第37話
「……もしかしなくても、ハズレだと思ってますよね、僕のこと。」
「実際ハズレだろうが。」
打ち落とされ叩きつけられた砂上、よれよれと立ち上がるフィニットが、ぼつりと言った。ぞんざいに肯定するフェレスは、こちらに一瞥さえくれていない。
こんなことを、既にどれくらいの回数繰り返したか。砂にまみれた顔をぐしぐしとこすりながら、頭上を見上げる。
「期待に添えないことは申し訳ないと思います。確かにあなたからすれば、今の僕では弱くて話にならないだろうし。でも僕は、特訓相手があなたでよかったです。僕にはやりたいことがあるから。」
ノーティ、きっと
言いながらほんのりと
まだほんの少しばかり手合わせた程度だが、それだけでも十分にわかる。フェレスの強さは、まさに「強さという概念」を具現化したそれだった。
強さに憧れるノーティなら、絶対に「こっちがよかった」と言うだろう。コンビを組んでいるからこそ、容易にそんな想像もできる。
自分たちを振り分けた基準が何だったのか、今もまるきりわからない。それでも、「必要とするものを得る」ためには、この組み合わせが最適だったのだという確信が、フィニットの中にはあった。
「……だから。あなたの腕を一本ください。」
いっそあけすけに告げれば、眇められた青の点睛が、鋭く威圧のこもった視線で、フィニットを射るように見る。
そして、次の瞬間。
──ハ、
だしぬけに、唐突に、短い息を勢いよく吐くような声が、フィニットの頭上に響いた。
声はそのまま、渦巻くように連綿と洩れ響く失笑となり、ついにはおかしくてたまらないような、ゲラゲラと高らかな哄笑にまで変化していく。
「……笑えますか。」
しばらく続いた哄笑がようやく鳴り止んだとき、静かに平たくフィニットが問うた。
「これが笑わずにいられるか。」
返る答えは、フィニット以上に平たく発された。が、其処にこもるのはやはり、辺りの空間まで震わせるほどの重い圧。
こちらの言など歯牙にもかけていない。ナメた口を利くガキだ、とでも言いたげな表情は、実際、そう思っているのだろう。
フェレスのそんな態度と言葉に、フィニットは、くやしさで唇を噛みしめるような表情を浮かべた。けれど同時に、相手は当然そう言うだろうと考える、理性的な思考も保っていた。
だから。
「そうか。腕一本じゃ少なかったんですね。わかりました、御助言に沿って腕と足に訂正します。」
もう一段、焚きつけるように声を張り上げる。すれば今度こそ、フェレスの表情がはっきりとゆがんだ。
さっきは眇められただけの眼が、より一層の左右差を以てフィニットを
笑う顔、だった。身に備わる兇暴兇悪をまとめて顔に刻み込んだような、凄絶と獰猛に色濃く彩られた、笑う顔だった。
「……くれてやってもいいぞ。その前にお前が砕け散っていなければな。」
成功した。その牙剥き笑う口が発する声に、フィニットは思惑が図に当たる手応えを感じ取った。
そうだ、相手が本気になってくれなければ、自分のしたいことを試すことすらできないのだから。
けれど同時に、「ちょっとやりすぎたかもしれない」とも思った。力量差がある相手を本気にさせるというリスクは、決して小さなものではない。悪くすれば、それこそ致命にすらなり得る。
それでも。
それでも、フィニットはもう自分の意志を決めていた。
自らの内側に響く、「そうすべきである」と断じる声を無視することは、もうできない。だから、これは極めて理性的な、そして譲れない判断だった。
あの砕かれた日から此処に来るまでの間、ずっと考えていたこと。
圧倒的な力の差がある相手との対峙を経て、「何ができて、何ができなかったのか」について。
フィニットは、ひたすらそれを考えていた。
だが、考えているうちにふと思い至る。自分についての「不明」を無視したままそれを考えても、答えなど出ようはずがない、ということに。
僕は、僕の何を、どれくらい、知っている?
