第58話

  あ、と洩らした黒の声。

 ただその一音が、虚ろいだ中空に落ちた。

 自らの存在が刺激にならぬよう、感応視で周囲を窺い見ていたシンの、それは本当に、本当にまったく思わず洩れた一音。 

 息を潜めるが如く、微動だにせず静かだった糸縒りの閉じ目が、瞼の内でまるく巡るように動き、強くふるえる。

 開かずとも、その「眼」は何かをた。

 見えた。見えてしまった。

 やわらかな有機を赤く貫く、悪害の一矢を。その結果はてが如何なるものとなったかを。砂塵の只中に落ちた黒艇ふねの中から、シンは見た。

 全ての始めから、起こり得る「最悪」については想定していた。考えないはずがなかった。事と次第によっては当然ものと覚悟を以て、己に強くくさびしてきた。

 だから、それがようやく杞憂に終わると安堵にさざなみ揺れた、まさににその瞬間。現実は、シンがそれまでに重重と無尽に積んだ楔も覚悟も、容赦なく軽軽けいけいと微塵に砕いた。

「あ、  あ、    あ 」

 最初に洩れた一音が、それと同じ音を、抑揚なく不規則に、断続して引きずり出す。

 途切れた。

 たとえ其場そばに在れずとも、それだけは見失わぬよう、ひたすら手握たにぎり、指に絡め、確かめ続けていた命の流れが。この瞬間、奔る流星が視界から消えるように、ふっつりと途切れたのだ。

 その場に起きている狂騒とはまた別の、狂乱にも似た激しいうねり。シンの中に生じたそれは、己のまとう黒よりも濃く冥く、激しく波立ち渦巻く感触。

 後悔であり自責であり、懺悔であり自罰であり、そして無秩序に渦巻く感情のにじみ、無音の悲鳴の、轟くような拡がり──

「またに呑まれるつもりですか?」

 涼やかな、けれどぴしりと打つように響く声が、冥いうねりの拡がりを制した。瞬間、冥いにじみの拡がりがひたりと止まる。

 顔を上げた。すがやかな視線があった。とろめく火酒を光に透かしたような、赤い黄金にも似た色の眼をしたひとたりが、煌煌とシンを見ていた。

「何とか間に合ったようで。」

「……アラミツ……」

自棄キレて手に負えなくなったあなたの相手をしなきゃならないかと、ヒヤヒヤしましたよ。」

 常どおりに颯然さつぜんたる表情で言うアラミツの向け来る眼は、けれどさつたるゆえにこそ峻険な刃のように鋭い。

「〝決断するときに己の感情を放り出してはならない〟って、かつての僕に約束させたのは、誰でもないあなたですがね?」

「……昔の話だろう。まったくおまえは本当に、そういうことをよく覚えている。」

「嘘はついても約束は守る、あなたのそういうところは見習ってますんで。まぁそもそも、をあなたが忘れるなんてないでしょうけど。」

 肩をすくめるような仕種で、言葉を続ける。

 此処しばらく、シンに対してのアラミツが何かといさめるような言を向けていたのは、アラミツ自身がときに、シンへの、アラミツなりの感謝の形であったのだ。

 厳しくも律儀なその報恩に、シンは押し込めた圧を抜くように肩を揺らし、感情の波立ちを抑え、平静へいぜいへと整える。

「別に、キレるのが悪いとは言わないですよ。むしろ本来なら、もっと素直になってもよかったくらいだ。ただ──今のあなたには、他の何を差し置いてもがある。」

 ひたりと視線を当て、シンの感情が整われるのを確認したアラミツは、僅かにゆっくりとした語調で、強調するように告げた。

 シンは、僅かに眉尻を下げた。浮かべる表情に、全くそのとおりだ、という肯定の色をのせ、そのまま暫し所在なげにうつむき、振り仰ぎ、やがて緩やかに頷く。

 為すべきを為す。

 シン自身も幾度となく繰り返したその言葉こそ、アラミツが最も訴えたかったものだろう。

 返された頷きに応えるように、アラミツが、つい、と自身の手を差し出した。チリリと鈴鳴りのような音と共に、白く輝く光の小球がたなごころの上に現れる。

「ウスルのからへの、最後の始末あわれみです。」

 思念粒、ナマートリュの用いる情報オブジェクト。造作なくふわんと放り投げられたそれは、シンの手へ移るや否や幾何学的な光の線を掌上に展開し、そのまま吸い込まれるようにほどけて消えた。

