逃亡③
天幕のなかでシオンは一人きりだった。
気配を感じないので外の見張りもいないのだろう。食事の用意をしてくれた少女はそれきり姿を見せなかった。
何か声を掛けられたような気がしたが、シオンは横になっていたので応えなかった。不貞腐れているとでも思われたのだろうか。少女は黙って籠を置いて出ていった。
そのうち籠から漂ってくる香ばしいにおいに負けて、シオンは身を起こした。
羊肉の串焼きも揚げ焼きの饅頭も美味しかった。イスカの香草を使った香茶にはミルクが入っていて、こちらも熱々だった。西へとたどり着くまでの道中、ろくな食事にありつけなかった。シオンは夢中でそれらを平らげた。
食事を終えるとやることもなくなり、シオンはまた寝転がった。天幕には寝具の他に何もなかったが、しかし扱いは
それも今夜までだろう。シオンは幼なじみの横顔を思い出す。西の部族の族長であるシュロは、もう昔のシュロじゃない。幼なじみには家族がたくさんいるし、西の部族たちもシュロを信じて付いてきている。
ここで殺されないのは恩情のつもりだろうか。明日、シオンとスオウはイスカの王城へと連れて行かれる。長い時間を掛けてようやくたどり着いた西からまた逆戻り、そうして宰相の前で首を刎ねられるのだ。
そっちの方が、もっと残酷じゃないか。シオンは独りごちる。だが、シュロはきっと正しい。西の部族を守るためにはこうするしかない。幼なじみという
シオンは瞼を閉じた。側女の最期の声がきこえた。すまない、カンナ。お前の願いは叶えられそうもない。でも、わかってくれるだろう? 私たちが逃げればシュロが罪人になるんだから。
まるで自分への言い訳みたいだ。自嘲するシオンにカンナは笑っていたように思う。夢のなかの側女は昔みたいに説教をしてくれなかった。最後まで手の掛かる娘だったと、呆れられたのかもしれない。
「ねえ、おきて」
その呼びかけは何度目だったのだろうか。やっと起きたシオンに少女はほっとした顔を見せた。
「処刑の時間でも早まったか?」
「ちがうよ。……きて」
天幕のなかはシオンと少女の二人きり、それでも少女は声を潜めている。
「スオウがまってる」
少女に腕を引っ張られながらシオンは天幕を出る。
「だいじな子たちだから。ちゃんと、返しにきてね」
シオンはまじろいだ。この子たちはシオンとスオウを逃がすつもりらしい。
「よせ、そんなことをしたらお前たちが」
「だいじょうぶ。とうさまは知ってる」
「じゃあ、お前たちは……」
シュロの子どもたちだ。スオウはいつから気が付いていたのだろう。視線を上手く躱されたので、表情が読めない。そうしているあいだに少女に責付かれた。
馬の背中には防寒具と食糧が括り付けられていた。少年が抱えている両手剣を受け取る。薄情な奴だ。見送りにも来ない幼なじみに向けてシオンはつぶやく。それとも、あの子たちが嘘を吐いたのだろうか。父親には内緒でシオンたちを助けた。あとで酷い折檻を受けるかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。
休息は一時だったとはいえ、十分過ぎるくらいだった。
あの少女たちが用意してくれた黒馬はよく走る。鍛えあげられているから多少無理をさせても簡単には潰れない。だが、シオンには行く当てがない。先導するスオウに従って、ただ馬を走らせるだけだ。
東へと向かっていると気が付いたのは、十日が過ぎたあとだった。
日中にも雪がちらつくようになって、野宿ができなくなった。嵐になる前に集落へと入る。こんな時期に旅人などすぐに怪しまれてしまい、二日目の晩には侵入者を斬った。
ケイトウはシオンたちを生かすつもりはないらしい。
シュロを頼って西へと行くのは想定内、そしてシュロに追い出されて彷徨うのも計算済みだったのだろう。そこらに網を張っているから、どの集落に寄っても刺客に襲われる。スオウは黒馬を売って、シオンに女物の
長い冬を耐えて短い春が過ぎ、そうして夏が来た。
路銀を稼ぐためにスオウは畑仕事に勤しみ、シオンは針仕事をする。路銀が貯まれば収穫の時期を待たずに村を出る。密告者はどこの集落にもいる。一所に落ち着けないまま、シオンとスオウは仮初めの夫婦を演じつづけた。
夜襲、密告、裏切り。何度も経験した。
獅子王が暗殺され、シオンがイスカの王城から脱出してから三年が過ぎた。もっとも、シオンは途中で数えるのを止めたので、正確に覚えていたのはスオウだった。
シオンの黒髪は腰まで伸びていた。女物の貫頭衣は動きにくかったものの、すっかり馴れてしまった。唇に乗せた赤の色を鏡で見るたびに、シオンは嗤いたくなる。カンナが見たら喜んだだろうか。シュロが見たら笑っただろうか。
そうした逃亡生活もここが最後となった。
シオンとスオウはとうとう東の果てへとたどり着いた。モンタネール山脈の麓、イスカの果てだ。
イスカの王城以外を、この数年でシオンは知った。どの村も貧しく、荒れていて、夏と冬を生きるだけで精一杯だった。
「お前は、帰ってきたんだな」
少年のスオウは、あのとき獅子王と宰相の前でそう言った。シオンも少年の声を信じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます