第60話
そもそもの変化は、
微かな揺らめきがあった。
だが、それはとてもかそけくあえかで、たゆたう身体を包む高密度の鉱液の中、あらゆる変化を拾い出している療養槽の感知機能ですら、検知し得なかった。
後に、この場にいた科術員の誰に尋ねても、そのほとんどが「其処に何かが起こっているなど全く気付かなかった」と語った。
そして、この場を取り仕切っていたリヒテラですら、このときはまだ、それに気付いていなかった。
だが。
「今、何ンか……!」
「聞こえた! 僕も!」
まったく出し抜けに、声が上がった。療養槽を見つめていた
「……また聞こえ……ッ、ひかりか?!」
「ひかりだ! ひかりの〝中〟から聞こえる!」
リヒテラが、何事かとふたりを見た。が、ふたりとも、その視線を気にしている余裕はなかった。確かに「聞こえている」ものが、しかし聞こえるにもかかわらず、なかなか
「ひかり! もっと呼んで!」
「もうちょっとで掴めそうなンだよ! 呼べって!」
呼びかける声が強くなる。それまでのような焦燥と切迫の呼びかけではなく、明らかに存在を認識しての、強い指向性のあるものへと変化して。
「彼女か?」
ふたりの必死な様子に、リヒテラも状況を察した。ただし、ふたりとは違い、具体的な事象を観取できているわけではない。
「いるンだよ、ひかりが!」
「見つけたんだ。でもまだあとちょっと、届かなくて……!」
周囲にはわからない、けれどふたりには、それが聞こえている。呼びかけが、はっきりと自分たちに向けられた「声」が其処にある、と。
対象の精神の
「……其処にいるんだな! わかった!」
「行ってくる!」
もう一度、ふたりが声を上げ──
「待っ……!」
はっとした表情でリヒテラが声を上げたときにはもう、ふたりは「揺らめき」の「中」へ自らの意識を飛び込ませたあとだった。つまり、制止の声など既に間に合うはずもなく。
ひかりを凝視する姿勢で微動だにしなくなったふたりに、リヒテラはあきれるような視線を向けて首を傾かせた。
「……精神潜行か。」
困惑と呆れを吐き出すような呟きとともに、リヒテラは軽く瞼を伏せ、眉尻を僅かに落とし、顔の稜線をゆっくりと仰のかせる。
ふたりがとった行動の意味を、このときのリヒテラは既に理解していた。
届かないなら追いかける。その方が手っ取り早い、とふたりは判断した。おそらく、余人が検知し得ぬほど深いところにあった対象の意識を見つけ、手繰り、追ったのだ。
とはいえ、この行動には当然、危険も伴う。通常、精神潜行には行為者の「意識の係留」が必要だ。精神領域というのは、極めて広大で複雑な構造をしており、他者の精神内部に迂闊に入り込めば、未知に迷うどころか行為者自信の自我の喪失すらあり得るだろう。
それをふまえ、本来なら精神潜行という行為は、入念な準備と個我の消失を防止するための「意識の係留」、つまり精神を繋ぎ止めるための「命綱」が必要になる。
だが、ふたりはその命綱すらおざなりするほど必死に、対象を追いかけていった。
「何かが自分たちを呼んでいるように思えて意識を向けたら、それがあったから」
後日、このときについてふたりに尋ねてみたところ、「自分たちにもよくわからないけれど」と前置きしつつ、そんな答えが返ってきた。
意識するより先に動いてしまった、ということだろう。
あんな満身創痍の状態ですら、その行動を止める要因にはなり得ないらしいことに、リヒテラはこめかみを押さえるような仕種に、心底あきれをにじませた。まったくふたりして、いったいどれほどこちらを右往左往させるつもりなのか。
「……が、正解だ。」
騒がしい感情の一方で、静かな理性は坦々と答えを出す。ふたりの行動を浅慮と叱ることは容易い。だが、「たとえ危険を伴うものであってもそうしなければならない」と信じての、それも、ふたりがふたりとも同じ直感からのものであるならば──
