第321話史のアヴェ・・ヴェルムコルプス


史が指揮台にのぼり、一瞬目を閉じた。

そして深呼吸。

ゆっくりと目を開けて、指揮棒をかまえる。

楽団員と合唱団の目、聴衆の目が全て史の指揮棒に集中する。


史は胸を張った。

そして、ゆっくりと指揮棒を振り下ろした。

モーツァルトのアヴェ・ヴェルムコルプス。

その天使の音楽とも言える美しい響きの世界が花開いた。


カッチーニのアヴェ・マリアの世界とは違う。

肩の力が抜け、全身から心の奥まで安らぎに満たされる世界に変わった。

うっとりと魅了される世界でありながら、そのおおもとには、聖なるものへの憧れと確信に満ちた世界。

また、心のウミを全て消し去るような、清らかで力にあふれた世界が、楽団員、合唱団、そして全ての聴衆を包み込んだ。


カッチーニの時の涙とは違う。

全員がホッと安らいだような顔になった。


そして、史はふんわりと、指揮棒を止めた。


その史が、指揮台をおりて、聴衆に頭を下げる。

ホール全体が、またしても地鳴りのような拍手に包まれた。


榊原も、合唱団から抜けて史の隣に立った。

また、ホール全体が、ものすごい拍手に包まれている。



そこまで来て、ホールの立ち見席で聴いていた母美智子は、やっと胸をなでおろす。

「ふう・・・やっと安心した」

「バッハだけでも冷や冷やで、そのうえ突然指揮者なんて」


そんな美智子に、父の晃

「ああ、でも、史は頑張っていた、由紀も良かった」

「ほら、由紀は泣き崩れている」

晃は、由紀が気になっている。


大旦那は、まだ泣いている。

「ああ、すごかった、史がまさかここまでとは思わなかった」


そんな大旦那に、奥様が声をかける。

「ほら、あなた、そろそろご挨拶ですよ」

「涙を拭いて、ステージに行かないと」

その言葉で、大旦那は、ステージに向かって歩きだす。


マスターが、晃と美智子の隣に来た。

「史君には、洋子さんたちが特別のケーキとお茶を差し入れしたんだ」


その言葉に美智子が、反応した。

「え?何?特別のケーキって?」

「どんなの作ったの?」

「お茶も?」


美智子は、演奏が終わった途端、ケーキとお茶に関心が移ってしまった。

これには、マスターも晃も、苦笑いになっている。

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