第51話 ずっと変わらないものなんです。
ふんぞりかえった姿勢のまま、波多野がぽつんと言った。
「あたし、悟と同じ書道教室に通ってたんだよ」
「え?」
思わず振り返ると、窓を眺めたままの波多野が口を開いた。
「いつだったかさ、文鎮忘れて筆箱を代わりに使ってたら、悟がやってきて´僕もう帰りますからこれ使ってください´って貸してくれたんだ。あの時の悟はまだ小学校低学年だったかなあ」
悟……可愛いじゃん、いい奴じゃん。
そこへ、うんうん肯きながら有野も顔を出す。
「僕はもう少し後の悟くん。大学のサークルで、こども食堂の手伝いしてた時に会ったんだよ。こども食堂って知ってる?」
「いや」
「家庭の事情で、家でご飯を食べられなかったりする子供が集まるところなんだけど、悟くん、そこに手伝いに来てたんだよね。口数は少なかったけど、いつもにこにこして、よくちびっ子達に囲まれてたなあ」
俺の頭に、子供たちに囲まれた藤宮さん似の少年が、照れくさそうにする様子が浮かんでくる。
それぞれの胸に浮かぶ藤宮さんの弟は、その日のままなんだろう。
一瞬、しん、とした車内に、ハンドルを握った刈谷崎さんの低い声が流れる。
「香織も悟も、あの二人が小さい頃からよく知ってるんだ。あの事件の後、香織の周りは何もかもが変わった。本当に何もかもがだ。その中で、ずっと変わらないものが少しぐらいあってもいいだろうと思ってな。俺はそのひとつになろうとこの1年を過ごしてきたんだ。だが、残念ながら届かなかった。すまん」
そんな…それは違いますよ、それは、と言いかけた言葉が喉元で詰まる。今日の今日知った俺が言えることじゃない。
どうしたらいいんだ、いったいどうしたら――。
「もう少しで着くぞ」
考え込んでいたところへ聞こえた声に背筋がピクリとする。ふーっと息を吐き顔をあげると口を開いた。
「俺を、俺をひとりで行かせてください」
「何?」
「はあ?」
「ええ?」
3人の驚いた顔を前にもう一度頭を下げる。
「俺に時間を下さい。1時間でいい、1人で行かせて下さい。お願いします!」
「ちょっと待て守野、急にどうした?」
刈谷崎さんが路肩に車を寄せる。
「ここに来て馬鹿全開!って何の冗談にもならないよ」
「おい守野、お前1人で行ってどうこうなることじゃ……」
「わかってる。俺が知ってるのは、ホテルイノウエでの藤宮さんだけけだ。それしか知らない。そんな、何にも知らない俺に出来ることがあるとすれば、俺が変わることだけなんだよ」
俺は真っすぐ3人を見る。
「ずっと変わらないみんなは、1時間後に彼女を迎えに来て下さい」
バシィッっといつもの衝撃が背中に走る。
「似合わないんだってっ、カッコつけたって」
ぺシぺシぺシッと後頭部に感じた衝撃は有野か。
「どさくさで彼女って言うな彼女って」
痛ってーよおい、やめろってかっこつけてねーし彼女って、それはまあどさくさは認めるけどな。
「守野」
刈谷崎さんがサングラスを外して俺を見る。
「はい」
受け止めた視線をそのまま返す。
「お前、面白いな」
ふっと頬で笑った刈谷崎さんが、エンジンをかけた。
「何がですか、もしかしてこの顔がとか?」
面白い冗談を言ったつもりだった。
「そうだ」
まさかの肯定かよ!心の反論はエンジン音にかき消される。
ハイエースバンは加速すると本線に合流し、赤いテールランプの波間へと滑り込んだ。
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