カラスの見える窓辺 


 何処にでもあるような極々ありきたりな街。

 名物といえるものもないし、子供の心を浮き立たせるような事件も起こらない。

 それなりに穏やかで、それなりに居心地の好い街。

 だけれど最近少しだけ、名物っぽいものが生まれつつあった。

 

 

 何十本もある道路のうちのなんてことない一本。

 何キロメートルも張り巡らされた電線のうちのたった数メートル。

 もう何ヶ月ものあいだ、そのほんの小さな場所に居続ける姿があった。

 一羽の、真っ黒いカラス。

 

 少し遡って4ヶ月ほど前。

 雲一つない青空の下で、電線に並んだ四羽のカラスが他愛もないお喋りをしていた。

 それはそう…「いい天気だな」とか、「この間のゴミまた食べたいな」…とか。

 そのうち会話に飽きた一羽がちょっとした遊びを提案した。

 

「なぁ、そろそろ縄張り変えたくないか?」

 

 一羽はかなり乗り気で、残りの二羽はどっちでもいいという感じだった。

 そこでそのカラスは面白そうに続けた。

 

「ただし、これまでみたいに一緒に移るんじゃなくて、それぞれ条件を満たしたら隣町へ飛び立つ。条件が満たせない奴はいつまでもここにいなくちゃいけない」

 

 これには三羽とも興味を惹かれて、電線の上をひょこひょこと彼の方へ近寄った。

 

「条件って?」

 

「それは自分で決めるんだ。ルールはひとつ……未来に起こることを条件にする」

 

 三羽とも忙しなく顔を見合わせる。電線が小さく揺れる。何をしているのかと人間が見上げている。

 

「あまり簡単にし過ぎても面白みがないし、あまり難しくしても置いてきぼりを食らうことになる。もちろん全員違う条件な。どうだ、やってみるか?」

 

 少しだけ考えてから、三羽とも賛成した。

 提案したカラスは満足そうに笑う。カァという声が町に響いた。

 

「それじゃ俺から。俺は次に雷が鳴ったらここを発つ。次、お前」

 

 右端の彼から隣へと順番に移る。

 

「じゃあ俺は……次に消防車がこの道を通ったら!」

 

 さらに左の三羽目はずいぶん一生懸命考え込む。

 待っている間に四羽目のカラスも面白い条件を探して周囲をきょろきょろと見回した。

 そしてすぐ眼下にある家に目を留めると、いいことを思いついた時のようににんまりと笑った。

 その時やっと三羽目のカラスが条件を決める。

 

「よし、じゃあ次に猫と猫が喧嘩を始めたら俺は出発する」

 

 予想以上に面白い条件に、皆が感心した。

 

「じゃあ最後、お前はどんな条件にする?」

 

 一番左端のひと際毛色のどす黒いカラスにお鉢が回ってきた。

 彼はもったいつけるようにくちばしだけで指し示した。

 

「ん? あの家がどうかしたのか?」

 

 右端のカラスが首をかしげる。

 

「あの二階の窓に人間がいるだろ」

 

 三羽はまじまじとそれを見つめる。

 ごく普通の一軒家の二階にある窓。その部屋には女の子がいた。

 いつもパジャマでいることが多い、腰まで黒髪を下ろした十歳くらいの少女。

 大きな黒目でしょっちゅう窓辺からこちらを見上げている。ちょうど今も。

 

「あの子いっつも居るよな。全然出かけないし」

 

 二番目のカラスが独り言のようにつぶやく。

 

「僕の条件はあの子。あの子が次に泣いたら、僕はここを飛び立つ」

 

 さっきのカラスにも劣らない面白い条件に、感嘆の声があがる。

 

「……でも、それは厳しいと思うな。雷や消防車や猫の喧嘩は見たことあるけれど、あの子が泣いたところなんか今まで一度も見たことないぜ」

 

「まぁ見てなって、僕が一番先に次の縄張りを手に入れてみせるよ」

 

