの行為に対し、未だに自身の中でもその是非を決めかねているからなのであろう。今更なことではあるのだが。


「このような行動も、あの者ならファインプレーなどと揶揄したりするのだろうか?」


 頭の片隅に浮かんだきたのは、呼びつけられた喫茶店で先刻まで顔を突き合わせていた、初対面であろうはずの一人の青年の顔。

 卒業式で起きた予想外の出来事。それに対して、私が咄嗟に取った行動。その話を聞き、ファインプレーなどという小気味よい呼称でもって称してみせた、女生徒の父兄を名乗る不可解な青年。

 もしも彼であれば、私の行為をどう位置づけただろう?


「とてもファインプレーなどとは言えんか。むしろ穿りに過ぎ、先走っただけの愚かな行為だと窘められるかもしれんな」


 年下のはずの青年に、遥かに年長者である自分が窘められる。そんな様子は想像に難しく、しかし不思議と悪い気はせず。そうして私の口元は、自然と小さなほころびを見せていく。


 この扉の向こう側で、取り立てて難しい何かをこなしてきたわけではない。

 具体的で自発的だった行動といえば、ただ単純に扉の向こう側へと無断で立ち入り、都合よく無人であったその室内に一枚の証書を置き去りにしてきただけのこと。

 私が起こした行動は、たったそれだけであり。しかし、たったそれだけの行為にどうしてか──


「我ながら、実にらしくない」


 私はどうにも、その可不可を決められそうもないでいた。


「何事も、ままならないものだな」


 私は最後にもう一言だけ呟きをこぼすと、今は誰もいない校長室の扉から視線を外す。

 そうして廊下の先へと向き直り、微かに朱味を帯び始めてきた細長い景色の中を、ゆっくりと歩き始める。


 私の解釈は、正しくある事ができているのだろうか?


 榎本正成。その名前が記された卒業証書。あの一枚の宛所。あの一枚が贈られるはずだった本来の人物。

 それが、今しがた私の後にしてきた『校長室』などと呼ばれている、あの部屋の主だという想像は、果たして的を得ることが出来ているのだろうか?


 私はちゃんと届けられたのだろうか?


 確証など元より無い。だとしてもしかし、それ以外に適した落とし所も見当たらない。それが実状であり、それが全てでしかなく。そうして私は、廊下を進む。


 前年、榎本正成の退学処分に対し、常に懐疑的な立場をとり続けていた人物。

 処分が確定した後、三学年のクラス割を決めなおすよう、真っ先に提言した人物。

 そして、改められていくクラス割に対して、不自然にも度々と口を挟んできていた人物。


 そんな一人の人物が、今日の壇上に立つ校長に宛てて贈ったのかもしれない、一枚の証書紙。


「……校長」


 そうすることで、あなたは何をしたかったのですか?


 校の長でありながら、教諭陣の多くから昼行灯などとと称されていた人物の在り様を、今さらながらに思い起こす。

 一年越しの想いという物をなぞってみるべく、どうにかこうにか思考を走らせてみる。がしかし、結局私には何一つ理解できそうもない。それでも辛うじて理解できることがあるとするならば──


「何がファインプレーか」


 卒業式に起きた一瞬の異常。その際に私がとった『受け取りに行く』という咄嗟の行動は、必ずしも『誰にとってものファインプレー』などでは在り得なかったのだという、その程度のことだけは理解ができていた。


 あの時、もしも私が返事を返しさえしなければ。勇んで立ち上がり、証書を受け取るために舞台へと向かいさえしなければ。それならば──


 あの証書は、正しい宛所へ──壇上に立っていた校長の手元に、たどり着けていたのだろうか?


 やはりどうにも。私にはそんな事すら分かりそうもなかった。




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