第31話

 途端。

「……なっ?」

「……えっ!」

 ふたりは、ほとんど同時に、短い声をあげていた。

 物理落下の加重を超える、とんでもなく強い力。それは伸し掛かられるような、或いは引きずり降ろされるような、ひどい「重さ」だった。

 ふたりはそのまま、地にへばりつく格好で崩れ落ちる。何が起こったのか、この時点では全く把握できなかった。

「何だ、威勢が良かったのは最初だけか。」

では誰でもそうなる。これで身体を動かすことができるようなら、まだ見込みもあるだろう。」

 そんなふたりを愉楽然と眺めるフォレスとフェレスの声が、これもまたように聞こえてくる。

 瑕こそつかなかったが、とにもかくにも押さえつけてくる加重が尋常ではなかった。身体を起こそうと力を入れるが、何処にどう力を入れればこの加重に抗えるのか、見当すらつかない。

 重い、ただただ、重い。

 ほんのついさっきまで、全く何ともなく立っていたというのに、今この瞬間存在しているのは、ひたすら「重い」という感覚だけだった。

 地に縫い付けられるというのは、はたしてこういうことを言うのだろう。

 無為にも似る徒労を足掻く中、幾らかの時間が経過した。

 ようやく、見える程度にじりじりとにじり動く手と膝。いまだ地から離すことは叶わないながら、加重に軋む身体をようやく、僅かずつ、持ち上げることができ始めた。

 無様に這いつくばる格好をさらす。勿論、したくてしているわけではない。

 それでも、こうしなければたちまち身体が地面に倒れ込み、再び地にしまうのだ。

 必死に抗って、抗った結果が、この格好なのだ。

「何ンだ…………?!」

「……重、み……そう、か……重力……!」

 自分たちに伸し掛かってくるものの正体に、ふたりは此処で、ようやく思い当たった。

 空を見上げる余裕は毛頭ない。だが、思い出す。

 此処で最初に見た空の光彩、あれが地に向かって落ちるように流れていたのは、「空すら重力に引かれて落ちていた」ゆえだったのだ。

 だが、それが理解できたところで、今ふたりに伸し掛かるこの重さがどうにかなるわけではない。

 話すための声すらあげられず、そも、運良く出しえたところで、その声すら重力に引かれて落ちていくだけだろう。

 その無様を、泰然と眼下に見下ろすフォレスとフェレス。地に縫いつけられたふたりとは対照的に、特段何の不都合も感じていないような、全く悠然とした態で虚空に立っている。

「〝枷重き獄サ・レァンソ・ン〟については、言葉にするより直接体感してもらう方が、君たちの理解も早かろう。此処は少々特殊な場所でね、いわゆる人工的な高重力場、つまり、限定的なブラックホールを生成、隔離する場所だ。物体や空間、時間すら落ちる……獅子の子が試される千尋の谷として、これほど相応しい場所もそうないだろうと思うのだが、どうだね?」

 ほくそ笑む、という形容が最も似つかわしい声と表情で、フォレスがふたりに問う。

 とはいえ、ふたりにはその表情を確認する余裕など当然ない。せいぜい、聞かされる理不尽の理由を知ることができたくらいだ。

「おい、ガキども。俺はこいつと違って面倒は言わん。お前等が今やることはただひとつ。これ以上たくなければ、とっとと足掻いて動けるようになることだ。」

 フェレスが、四つ這うふたりを値踏みするように見下ろした。眇めて尖る視線から、紺碧の点睛がぎらりと覗く。

 切って捨てるような言葉の、その口調がいささか怒気混じりになっているのは、今のところ、このふたり相手に力が揮えないという不満からだろう。

「こちらとしても、遊べる玩具を提供して貰えるという話だからこそのったのだよ。せめて、可愛らしいを披露してくれるくらいは期待させてくれたまえ。」

「そいつができないうちは、特訓どころの話じゃないんでな。多少時間がかかろうが、どうせ此処なら問題ない。わざわざこんなところにまで来て、立てもせず終わるような無様を晒して潰れてくれるなよ?」

 言うだけ言ったふたつの黒錆色は、そして唐突に、忽然と、その場から消え去った。

 置き去りにされたふたりに、彼等の言い残した言葉を反芻できる余裕など、今は到底ない。

 だが、たったひとつだけ、どうしようもなくわかっていることはある。

 これを克服できなければ、彼等の言うとおり、自分たちはどうしようもないところにしまうのだろうということ。

 今度こそ、本当に、這い上がれないところに。

 冗談じゃない、だったら、今は余計な思考は、いっそできない方がいい。この底辺から、この重みから、あらゆるものを振り切って立ち上がる。

 それだけのために、今のふたりはただひたすら、足掻くしかないのだ。


 黒錆色が消えてから、どれくらい経ったろう。

──ノーティ……聞こえる?