 そうして四羽のゲームが始まった。

 初日は全員が周囲に目を走らせ緊張感の溢れる時間を過ごしたが、結局夜になって近くの雑木林に帰るまで誰も条件は満たされなかった。

 翌日、燃えるゴミの日。

 いつものように美味しい食事を済ませると、四羽とも電線に戻る。

 そして、ひと際真っ黒いカラスが一度大きく羽を広げた。

 

「さてと、一日猶予をあげたけれど天気は好いし火事は起こらないし猫は仲良しだったね。僕は行動に移らせてもらうよ」

 

 彼の発言に三羽は顔を見合わせる。

 彼は勝ち誇るように電線を蹴って、眼下の家に飛んでいった。

 

「あ、あいつうまいな! 驚かして泣かせる気だ!」

 

 雷を条件にしたカラスがそれに気付いて声を上げた。

 真っ黒いカラスはほとんど羽ばたかずに鋭く二階の窓を目指す。そこにはいつものように見上げている少女がいた。

 彼女の目が大きく開かれる。

 カラスは限界ぎりぎりまで窓に近づいたところで両の翼を思いきり広げた。

 

 バッサァ!

 

「怖がれ!」

 

 ガァと大きく叫ぶ。

 十歳くらいの少女から見ればその姿はあまりにも大きく恐ろしい暗黒の使い。

 間違いなく恐怖に号泣する…と思った。

 

「……あれ?」

 

 激しく羽をばたつかせながら、彼は拍子抜けしたような声を出す。

 目の前の女の子は一瞬だけ後ずさったけれど、それからゆっくりと窓に体を近づけてきた。

 表情に恐怖は少しも浮かんでいない。

 むしろその黒い瞳は不思議なものを見つめるように彼を見上げ、かちかちと窓にぶつけている足の爪に向こう側からそっと手を合わせてきた。

 

「なんだよ……全然怖がらないじゃん」

 

 羽ばたき疲れたカラスは一度塀の上に降りて、それから電線へと舞い戻った。

 

「当てが外れたな。あの子が泣くのはいつになるかね~」

 

 仲間たちが嬉しそうに笑って、彼は小さく悔しがった。

 

 それから数日後。

 一番早く条件を満たしたのは意外にも消防車のカラスだった。

 ここのところ雷どころか雨も降らず、天気は好いけれど空気が乾燥気味だった。

 夕暮れ時、火事はけっこう離れたところで突然起きた。

 住宅街を縫うこの道を真っ赤な消防車がサイレンを鳴らしながら通り抜ける。

 けたたましい音が離れていくと、一番に条件を達成したカラスは思いきり喜びの鳴き声をあげた。

 

「じゃあ悪いけどお先に! いい餌場を取らせてもらうぜ~!」

 

 三人が悔しがる前で、彼は茜空に意気揚々と飛び立っていった。

 それを見送りながら誰もが次こそは自分だと主張し合った。

 そしてその次は僅か三日で訪れた。

 

「光った! 見たよな、いま光ったぞ! ほら音も鳴ってる!」

 

 朝から久しぶりの雨雲が立ち込めていたその日、ちょうどお昼を過ぎたところで遂に空が白く閃いた。

 追って転がる音の玉。そして降り出した大粒の雨。

 道行く人たちはそうなることを知っていたように色とりどりの六角形や八角形を広げて足早に通り過ぎていく。

 

「それじゃお二人さん、悪いけど先に行ってるよ! これ以上ひどくなる前にね」

 

 一度体を震わせて水を飛ばすと、二人が残念そうな目で見守る中を灰色の空へと飛び立った。

 

「とうとうふたりになっちゃったな」

 

 猫の喧嘩を待つカラスはひと際どす黒い彼に苦笑交じりでつぶやいた。

 

「僕たちはちょっと失敗したみたいだな」

 