「これ、は……」

「彼等の主義に反する決断を引き出すのはなかなか骨が折れましたが、ならばはどうかあなたの手で、と頼まれましたので。」

 其処に展開されたものを確認するように、シンがアラミツを見る。深く返される頷きは、込められた意を染み込ませるような無言の重み。

「さて、あなたにこれを託して、使は終了。ということでは……僕たちで全力で、引き受けますので。」

「……頼んだ。」

 噛み含めるようなアラミツの物言いに、シンはかそけく呟くようにいらえ、そのまま艇内から消えた。

 抱える渦を、冥い情動を、今ひととき凪の中に留め置く。それは他でもない、最後の「為すべきを為す」ためにこそ、凪の如き「覚悟」が必要だからだ。

 シンの姿が消えた空間をしばし眺めていたアラミツが、ふ、と軽やかに笑った。やっと肩の荷が下りたとでも言いたげに大仰な背伸びをし、そしてこれまた軽やかにくるりと背を翻して、その場から姿を消した。



  バラトシャーデは、微塵の残滓と成り果てた。

 殺して喰らったナマートリュの生命鉱石が、「地球人を守る」という意思を残して抵抗したことにより、寄生と支配を完了できなかった。結果、地球人は、バラトシャーデは自らの物質的処在を失うに至った。

 寄生先よりどころを「破壊」される直前、己の本体である精神器官の微量な組成のみを分離して、這々ほうほうと逃亡した。せめて地球人を道連れにと放った一矢も的を「外れ」た。

 屈辱であった。かつての過去にも覚えたそれと等しい感情を抱えながら、バラトシャーデは煮えくる瞋恚しんにに悶えた。

 しかし、果たして如何なる偶然の末か。単に身体と力を失ったことで不安定になったがゆえの力の加減のだったのか。

 バラトシャーデの抱いた屈辱は、この瞬間に一転した。

 仇怨根深き存在シンに対し、最も大きな苦痛と深い恐怖をもたらすであろう仕儀。「守らねばならぬものの死」という明確な現実を、見せつけることが叶った今、バラトシャーデは興奮と恍惚に打ち震えていた。

 今こそ眺め見たい。自らの身体を砕かれるよりも酷な現実を前に、絶望と後悔に染まる奴の顔を、その様を、腹底から大いに嗤ってやろうではないか。

 惜しむらくは、嗤笑それができる身体がないことだ。外部への干渉も覚束ないバラトシャーデが再び力を得るには、再び新たな依代からだを探し、憑依する必要がある。

 なれば、そうだ、リテラの難民用の衛星だ。あそこへ行けば、なにがしか利用できる生命体がいる。最初は別段弱いもので構わない。精神的な優位を取り完全に支配できれば、あとから幾らでも乗り換えられる。

 ナマートリュの管理下にあるとは言え、自主性を重んじるなどという間抜けた主義を貫く奴等のことだ、外様の奴輩やつばらが多少変化したところで、干渉してくるようなことはまずあるまい。何より、あそこには己を切り捨てたが身を寄せている。力を取り戻すまで奴等の鼻先に寄生してやるのも一興ではないか。

 昂奮の只中に浮かぶ唯一の不満を嘆きつつも、あくあくと吐き嗤うような「笑い」の気配が、バラトシャーデから洩れた。

 いくらか遺恨を晴らしたとはいえ、未だ奴が存在している以上、復讐は達成の途上にある。たとえまた永の時間がかかろうと、今度こそ、絶望にみながら心身の全てを砕かれる仇敵の様を見るために──

「おまえのところはない。」

 次なる復讐の手立てを夢妄するバラトシャーデを、凪ぎきった声が刺した。

 ギョッと目を剥くように、その声の在る方へ向く。無論、今のバラトシャーデには剥くべき目も、向くべき身体もない。だが、その「声」に対しては、そうせずにはいられなかった。 

 はたして、紛うことなく「声」は在った。声の形が、輪郭が、黒をまとう黒い凪の姿をして、其処に在った。

 貴様、と、唸るようにバラトシャーデが吐いた。声はなく声ではなく、思念であるとすらいえないような微かなものが、それでも敵意と憎悪に凝り固まった反吐のように、確固と吐き出された。

 だが同時に、恐怖にも似た驚愕が思考の底に噴き出た。希薄極まりなくなったことで、実態としての捕捉が容易ならぬはずの己を、こうも短時間で易々と見つけ出すなど──

「それは、だ。」

 バラトシャーデの中にざわめく疑心に答えるように、凪ぐ黒シンが口を開いた。平坦に静穏に、だけの声は、ゆえにこそ端的な理解をバラトシャーデにもたらす。

 。そうだ、己のこの状態を、シンは既に、

 確かに、今のバラトシャーデに抵抗できる力はない。「存在することしかできない」ようなこの状態であれば、今こそ「殺す」好機だろう。

 だが。バラトシャーデは精神の奥でほくそ笑んだ。たとえ何度殺されようと、己が「死ぬ」ことはない。己がウスルである限り、死ぬことはありえな──

「あのとき、わたしはおまえを、追えなかったのか、追わなかったのか。」

 バラトシャーデが己の勝ち逃げを思考を巡らせたその瞬間、まったく出し抜けに、シンの凪ぎきった声が響いた。

「どちらにせよ、対処を怠る結果となったことに間違いはない。」

「そして、今更それに思い及んだところで、何も得るものはなく、まして此処にある事実が覆るはずもない。」「たとえどれほど時を経ようと、因果のあざないから逃れ得ることは終ぞなく。」