 自分たちに伸し掛かる文字どおりの「重圧」に耐え続ける中、不意に、フィニットから思念の呼びかけが飛んできた。

 こんな状況下、そもそもまともに声を出せようはずがない。だが、思念ならば何とか話せる、というくらいにはなったらしい。

──おう、何とか……聞こえてるぜ。

 ノーティも、思念で返した。フィニットができるなら、自分だってできる。そう思えば、実際できた。

 とはいえ、この返事すら途切れ途切れになる。どちらの思考も、まだまだこの重たさへの苦鳴が大半を占めていることが、否応にも感じ取れた。

 それでも懸命に、思考の隙間に会話をねじ込んでいく。たとえ「気が紛れる」程度のことであろうと、ひとりで耐え続けるよりは、はるかに心強いからだ。

──……何か……とんでもないとこに連れてこられた気がすンだけどよ。

──特訓って……こういうことを言う……のかなぁ……。

──ともかくアイツらが言ったとおり……動けなきゃ話になンねぇぞ……。

──そうだね……まずはそれ……だよね。

 重圧に逆らい続ける中で、自分たちのすべきことを確認する。

 視界を動かし、自分の指先を見る。地に張り付くようについている手を、じわりと引きはがすように持ち上げる。

 たったこれだけの動きであるのに、それすら相当な力を要した。この重力に逆らって、自由に身体を動かせるようになるには、はたしてどれくらいの時間が必要なのか。

──でもよ……できないってワケじゃ……ねぇはずだ。

──そうじゃなかったら……やってみろなんて言わないし……ね。

 ぐぐ、と身体に力を込めるノーティの横で、フィニットがゆっくりと、うべなうように思念をさざなませた。

 腕にも力を込める。砂を握りしめるように、力を手のひらに行き渡らせる。

 繰り返す。何度でも。何十度でも、何百度でも。そも、生半な力で簡単に起き上がれるようなものなら、彼等もこんな過酷をわざわざ課したりはしないだろう。

 身体を起こすという行為。いつもは何の気なくできていたはずの動きを、この状況下で可能にするための、無数のトライアンドエラー。

 必要なのは、動くということそのものを見つめ直し、実践して繰り返すことで生じる、思考と行動の合理化だ。

 それから費やした時間の経過は、もうほとんどわからない。体感では四半日から半日くらいのだったようにも感じるが、そちらに思考を振り割く余裕などあるわけもなく、体内時計の計測も何処まであてにできるものかどうか。

 反芻した無数の幾度、幾幾度。けれど、その全てに、少しずつ違う何かを試し続けた結果、ゆっくり、本当にゆっくりではあるのだが、徐々に身体を起こし、立ち上がるための姿勢を確立し始めていた。

 ふたりのうち、先に動いたのはフィニットだった。

 緩慢よりなお緩慢に、しかし、動き自体に迷いはなく、やがて「立つ」という動作が、完了する。

──え、何でだよ。

 フィニットの身体が、す、と伸びた瞬間、同じく身体を起こそうと悪戦苦闘していたノーティが、驚きと焦りで目を丸くしながらフィニットを見た。

──なンでだよ! 