 例の窓には今日も黒髪の少女がいて、外を見上げている。自分達を見ているのか雨空を見上げているのかはよく分からない。

 あれからも何回か窓へと襲いかかったけれど、彼女はやればやるほど慣れてしまい今ではそれを待っているようにも見えるほどだった。

 

 そのあと夜には雨はあがり、翌日からまた日照りのような日々が続いた。

 

 

「……なんだこれ!」

 

 燃えるゴミの日、いつものように朝食にありつこうとした彼らは愕然とした。

 宝の山を全部すっぽりと包みこんで、頑丈そうな網がかけられていた。

 

「俺達に食べさせない気か? これなんとかどかせないかな?」

 

 彼らは力を合わせて端っこをめくりあげると、その隙間から顔を入れてビニールを突き破った。

 

「あったけどちょっとだけだ… とりあえずこれ分けて食べよう」

 

 それはカラスや野良動物対策で一斉に始まった生ゴミのガードだった。

 この日から彼らは大切な栄養源を確保するのに、毎回苦労しなければならなかった。

 

「今日はいつもより激しくいってみようかな。そうすればびっくりするかもしれない」

 

 二羽になってから二週間ほどが過ぎていつものように電線の上に並んでいたある日、真っ黒いカラスはいつもより気合いの入った顔で言いだした。

 

「よし、がんばれ。もし取って食われても骨はゴミ袋から拾ってやるよ」

 

 生々しい不吉なエールを無視して彼はいつもの窓へと急降下した。

 今日は少女が窓辺で読書をしているところを狙う。不意をつくほうが驚くはず。

 出来るだけ限界まで接近してから勢いよく翼を広げた。

 予想ほどではなかったが彼女はハッと驚いたように顔を向けた。

 今日の彼はさらに過激な行動に出る。

 

 コンコンコンコン!

 

 必死で滞空しながら窓をくちばしで叩きまくった。まるで突き破って襲いかかろうとしているように見える。

 少女はさすがに動揺して、手に持っていた本を出窓に置くと部屋の出口へと走っていった。

 

「お、おい! こっちに顔向けてよ! 泣いてるか分からないじゃん!」

 

 腰のあたりで揺れている黒髪を見送りながら、彼は思わず叫んでいた。

 このままここに居たら親でも呼ばれて本当に取って食われてしまうかもしれない。彼は急いで電線の上に舞い戻った。

 

「なんか惜しかったっぽいな。……あれ? あの子また戻って来たぞ」

 

 見守っていたカラスに言われて真っ黒いカラスは息を整えながら窓を見下ろした。

 すると少女は窓の鍵を外し、小さく隙間を開けてから二、三歩室内へさがった。

 

「なんだろ? まさか入っていいって言うんじゃないよね」

 

「行かない方がいいぞ。たぶん罠か何かあるんだよ」

 

「それはないだろ。なんかそういう子じゃないんだよな」

 

 仲間が止めるのを無視して真っ黒いカラスは窓へと舞い降りていく。

 ああは言ったものの少し警戒しながら小さく開いている隙間を覗く。

 

「あれ?」

 

 出窓に、簡単に届くようにビスケットのかけらが置かれていた。

 羽をばたつかせながら少女を見ると、彼女は少し緊張した顔で見つめている。

 彼は何が起きてもすぐに気付けるよう気を配りながら窓枠に爪をかけ、首を突っ込んでビスケットを啄ばんだ。

 すると突然、少女が何かを言った。

 びくっと驚いて顔をあげると、彼女は微かに笑顔を浮かべてもう一度何かを言った。

 彼は彼女の微笑みを初めて見た。そして声も初めて聴いた。

 ビスケットのかけらを全部食べると電線へ舞い戻った。

 

「食い物くれたのか?」

 

「うん」

 

「へぇ~ あの子どんな感じだった?」

 

「なんか…優しい感じがした」

 

 見下ろす窓辺で彼女は彼らを見上げていた。

 日が暮れるまで飽きもせずに、ずっと。ずっと……。

 