自分にそう問いかけた瞬間が、フィニットにとっての真の「始まり」になった。
「探してるんです、僕は、僕の方法を。だから……僕の相手が強いあなたでよかった。」
そう、探している。方法を、自分についてを、自分ができるはずのことについてを。
知らない
フェレスを見上げる。
ただ見下ろされているだけなのに、力尽くで伸し掛かるような、物理的に押し潰されそうな、そんな錯覚すらしてしまうほどの重圧。それでもこれが、今のフィニットにとって、どうしても必要な
そして跳ぶ。接敵する。確信を獲得できるまで、何度でも繰り返す。
既に幾度目になるだろう。此処まではむしろ容易、問題は、いつもこの先からだ。
自他における、身体と強度の格差。考えるまでもなく、こちらの力負けは明らかである。
打撃での利は薄く、大きな一撃はもとより期待できない。となれば、狙うべきは手数の多さを利用したダメージの蓄積、あるいは攪乱からの確実な
一の手、正面に突き入れたフィニットの拳は、横から
すぐさま引き戻した一の手を、最初と同じ形で繰り出す。同じく
即応、フェレスの腕を掴み返す。加えられた捻られの力に逆らわず、そのまま自分の身体ごと回転、位置を変える。更に、自ら回転の勢いを加算して、フェレスの腕を裏取るようにひっくり返し、その真横につく。
傍から見れば、あるいは振り回されているようにも見えるかもしれない。だがその実、一の手を繰り出してから今の今まで、相手を近接で捕捉し、軽業の体さばきで位置取り、距離を保ち続けていた。
裏返ったフェレスの腕を的として、フィニットは突きつけた手のひらから直接光波を当てた。
光波の出力は極めて高い。が、当てた場所もまた強度のある部分。たとえ威力の高い攻撃であろうと、そのまま効を成すとは限らない。
だがそもそも、この一連の目的は、威力を頼るものではない。相手の構えを少しでも崩し、動きを制限することにこそある。
予測の的中。
フェレスの腕の守勢が、ほんの一瞬崩れた。針の穴ほどの機を穿つ向こうに捉えるのは、暗彩色の
最初に自分たちが「小手調べ」をされたとき、あの内側に何の守りもない「素の身体」があったことを、フィニットは覚えていた。
常には表出しない、けれどより守りの薄い可能性がある場所。其処を目掛けてもう一発、光波を放つ。
フェレスが口端をゆがめた。だが、「してやられた」という顔ではない。
それは、兇悪な、嗤笑の形。同時に、フェレスの巡らせた片手が、背後に回り込んでいたフィニットの首根を掴んだ。
剛直の体躯からはとても予想のつかない、迅速でしなやかな挙動。守勢を逐一立て直すといった無駄な動きはなく、何を喰らおうとも構わぬ態で一気にフィニットを引き剥がし、そのまま砂中へ叩き落とす。
上がる砂柱、撒き散らされるおびただしい砂塵。
「まだ……!」
またしても、まだだった。自分のしたいことに届いていない、ある意味予測していたとおりだったからこその「まだ」。
字義どおりに砂を噛む心地で立ち上がりながら、フィニットはそれ大いに悔しんだ。
そしてだからこそ、まだ諦めるわけにはいかない。
「ヘタレず喰いついてくる辺りは及第点をくれてやるが、動きがあからさますぎて、こちらに何か仕掛けたい意図が見え見えだ。」
「だけど、それが必要なんです。」
「……成程、つまりお前がしたいのは、相手の動きを読んで更にその裏をかく動き、ということか。」
「そうです。」
何を言ったわけでもないというのに、フェレスは的確にこちらの意図するものを見抜いていた。
力こそを至上としながら、慧眼ともいえる聡さを備えていること。これもまた、フェレスという存在の強さの理由であるのだろう。
「だが、それをするにはお前の攻撃は軽すぎる。布石どころか、そのままでは誘い水にもならん。」
「……です、よね。」
だからこそ、続いたフェレスの遠慮のない指摘の、覆りようのない事実が痛い。
うなだれるように肩を落として、フィニットは返した。理解はしていても、こうもはっきり真正面から言われてしまえば、やはり骨身に染みる。
確かに、多少動きがよくなろうとも、所詮は「多少」のこと。立ち回りの難易度を上げているのは、指摘のとおり、繰り出す攻撃の軽さ、攻め手決め手の圧の弱さにある。
