第54話 俺が、お、お、お兄さんです(小声)

 ロス、という言葉は俺のためにある。

 これは紛れもない藤宮ロスだ。気が付くと彼女の面影を探している自分がいた。

 風にゆれる髪、やわらかな頬、そしてふっくらとした唇、そしてあの香り。


 哀愁漂う横顔を傾け、冷めかけたコーヒーを口に含…もうとしたまさにその時、背中バンバン!マジかっ

 カップが前歯に当たり香ばしい色の液体が派手に飛び散った。


「汚っ!早く拭きなよ」

 いかにも嫌そうな顔をした波多野が、腕組みをして立っている。

「あ、ごめんごめん。っておい!お前がやったんだろーが」

 抗議の視線をしれっとかわした丸い瞳が、くるりと動いて止まった。

「親切なあたしは、しけた面のあんたに気合を入れるお手伝いをしただけ。ねー佐久間ちゃん」

「ですよねー」


 顔をあげると口元を抑えた佐久間が、笑いに震える手を必死に抑えながらハンカチを差し出している。

「ですよねー、じゃねーよ佐久間」

 ひったくるように受け取ったクマ柄のハンカチでテーブルを拭いて席を立つ。

 夕方休憩の妄想ぐらい、ゆっくりさせろっての。

「ハンカチ、洗って返すから。佐久間おつかれ」


 本館の仕事を終えるころにはもう、陽が落ちて外は暗くなっていた。

鍵とトランシーバの確認をして孵化飼養フィ―ルドに向かう。開錠し、目視で変わりがないことを確認する。

孵化準備のため2日前から転卵を止めた孵卵器からは、ブゥンと言う静かなモータ音だけが聞こえていた。

 明日で、孵化に必要な日数の28日間を消化する10個の卵達は、1番下の部屋に移され、その時を静かに待っている。


  チナツが卵を産んでから今日まで、発育の進行を見るための作業、検卵を1度も行なっていない。卵を外に出して光を当て、有精の有無と発育の状況を確認する検卵は、卵の温度を下げ中の雛が弱ってしまうリスクがある。

 室内の温度を上げたとしても、ゼロにはならないリスクを避けるため、全ての卵は未確認状態にある。

 だから明日になってみないと、無事に産まれてくるハヤトとチナツの雛が、何羽になるのかはわからない。

 

 今日はここに泊まり込むつもりで、着替え、マット、毛布などを持ち込んである。記録用のカメラもOK。これでよしっ。

 日誌を書き、飼養スペースの敷材と温度を何度も確かめる。なんとなく落ち着かない気分に手の平を開くと、じっとりと手汗が滲んでいた。緊張しているらしい。


 ハヤトとチナツのゲージ周りをチェックしに周ると、薄暗闇の中、ハヤトがキラキラとした瞳で俺を見詰めて来る。

「お前も心配なのかハヤト。だよなー、親父になるんだもんな。ん? 待てよ。実質俺が兄となって育てる訳だから、ハヤトは俺の親父になるってことか? ってことはチナツが俺の母ちゃん……」

やめよう。緊張のあまり思考回路がどうかしているらしい。


 孵卵器の前の椅子に腰を掛ける。30分おきのチェックも問題ない。温度も湿度もOK。1時間、2時間、3時間、じりじりと時間が経過していく。

 時折訪れる睡魔を振り払っては、眠気覚ましのコーヒーを流し込むも、そろそろ限界だ。腕を組んで頭を垂れる。

 少し、少しだけ仮眠しよう。10分だけ――。



 遠く。遠くから、何かが聞こえてくる。

それはとても小さく、かすかで、弱々しく、真剣に耳を澄ませていないと聞き取れれないほどの何か。


 ひ……よ。


 ハッとして自分の位置を確かめる。少しばかり眠ってしまったらしい。

今、聞こえたよな?

 うるさいぐらいに跳ね上がる己の鼓動が落ち着くのを待って、もう1度耳を澄ます。


……よ。ひよ。


間違いない。


そっと立ち上がり四角い小窓から覗くと、3列に並んだ1番手前の卵の一部が円錐状に割れている。その隙間から、小さな、本当に小さなくちばしが見え隠れしている。

く……湧き上がる嬉しさに雄たけびを上げそうになる。


そ、そうだ、これは大事なことだ、刷り込みの第一歩だ。

周りを見渡し、念のため誰もいないことを確認し、窓に口元を寄せる。

「お、お兄さんはここですよー、俺が兄ちゃんだぞー」

さっと顔をあげてもう一度見回した。

誰も見てねーだろーな。


「ひよひよ。ひよひよ」

気持ち声が大ききなった気がする。俺の声が聞こえたか? よ、よし。

「俺が兄貴だぞー、君たちのこと待ってるからなー」


もう間もなく、夜が明けようとしている。








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