 翌日。

 朝から騒がしい鳴き声を耳にする。

 

「あ……! あれ! あれあれ!」

 

 真っ黒いカラスは隣のカラスに声をかけた。

 彼らがいつも利用しているゴミ捨て場で二匹の野良猫が絡み合っている。

 早朝に彼らが頑張ってめくった網から食べ物がこぼれていて、二匹はそれを狙って争いを始めたようだった。

 

「やっとだぁ~……」

 

 遂に条件を満たした彼は心底待ちわびたように空を仰いだ。

 

「やったな~ おめでとう」

 

 真っ黒いカラスには悔しい気持ちは全然なかった。ずいぶん長い時間二羽だけで頑張ってきて、純粋に祝福したい気持ちになっていた。

 

「ありがとう。本当に長かったな」

 

 しみじみとつぶやく。

 猫同士の喧嘩がいっそう激しくなったところに、今度は野良犬がやってきた。

 猫は突然喧嘩を止めて一緒になって犬を威嚇する。

 しかし犬に一吠えされると蜘蛛の子を散らすように素早く逃げ去ってしまった。

 

「あはは……最後に面白いものも見れたな」

 

 思わず笑って、それから残されるカラスに振り返る。

 

「……なぁ、もういいんじゃないか? お前も俺と一緒に終わりにして隣町に行っちゃおうぜ?」

 

 彼らの間にはとても強い友情が芽生えていた。

 餌にありつくのも大変になってしまったこの町に彼だけ残していくのは忍びなかった。

 あの女の子はどう見ても泣かせられない。明らかに彼に慣れてしまっている。

 病弱なのかいつもあの部屋にいるし、親もとても優しそうで彼女を叱るところを見たこともない。

 このままでは彼はずっと独りでこの電線の上に居続けることになるだろう。

 

「いや… 僕はこのまま頑張るよ」

 

「どうしてだよ? だいたいこのまま残ってもし条件を達成したとしても誰にも分からないぜ?」

 

「僕が分かっていればそれでいいじゃん。ここまで来て降りられないよ…それは本当に負けになっちゃうからね」

 

 しばらく見つめ合ったまま沈黙が続いた。

 

「……わかったよ。でも本当に辛くなったら意地張るのはやめて来てくれよ? 絶対にお前を敗者なんて思わないからな」

 

「……ありがと」

 

 飛び立つ前に、カラスは一度二階の窓を見下ろす。

 

「早くこいつを自由にしてくれよ……」

 

 小さくつぶやくと、電線を揺らして白い雲の浮かぶ空へ飛び立っていった。

 ひと際真っ黒いカラスはたった一人、それをいつまでも見送り続けた。

 

 彼は毎日、窓辺に降り立った。

 いつも少しでも勢いよく、そして少しでも際どく窓硝子に近づいて目一杯翼を躍らせる。

 何度やってももうほとんど驚いてもらえないことを、それでも何度も繰り返した。

 すると少女は部屋に用意していたビスケットを一枚砕いて、彼のために出窓に置く。

 いつしか雨の日以外の窓は彼を待つように小さな隙間を開けたままになっていた。

 そのうち、彼は翼をばたつかせることなく窓枠に止まるようになり、彼女はそんな彼にいつも変わらない優しい微笑みとビスケットを与える。

 そんな繰り返しがだんだんと自然になってきて、彼は知らずのうちに彼女の前にいる時間を延ばしていった。

 

「ねぇ、カラスさん……」

 

 ふと聴こえた言葉に、出窓から外を眺めていた彼はふり返った。

 確かに自分が呼ばれた。

 彼は驚いた。

 

「いつも来てくれてありがとう」

 

 間違いない。少女の言っていることが理解できる。

 椅子に腰かけている彼女は読んでいた本を膝の上に伏せて、彼に柔らかな笑みを向けていた。

 