わかっている。わかった上で、軽い自分の攻撃で、それでも目的を達成できる方法を組むには──
「
「……!」
更なる指摘が、反省と思案にくれるフィニットの思考を、唐突に殴りつける。
思わぬ言葉に、ぎょっと目を見開いた。
恐怖心。それは確かに、相違なく、フィニットの中にある。
頭上へ視線を向ければ、ギラついた天藍の点睛が、冷厳にこちらを見下ろしていた。
「位置取りだの攻撃が軽いだの、そんなものは二の次だ。どれほど小手先をこねようと、その恐怖心がある限り、お前に勝ちの目はない。」
回りくどいことを嫌うフェレスの直截な物言いが、フィニットの抱える「本当の問題」を、端的に一刀両断する。
あぁ、と嘆息するように、フィニットは肩を落とした。
けれどそれは、落胆の仕種ではない。むしろ、おかしみすら覚えるほどのせいぜいとした自覚であり、肩の力が抜けるようなものだった。
自分が砕けてしまうことへの恐怖心が、動きの
フェレスの指摘は、フィニット自身がわかっていて触れてこなかったものであり、だからこそ、あまりにも腑に落ちるものだった。
「……そうだよね、それじゃやっぱり、ダメだよね。」
呟くように、自分に言い聞かせるように、声という現象にする。
幾度も繰り返し考えていた。出ている答えは、最初から「正解」だったのだ。
わかりきっていたことだ。バラトシャーデにしてもこのフェレスにしても、自分とは体格にも強度にも絶対的な差がある。
接敵して攻撃を当てても、まるで微風がかすめた程度の風情。防御どころか避けることも、事によれば往なすことすらしないだろう。
そういう相手に対して、自分は怖がっている。強度の差を意識するあまり、砕けてしまうのではないかという無意識の引け腰を生んでいる。
無論、目的を達するために自らの身を守ることは重要だ。だが、身を守ることと、恐れて躊躇することは、全く違う。
用心は必要であるとしても、恐れていては届かない。届かなければ越えられない。
此処を越えるためには、向こう側を見るためには、叩き落とされ、打ちのめされる過程が、絶対に必要なのだ。
強い身体があったなら、強い力があったなら。そう欲することは勿論あるし、もし力があったなら、こんな過程は不要だろう。
けれど、今求めなければならないのは、そんな「欲しいもの」ではない。
持っていて気付かなかったもの、省みなかったもの、それに気付いて、認めて、自分の中に落とし込むこと。
ただ脆く弱いものと思っていた「自分」という存在。だが、あの負けは、そんな思考を改めるものになった。
自分の「弱さ」なるものが、本当はどういう意味を持っているのか。体格も力も圧倒的に違う相手に対して、その「弱さ」しか持たない自分は何をすべきなのか。
「……砕けるなら、やっぱり一本くらいはもらわなくちゃ、割が合わないよね。」
再び、自分へ言い聞かせるように呟いて、腹をくくる。相手に要求しておいて、自分は砕ける覚悟がなかったなんて、笑い話にもなりはしない。
ふ、と呼吸ひとつを落とす如き間を境に、もう一度、フィニットは跳んだ。
最早何度目の「もう一度」。それでもこれが、フィニットにとっては本当の意味で「初めて」の「もう一度」になる。
挑んで、組み付いて、叩き落とされ、それでもフィニットはやめない。繰り返すことを厭わない。
力量差のある相手に真正面から当たっても、まともにやり合えようはずがないのも確かだ。
だから、フィニットは「動きを読ませて後の先をとる」ことをずっと考えていた。
要は、誘い込みからのカウンターである。だが、それを為すには、相手の攻撃に相応に対処できる立ち回りが必要だった。
自分には強度がない。であれば、何よりまず、「自分が攻撃を喰らわないこと」が大前提になる。
打撃の質が軽いことも懸念材料だ。ならば、自分が持ち得る「手札」には何があるのか。
「……素直に教えを請いますけど、僕の攻撃はどうしたら重くできると思いますか?」
「無理だな。」
真剣な問いに、拍子抜けするほどあっさりと返った言葉。
フィニットの形のいい唇が、珍しくむっと
だが、そのすげなさも、ただ無為にもたらされたわけではないらしい。