 繰り返されたノーティの驚愕と焦燥の思念。ただし今度は、どちらかといえば疑問の方が強いニュアンスだった。

 単純に純粋に、その方法がわからないゆえの疑問。

──ええと……多分……重力のかかる点を小さく……するといい……かなって……。

 ようやく立てた姿勢を保持することに意識を移しながら、フィニットはノーティの叫びじみた疑問に答える。

 ただし、こっちもやっとのこと。次は、さっきまで繰り返してきた動きではなく、姿勢保持に意識を集中しなければならない。

 交わす会話の返答も、そのために元のようなものに戻ってしまっていたが、それも今は仕方ないだろう。

 重力に逆らうという行為は、それほど大きな「負荷」であるということだ。

 ノーティが、未だ四つ這いの肩上で、首を巡らせ、フィニットを見上げている。会話から、わかるようなわからないような──要するに、「まだわからない」という顔をしていた。

──あのね……こう、わかる?

 体幹バランスの最適化を維持しながら、思念で、自分が体感したものを、イメージとして送る。

 開いている手のひらを、きゅっと丸める仕種。手足を身体に引きつけながら、小さく丸めるように身体を縮こまらせる動き。

 つまり。

──え、っと……こう、か?

 何だかよくわからないが、と首を傾げるような気配はあったものの、フィニットの寄越したイメージどおりの動きを、ノーティがトレースする。

 じわじわと丸まったノーティに、フィニットはなおも続けてイメージを送った。

──それができたら、少しずつ、ゆっくり自分を転がす感じで、重心を足に移して。

──重心を……足に、移し……いいいいいぃ!?

 フィニットのイメージを実践し、順調に起きあがりつつあったノーティが、突如後ろ回りに転がった。

 足に重心をのせる、というところで、焦ったのか勢い余ったのか。止まるべきところで止まれず、ごろんと背中側に転がってひっくり返り、今度は仰向けに地面に張り付いてしまう。

──うげええええ!

 再び広範囲に伸し掛かってくる重力に、ノーティが思念で悲鳴を上げた。つられて、フィニットまで一瞬バランスを崩しかけ、慌てて姿勢を戻す。

──こんちきしょおおおおおおぉ!

 叫びと同時に、くやしさを爆発させたような思念がノーティから発される。

──ちょっと惜しかったかも。でも、要領はわかったでしょ。

──おぅよ、次は失敗しねぇ……絶対しねぇ!

 ぐぅっとうめきを上げながらも、こうなりゃ意地でも成功させてやる、と意気まく意識が、ノーティの中に膨れ上がっていた。

 もうちょっとだし、頑張って。フィニットも頷きながら力強く応援する。

 このときのふたりは、まだ気付いていなかった。思念の会話と手足を動かすくらいであれば、既に何とか自然に行えるようになっていることに。

 それだけ必死だったのだ。確かに、経過した時間で考えれば、まだそれだけしかできない、とも言える。

 だが、先に自分たちが言ったとおり、「できないわけではない」を、ふたりは既に少しずつ、体現しつつあった。

 仰向けから寝返りを打つような態でもう一度、身体を地に伏せる。

 もう一度、最初から。さっきまでの姿勢の過程と同じ、四つん這いまで徐々に身体を持ち上げ、身体を縮こまらせて、今度こそ。

 繰り返されたトライアンドエラー。ただし、二度目の失敗をするような下手は、もう打たない。

 四つん這いの形から、小さくしゃがみ込むような姿勢へと移行する。

 足の上に重心をのせる感覚で、後ろへも前へも、ぶれないように保持し、姿勢を保つことに意識を集中し、ゆっくりと慎重に、腰を上げていく。

──ぉお……?

──……ね?

 す、と身体が立ち上がりきった瞬間。ノーティが、感心に目を見瞠ると共に、何かに気付いたようにフィニットを見た。フィニットも、うんうん、と肯首するような思念を返す。

 まだ、ほんの「立ち上がる」ができただけ。それでもこれは、ふたりにとって大きな意味を持った成果だった。

 どちらからともなく、上を見上げる。あらゆる色の空が、自分たちのいるこのを目指すようにくる。

 しまえば、あらゆるものが砕けて擦り潰される場所。

 物体のみならず、此処は空間や時間すらも落ちるのだと、フォレスは言っていた。これ以上落ちたくなければ動け、とフェレスが言っていた。

 そうだ。此処は、落ちることに逆らえるギリギリの際、文字どおりの「最底辺」なのだ。

 動けなければ、這い上がれる力がなければ、自分たちもあの空同様、に成り下がってしまう。

 だから、動け。

 今はそれが、ふたりの最大の命題になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る