「私ね、ずっとカラスさんを見ていたの」

 

 いつも一方的に話しかけられているうちに言葉の意味が分かるようになってしまったらしい。

 こんなことになるなんて思っていなかった。

 そしてなんだかすごく嬉しい。

 

「私、病気なの。小さい頃からあまりお外に出してもらえなくて…とっても寂しかったんだ」

 

 彼女は通じると思わずに喋っているのだろう。

 でも彼は静かに耳を傾けていた。

 

「いつもここから空を見ていてね、私って惨めだなぁって思っていたわ。自由に飛び回る鳥さんたちを見るたびに自分が情けなくなった……」

 

 彼女は空から彼へと視線をおろす。

 

「でも何ヶ月か前からあなたたちがその電線に止まるようになって、ずっとそこから離れないカラスさんを見ていてね…… 初めのころはこう思ったの。鳥さんだって自由とは限らないんだ、惨めなのは私だけじゃないんだ…って」

 

 彼は、頭の中が真っ白になった。

 今日までの日々で彼が感じていたのは友情だと思っていた。

 それが…同情にすぎなかったなんて……

 

「でもね…あっ!」

 

 彼は窓から飛び出した。

 自分が憐れまれていたこと、彼女との穏やかな時間が傷の舐め合いでしかなかったこと、それを思うと自分でもよく分からないくらい胸が痛んだ。

 

「…カラスさん…!」

 

 後ろで呼ぶ声を耳に拾いたくもない。

 こんなことなら言葉なんて分からないままが良かった。

 先に旅立っていった皆を思い出す。

 自分の抱いていた淡い期待が腹立たしかった。

 電線の上にとまると、彼女の部屋に背を向けたまま怒りを吐き出すように鳴き続けた。何度も、何度も……

 

 

 あれから数日。

 しばらくぶりに空がどんよりと沈んでいる。

 彼はまだこの場所から離れずにいた。

 自分が惨めに思えた。

 でも負けを選択したらいま以上に惨めになる。

 ここから飛び立てない。

 そして彼女の窓辺にも降り立てない。

 どうしたらいいのか分からないまま、孤独を過ごしていた。

 彼女は寂しそうな顔で今日も窓を少し開けている。

 小さく唇が動いている。まるで呼んでいるように。

 彼はそれを見れば見るほどやるせない気持ちが深まって、ビスケットを諦めてゴミ捨て場に降りた。

 

 燃えるゴミの日。

 久し振りだった。

 最近はずっと彼女に食べさせてもらっていたから。

 

「う…重いな……」

 

 仲間の助けもなく一生懸命に網をまくろうとする。

 何度試みてもうまくいかない。

 

「こんなに大変だったんだ……」

 

 最後まで一緒にいた親友を思い浮かべて、自分の無力さに悲しくて堪らなくなった。

 

「くっ… くそっ… くっうぅ……」

 

 絶対に泣きたくない。

 情けなさに胸が張り裂けそうだけれど、負けたくない。

 そう思えば思うほど、網は重く圧し掛かり、目の前の食べ物が遠く見えて、視界が揺れていく……その時だった。

 

 ―――ガルゥ!!

 

 突然右側からものすごい衝撃を受ける。

 そして翼と胸に激しい痛みが突き刺さり、息が止まる。

 気が動転しながら、そこに居るのが大きな野良犬だということを知る。

 同時に、自分が完全に噛みつかれていることも知った。

 とてつもない力が体を挟み込み、右の翼と胸がばきばきと残酷な音をたてる。

 なんで気付けなかったんだろう。

 あまりにも情けなさすぎる。

 どんなに後悔しても、自分を恨めしく思っても、もう遅い。

 激しく振り回されて、地面に叩きつけられ、向かいの塀に投げつけられた。

 体のどこかが焼けるように熱い。

 体のどこかが自分のものじゃないように凍りついている。

 息がぜんぜんうまくできない。

 世界がゆがむ。

 そこにまた犬の顔が広がる。

 今度は左側を鋭い牙で突き破られる。

 信じられない音が体の中で響く。

 助けて

 助けて

 怖いよ

 怖いよ

 嫌だよ

 死にたくないよ

 皆にまた会いたいよ

 一人ぼっちでこんなのいやだよ! 助けてよ……!!