リヒテラは、この「無茶」に至った結果も含め、「ふたりを此処に残す判断は、結果として間違っていなかった」と確信した。ふたりは確かに、自分たちにしか感知し得ない「何か」を見つけ、掴み、そして、迷うことなくそれを追った。
自分の直感を信じて臆せず実行に移すことができるというのは、ある意味ではそれもまた、稀有な才だと、リヒテラは知っている。
「……ふたりの意識を入口にして、共感追跡を行え。」
嘆息めいた一拍をおき、顔の角度と表情を戻しながら、リヒテラは部下たちにふたりを追う手筈をとるよう、科術員に指示を出した。たとえ、彼等のそれがとっさの、思いつきの無茶であったとしても、それがリヒテラという後ろ添えのあることを信頼していたからこそだと思えば、己もまた彼等に応える「手」を即座に打つべきだろう。
それは、リヒテラ自身の「できる」ことであり、「せねばならない」ことでもある。
共感追跡は、ナマートリュの中でも特に思念感応の高いものたちの担当だ。対象の精神を追い、心身の状態を拾い出す技術は、通常医療の場面においても重用されている。
静止したふたりを囲み、輪を作るように精神を同調しながら、ふたりの精神を捕捉した。複数で行うのは、追跡の確度を上げるのと同時に、この輪を確固たる「命綱」とするためだ。
「ふたりの精神を捕捉しました。珠の緒を縫い留めます。」
「あぁ、頼む。」
共感追跡の展開を確認して、万端を得たリヒテラが頷いた。
我々が対象の意識を捕捉できないとしても、対象を捕捉しているふたりの精神を追える限り、逸失することはない。その上で、我々は取り得る限り最も確実な「命綱」を用意しておく。
ふたりは、信じて、そして動いた。
だからリヒテラも、信じて、そして動いた。
此処にいる自分にできるのもまた、ふたりを信じ、それに応えるという、「ただそれのみ」である。
信じている。
信じているから呼びかける。
応えはない。けれど応えがあることを、信じている。
自分が此処にいることを、何としてでも伝えなければならない。だから、ひかりは叫ぶ。
此処にいる。延々と、何度も、何度でも、伝えるために呼ぶ、叫ぶほどに呼ぶ。
時間の感覚は未だ曖昧で、長くも短くも感じるけれど、呼び始めてどれくらい経ったのかなんてことは、今は重要じゃない。
自分がそう思ったから、そうする。そして、「成功するまで」続けたら、それは「成功」なのだ。
だから、そのとき起こったことは、そういう意味で「当然の結果だった」といえる、かもしれない。
「ひかり!」
呼び続けるひかりに、ついに聞こえる「声」があった。間違いなく、「上」から降るように、のぞき込むように。
「此処にいるよ!」
聞こえた瞬間、嬉しさに転げまわりたくなるような心地になった。
今の、フィニットかな、それともノーティかな。はっきりと聞こえたにもかかわらず、まだ距離のある感じで、たとえるなら、水の中で大きく動いたときに、その動きが輪郭のないかたまりになって伝わってくるような、あんな感じの「
でも、届いた、聞こえた。ひかりが「此処にいる」と信じて呼ぶ、ふたりの「声」だった。それがわかる以上、迷うことなんてない。
「何処だひかり!」
「探すから、僕たちを呼んで!」
続けて降ってくる声は、必死だった。ひかりにはふたりの「声」がよく聞こえるのに、向こうはまだこっちをうまく見つけられないらしい。だからひかりは、ふたりの声の降る方へ、もう一度大きく、大きく呼びかける。
「此処、此処にいる!」
ひかりは、「意識」や「声」だけでなく、「手」も「足」も、ありとあらゆる自分を動かして、ふたりを呼んだ。全身全霊というのはこういうことだと思えるほどに。
やがてようやく、「どれくらい呼んでいたかわからない」と意識することができたのは、ひかりの許に、ついに微かな変化と
自分がふたりを呼ぶ声の先っぽと、ふたりが自分を呼ぶ声の先っぽが、きぃんと光りながら伸び合って、ハイタッチで打ち合う手のように触れた、そのとき。
いた!
みつけた!
