第320話クリスマスコンサート(8)
史は、カッチーニのアヴェ・マリアのピアノ前奏を、重くそして固めに弾き始めた。
第九で大興奮気味のホールの雰囲気が、一瞬にして引き締まる。
バッハの演奏の時と同じ、聴衆の全員が姿勢を正している。
史の前奏に続き、由紀のソプラノソロが始まった。
「きれい・・・」
「心に沁みる」
誰か少しポツッといっただけ。
史と由紀の奏でるアヴェ・マリアに全ての聴衆がひきつけられて、その後は声も咳も出さない。
曲が進むに連れて、両手を組み、目を閉じて聴き入る人が増えてきた。
オーケストラの音と、合唱の響きが重なると、涙を流す人が出てきた。
そして、座っていられない人も多くなった。
客席のあちらこちらで立ち上がり、姿勢を正し手を組み、アヴェ・マリアを聴きながら、祈っている。
また、泣き出してしまう人も多くなった。
立ち上がることもできず、泣いている人、立ち上がって両手を組みながら泣いている人も多い。
そして曲の最後の部分では、とうとう全員が立ち上がり両手を組み、祈る状態となった。
カッチーニのアヴェ・マリアが終わった。
史がピアノから離れて立ち上がり、由紀と並び、聴衆に向き合い、一緒に頭を下げた。
一瞬、間があった。
そして、地鳴りのような、ものすごい拍手がホール全体に湧き上がる。
「史・・・」
由紀は泣き出していた。
史も気づいた。
由紀の手をそっと握る。
「ブラボー!」
ホールのあちこちから、今度はボラボーの嵐になった。
史は
「すごい・・・みんな立っている」
今、気づいたようだ。
榊原からも小声で
「史君、由紀ちゃん、僕も感動した、素晴らしかった」
榊原も、史と由紀の隣に立った。
そして、三人で再びお辞儀をする。
ホールは再び、ものすごい拍手とブラボーの嵐に包まれる。
そして、また、アンコールの声がかかりだした。
史は榊原に
「それでは、よろしく」
と小声、つまり史の出番はこれで終わり、頭を下げて舞台裏に戻ろうとする。
しかし、榊原は少し笑って首を横に振る。
「史君、指揮をして欲しい」
いきなり、とんでもないことを史に言ってきた。
「え?どういうこと?」
と立ち止まる史。
由紀は
「ほら、さっさと!」
と、史の背中を押して、合唱団に戻ってしまう。
榊原も
「じゃあ、頼むよ」
と言い終えて、自分は合唱団の男性たちの中に入ってしまった。
史は
「え?マジ?」
と思ったけれど、今さら仕方がない。
再び、聴衆全体に頭を下げ、足取りもしっかりと、指揮台にのぼった。
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