「お前の言うそれは、ただの〝ないものねだり〟だ。ないものをいくら研いだところで、何の足しにもならん。そんな当てにならないものより、お前が既に持っているものを使うことを考えろ。」
此処でも同じ課題が与えられた。冷え冷えと見下ろす青の睛眼が示すのは、何処までも辛辣に手厳しい、しかしある意味では
「既に持っている、もの……」
「お前もナマートリュなら、光波熱線のひとつやふたつ、切り札に使えるだろうが。」
考え込むように呟いたフィニットを、フェレスが顎で指す。
光波の物理的行使。確かにそれは、ナマートリュの持つ「力」の使い方として知られるもののうちで、最も普遍的なもの。実際、今しがた繰り広げた近接戦闘でも、直に当てて喰らわせている。
けれど。
「……出力は、足りていると思います。でも僕は、それを決め手にできないんです。」
ぼそりと答える胸中に、言葉にするにはあまりに強い悔しさが、ぐるぐるとわだかまる。
だが、誇れるほどの高出力を有しながら、その行使に身体強度が追いつかないという現実。脆弱な身体というデメリットが、あまりに口惜しい。
そんなフィニットの懐中を、しかしフェレスは、一切
「決め手にできない、だ? だったら手数を増やせ、速度を上げろ。一撃で足りないなら、瞬間に百をぶち込め。反撃も逃げる間も与えない、絶対確実のレベルで叩き込め。」
当たり前に辛辣な、けれどだからこそ、今のフィニットに必要な、的確な答え。
フィニットが呆気にとられた顔をしたのは、その「当たり前」が何の抵抗もなく、すとんと腹に落ちてきたからだった。
「それと、もうひとつ。お前の〝弱点〟が既に相手に知られている以上、〝喰らわない〟ように動くことは当然、相手の目算にも入っている。ならばそれを更に利用し、相手にこちらの手を選ばせ、選択肢を狭め、相手が自分で選んだように錯覚させろ。お前がやろうとしているのは、そういうことだろうが。」
喰らえば砕ける。だから、こちらの立ち回りは「喰らわず当てる」を徹底する。それでようやく、「起点」ができる。相手に対して「動きを読ませるための動き」をしたいなら、あるいは「気取らせてなお懐に誘い込む動き」をしたいなら、こちらの目的を気取らせてはならない。その猶予を与えてはならない。
迅速に、確実に、秘密裏に。先に指摘された速度という要素が、此処にも必須であることを、再確認する形で理解する。
「……やっぱりあなたでよかった。」
「俺は不満だがな。」
フィニットが「求めているもの」を、フェレスは端的に言い当てた。
その言葉に、嘘はないように思われる。それこそ「不満だ」という言葉も含めて、全て。
こちらに期待などしていないからこそ、手加減などせず、徹底的に折ることも砕くことも厭わない。こちらが対処できなければそれで終わり。
容赦なく切り捨てることができるからこその、単純明快な「要求の高さ」。
そうか、とフィニットはこのとき、不意に気付いた。
成程、確かにこれは、自分の敬愛する師を筆頭とした「優しい大人たち」にはできない方法だ。そういう意味で、このフェレスという存在、そしておそらくもうひとりの方も、まさにこれ以上ない師であると言えるのかもしれない。
「要するに、砕かれたって勝てばいいんですよ。」
「……多少はわかってきたじゃないか。」
敬意とふてぶてしさを込めてフィニットが宣言する。すれば、フェレスもニヤリと口を吊り上げる。
対峙してから初めて寄越された、賛辞に近いニュアンスの含まれた声だった。
とはいえ、この確信を本当の意味で手にするためには、まだまだ全然、不十分。
目指す高みはまだ遠い。ひとまたぎに越えられるはずもない。それでも、踏みしめて昇っていくしかできないなら、そうするだけだ。
「そういうことなので、すみませんが、まだまだ懲りずに繰り返させてもらいます。」
「そういう往生際の悪さは歓迎だ。」
フェレスへ向けて声を張り上げながら、フィニットは自分の胸に手を当てた。
此処に確かに存在する、本当の自分を明らかにする。
届かなければならない場所が、今ようやく、見据える視界に入ってきた。
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