第26話 違うそうじゃないんです。

 脱力する俺の前にタオルが飛んできた。慌ててキャッチすると有野がひょいと顔を出す。

「それ巻いて。傷口洗って消毒したら病院行くから」

 病院、って俺が? 未来ちゃんでなく? いやいやいや俺は大丈夫だから。


 タワーを伝って降りると、水道へ向かった。赤く染まったタオルを外し水で傷を流すと、ふさがらない傷から血が流れ出てくる。取り敢えず新しいタオル巻いて止血して帰ればいいかと思う。


「大丈夫?」

 不意に空気が揺れ、藤宮さんが隣に顔を出した。ふわっとゆるく巻かれた髪が頬にふれそうな距離に、妙なイントネーションの早口になる。

「あ、全然平気ですもう痛くないし、落ち着いたら帰ります」

「だーめ、すぐ病院行くよ、有野君がロッカーから荷物持ってきてくれてるから車に乗って」


 首を横に振って丁寧に辞退しようとする背中にバシッと例の衝撃が走った。

 振り返ると波多野が腕組みをして睨みつけてくる。

「あんたねー、この間教えたでしょうよ。にゃんこの口の中は人獣共通感染症の菌があって、例え毎日ブラッシングしてる子でもゼロにはならないよって」


 首をすくめ遠慮がちに口を開く俺。

「まーそれはそうだけど、ちょっと噛まれたぐらいで病院とか申し訳ないし」

 息がかかるほど、ぐいと顔を近付けた波多野からドスの効いた声が放たれる。


「ほんと馬鹿、発熱でもしたらあんたの馬鹿に拍車がかかるでしょーが、にゃんこの口の中に必ず居るパツスレラ菌が入って重症化でもしたら、あんたが担当してるお客様に迷惑かけまくりになるでしょうが。ついでにその頭とアホ面も見てもらえ」


「アホ面とは言わないがまあ、考えが至らない馬鹿と言う点には同意だな、それにその傷ちょっと噛まれたとは言わないぞ守野ー、リュック積んどいたぞー」

 有野の追い打ちを喰らいぐうの音も出ない。


「という訳だからほら守野くん、行くよ」

 あれ? もしかして藤宮さん笑ってる? 馬鹿な上にアホ面を聞いて笑ってる? どいつもこいつもひでーよ。


 チャリン、とスマートキーを鳴らし歩き出す藤宮さんの後を大人しくついていく。制服のスカートから伸びた、細いふくらはぎに続くきゅっと引き締まった足首につい目がいってしまう。


 中庭を抜け駐車場へ出ると、綺麗なパールホワイトのスポーツカーのドアが開けられた。丸っこくて可愛い車を勝手に想像していた俺はちょっと驚く。

「ごめんね、お掃除が間に合ってないけど乗って」

「すみません、お邪魔します」


 走り出してすぐこの車がマニュアル車だと言うことに気が付いた。滑らかにシフトアップする藤宮さんの細い手がとても綺麗に見える。

 視線に気付いたのか、いたっずらっぽい笑顔を向けてきた。

「この車ね、トヨタ86って言うの。今時マニュアルなのって思う?それがいいんだなー」

「意外でした、車が好きなんですね」


「うん。重心が低くて路面を直接感じられる感覚も好きなの」

 楽し気にそう言ってシフトダウンするとカーブを無駄なく綺麗に通過していく。なんだこのギャップは。ヤバいぞ、マジでやられるぞ。


「MT車に乗せてもらったの初めてなんです俺、かっこいいですね、今度ドライブに連れて行ってくれませんか」

 口にしたそばから藤宮さんが盛大にふき出した。

「そんな誘われ方したの初めてー、守野くんやっぱり面白い」

 あれ、俺やらかしたのか、やっちまったのかー? 違うそうじゃないんです。


 クスクス笑みをこぼれる唇から、柔らかな声が聞こえてきた。

「いいわよー、その傷が治ったらね」

 俺はその瞬間、心の中で盛大にガッツポーズを決めてその拳を天高く突き上げていた。違ってなかった、えらいぞ俺。









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