 

 

「離れろーーー! わあああああッ!!」

 

 それは何処か遠くから。混濁する意識の中に絶叫が響き渡った。

 何度も何度も張り上げる狂乱したような叫びと、激しい足音。

 そして吠えまくっていた犬の気配が勢いよく離れていった。

 

「カラスさん! カラスさんッ! わあああッ!」

 

 声がはっきりと聴こえてきた。

 見えないけれどわかる。あの子だ。

 病弱で、家から全然出られない彼女が、ここまで駆けつけてくれた。

 犬と闘ってくれたんだ。

 

「どうしよう! どうしよう…! カラスさんが…カラスさん死んじゃいやだよぉ!」

 

 彼女の張りつめた声。

 人間の言葉が全部分かるわけじゃないけれど、彼女が取り乱しているのはよく分かった。

 

「そうだ…ビスケット! 私ビスケットあげようと思って! これ、これ食べてッ……!」

 

 くちばしに何かコツコツあたる。

 それに……頭がなんだか冷たい。

 冷たいのが次々と降ってくる。

 

「食べて…好きなビスケットだよ…カラスさんのために… 食べてよ……お願い……」

 

 そっか。

 やっと……

 やっと泣いてくれた。

 でもね

 もう飛べないよ。

 

「カラスさんごめんなさい… 私、もうずっと、あなたのことを惨めなんて思っていなかったんだよ?」

 

 目標だった。

 ずっと待ち続けた涙をいっぱい感じる。

 体中の羽根が濡れていく……

 

「私、気付いたの。あなたは私のように縛られてなんかいない…自分で決めてそこにいるんだって。そしたらすごく羨ましくなって、私にもできるかなぁって思って、少し窓を開けてみた。ほんのちょっとでも外に近づけたような気がした… あなたは私のあこがれだったの」

 

 違うよ。

 僕こそ君に憧れていた。

 僕は自分が嫌いだった。

 誰よりも真っ黒い羽根は醜くて、空を飛ぶどんな鳥よりも空が似合わない。

 昼間の空を汚して、夜の空に潰れて、誰にも好きになってもらえない。

 こんな黒が、嫌いで堪らなかった。

 でもあの電線から君を見つけたとき、君の僕にも負けないほど黒い髪の毛がとても綺麗に見えた。

 こっちを見上げる黒い瞳が宝石のように見えた。

 あの窓に見える黒は僕が思っていたような醜いものじゃなくて、本当に美しかった。

 君を見つめていると僕は自信を持てた。

 自分を少しずつ好きになれた。

 僕は君に……恋をして

 君は僕を救ってくれたんだ。

 

「カラスさん… カラスさんの羽根が……綺麗だよ……」

 

 ……ありがとう

 

 

 

 

 

 何処にでもあるような極々ありきたりな街。

 名物といえるものもないし、子供の心を浮き立たせるような事件も起こらない。

 それなりに穏やかで、それなりに居心地の好い街。

 だけれど最近少しだけ、名物っぽいものが生まれつつあった。

 

 幼い頃から病弱だった少女の住む家。

 いつも閉め切られていた窓は、最近よく開いていてレースのカーテンが柔らかく揺れている。

 いつも暗く寂しげな顔で空を見上げていた少女は、最近よく微笑むようになり手を振って挨拶を投げてくれる。

 道行く人に小さな笑顔と癒しを与えてくれる彼女を誰もが好きになっていく。

 腰まで伸びた美しい黒髪を褒めるとき、皆はよく「烏の濡れ羽色」と言って窓辺を見上げた。

 

 

 

 

 

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