響き渡る、異口同音の歓呼の「声」。跳ねまわるボールのような勢いで、慎重にたぐる糸のような切実さで、そしてそれらが一緒くたになって、怒濤のような「再会」の瞬間だった。
にぎる、にぎりしめる。つながる。ひかりがふたりの手を握り、ふたりがひかりの手を握る。
ひかりの目の前に立ち現れる、ふたりの姿。光をまとうようにキラキラとした輪郭に、見覚えのある特徴的な容姿。何処までも曖昧なこの場所に初めて、自分以外の、自分のよく知る「かたち」が、くっきりとはっきりと、しっかりと認識できる感触で現れる。
「遅かったじゃないの、もぉー!」
「もぉー、じゃねぇよ! ひかりが全然目ェ覚まさねぇから、オレたちこんなトコまで探しに来たンだぞ!」
顔を合わせるなりわめくように発されたノーティの声は、けれどいっそ、涙声のようですらあった。ナマートリュが涙を流さないことはわかっていても、「今にも泣き出しそうな」と錯覚してしまうくらいに、わなわなと震えている。
「え、目覚まさないって、もしかして私、心配されるほど寝てるの?」
そんな思わぬ様子に、だからちょっとだけ、ふざけたように返した、のだが。
「寝てるの? じゃねェよ! いきなり俺たちの目の前で死ンじまってよ!」
「……は? まって???」
だから更に言いつのるように返ってきた言葉を聞いて、ひかりは今度こそ目が点になる心地で唖然とした。
「死んだ? 私?」
「あっ……そうか、ひかりはそのまま意識が途切れちゃったから……えと、あのね、僕たちと話してたら、ひかりがいきなり倒れて、そのときもう即死の状態だったんだけど、でも急いで蘇生すれば何とかなるってクラートォに運んで、でも蘇生に成功したのに、全然ひかりの意識が戻ってこなくて……」
ノーティの横に
「……下手したら私、そのまま死んでたかも……ってこと?」
「だーかーら! そんなことにならないように、オレたちずっとひかりのコト呼んでたッつの!」
「……うわぁ、そっか……ごめんねふたりとも。……ありがとね。」
ほんとに心配してくれてたんだなぁ、とひかりは何ともむずむずとこそばゆい心地で、ちょっとばかりもじもじしながら、ふたりに感謝した。
「でもこうして見つけたしね。もう大丈夫だよ。」
「おッしゃ、戻ろうぜ!」
ひかりの様子に、安心したようにふたりが手を伸ばす。促されるように手を取りかけて、けれど。
〝ひかり〟
そうだった。ひかりにはまだ、「それ」が聞こえていた。
このままふたりと「上」に行けばまったく安心だ、それはわかる。わかるけれど、「下」から聞こえるその「声」を置き去りにすることは、ひかりには。
「……ああもう! やっぱり無理!」
聞こえるそれに、ひかりは腹をくくって吐き出すように呟く。だって「声」は、今も必死にひかりを呼んでいる。
「あのね、ちょっと寄り道がしたいの。でもちょっと心細いから、あなたたちについてきてほしいの。」
そもそもひかりがふたりを呼んだのも、それを放っておけないけれど、一人で向かうのは心細い、という気持ちからだったのだ。なら、
唐突に切り出された話に、ふたりは呆気にとられた表情を浮かべる。そのままひかりをつれて戻れるものと思っていたのだから、当然と言えば当然である。
「こんなとこで寄り道って、何処に?」
「あっち。さっきからずっと、私を呼んでるの。」
「呼んでるって、誰がだよ?」
「わかんない。でも、ほっといたらダメなの。どうしてもそういう気がするの。」
言いながらひかりが指さす先は、もちろん「下」。指される先をのぞき込むように、ふたりがそちらに視線を向ける。
〝ここにきて〟
ひかりとふたりの意識が、そろうように「下」に向いた瞬間、「声」が響くように聞こえた。あっ、という顔をして、ふたりがひかりに向き直る。つまりふたりにも、それが聞こえたということだ
「……行こ!」
だから、ひかりもまた、自分の「声」を高らかに響かせた。
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