「だから、」

 語りかけの口調で、断続的に発されていた声が、やがて断定を含んだつなぎことばを置いて、一度途切れた。

 いったい、奴は何を言い始めたのだ。語りかける態でありながら、聞くことを求めるような気配は一切ない。むしろ、まるで意図の知れないまま吐かれる言葉は、バラトシャーデに得体の知れない困惑と不穏を覚えさせるには十分だった。

「だから、選ぶしかなくなってしまった。」

 幾許かの沈思の静寂。力ない諦念めいた動きで伸ばされる繊手。つぼむように握られた掌。

 ゆっくりと開いていくそれに、名状し難い恐怖を覚えたバラトシャーデは、狼狽え、後退あとじさる。退くような身体あしなど、今は持たないにもかかわらず。

 閉じ伏す瞼の向こう側からバラトシャーデを捉えたシンが、「さいご」を告げる。

「……ウスルおまえたちの意向だ。」

 凪ぎきっていたシンの声が、そのとき、無尽の悲痛をこめた色に塗り替わった。

 開ききった掌上に、白い幾何学的光条が展開される。りんりんと高音の響きを伴いながら、光条は爆ぜるように膨らみ、無数の光条となり、バラトシャーデへ向かってはしる。

 この瞬間、バラトシャーデは己の身に何が起ころうとしているのか、ようよう把握した。

 ウスルは精神寄生体である。そして、種族を根とする「ひとつ株の寄生木やどりぎ」の如き生命体である。

 個としての枝が蓄積した記憶を、株としての根が溜め込み、「種の記憶」として残すことで更に強い株となる。これがウスルという種の主幹であり主義アイデンティティだ。

 この特性ゆえに、たとえば枝が折れたとして、再び同じ枝を生やすことが可能であり、すなわちバラトシャーデもまた、過去において、そして今回において、再び「生える」ことができたのだ。

 だが、種族が、その「根」が、自らの特性と主義に反してでも、「枝の記憶を放棄すること」を選択したならば?

 この瞬間、バラトシャーデは己に備わる本能すべてで遁走を試みた。

 逃げねばならぬ。手段は問わぬ。状態も、状況も一切構わぬ。ただから逃げねばならぬ。そうでなければ己の命が、生存が、存在が、すべてが「なくなる」と察して。

 が。

 シンの掌からはしった光条は、牢檻ろうかんめいた幾何学的閉塞を以て、倏忽しゅっこつの内にバラトシャーデを捕らえた。

 出せ、放せ! 光条の檻中おりなかで、何の動きも取れなくなっていくのを感じ取りながら、バラトシャーデは絶望と恐慌を叫ぶ。叫ぶ声など既にないにもかかわらず。

 今においては全てが無為、全てが徒労。

 何より、シンは、ウスルので此処に来ている。ウスルの「根」から断絶された「バラトシャーデという存在」を真に消滅させるという目的を以て。

 つまり、己はとうの昔に、本当の意味で、「消え失せるしかない残滓」となっていたのだ。それに気付きもせず、今度も首尾良く逃げおおせられるものと、安穏と浮かれていたなど、何たる愚昧、何たる浅慮か。

 最早悔いるも呪うもできないまま、バラトシャーデは今になってそれに気付いた。

が、おまえのの場所だ。」

 聞こえたのは、悲嘆と憔悴と絶望に満ちたシンの声。

 ほんのつい今しがたまで最も望んでいたそれを、けれどこの瞬間、バラトシャーデはとして聞くこととなった。

 展開されていた白い光条の、牢檻めいた幾何学的閉塞が、リリ、と震え鳴る。同時に、はたはたと薄紙を折るように、たたねられる。

 やめろ やめてくれ にたくない おれは

 絶叫にも似た拒否は、するだけ無駄だった。そうとわかって、しかし己が存在の消えゆく恐怖を目の前に、それ以外の何ができるというのか。

 輝く幾何学的閉塞は、ひたすらに無限小へと向かって階梯を刻み、やがてついに、内部に捕らえたバラトシャーデごと虚に達し、そのまま消滅した。

「──……」

 シンは、掌を、再びゆっくりと閉じる。表情の一切を何処かに取り落としたようにうつろいで、そのままかぼそく、何かを呟くように、唇を動かす。

 其処には何の声もない。ついに選ぶしかなくなってしまった、ありとあらゆるものに向けた、形あるものにするのすらはばかられる無尽の慚愧が、ただその唇を動かしている。

 すまない、と。ただただ、すまない、と。

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