後編 別離

 現世に生きる多くの人間が、自分の人生にはそこまで大きな山も谷もなかろうと思っているものである。五條晶もその一人で、特に妻・葡萄染千雛の「祟り」に脅かされた生い立ちに比べれば、自分の歩んできた人生など、平坦の極みであると思っていた。そしてこれからは、千雛のその数奇な半生すらも、自分の手で平穏で幸福な人生に変えてゆくのだ、とも思っていた。

 それがいつの日にか一瞬にして失われる運命にあるだなんて、そんな物語の中のような悲劇、自分には縁がないと固く思い込んでいた。

 けれども彼の知らないところで、その家族が背負っていた因果は、想像以上に重く複雑で奇怪だった。





「絵になりますね」

 などと通りすがりに話しかけてくれる人。

「そうですか〜? ありがとうございます!」

 無邪気に笑ってお礼を言う千雛。翡翠と瑠璃は子供っぽいと非難轟々のパーカーだが母親はお気に入りらしく、しかしそのド派手な原色と星柄が目立って目印になるので、子供たちは人混みでも迷子にならずにすんだ。紅葉に染まる京都では、はしゃぐ可愛らしい男女の双子というのは人目を引いて、海外の観光客も喜んで写真を撮ってくれたりする。思い出に残る最初の家族旅行で、そしてそれが思い出に残る最後の家族旅行になった。


「よかったら四人で撮りますよ」

 優しげに、声をかけてきた青年がいた。高価そうな一眼レフを携えているところを見るに、ある程度写真は撮り慣れていそうだ。

「いやぁそんな……」

 控えめな晶は、両手を振って断ろうとするも、

「せっかくだし、撮ってもらおうよ!」

 乗りの良い千雛に遮られる。青年は、そんなやりとりを微笑みながら眺めて、

「カメラ貸して下さい。僕、写真趣味なんで、とびっきり可愛く撮る自信ありますよ」

「ほんとですか!? やったね瑠璃ちゃん」

「いえーい!」

 千雛と瑠璃がものすごく乗り気なので、晶も遠慮がちに

「じゃあ、お願いします」と申し入れざるを得なかった。


「仲良しなんですね」

 終始にこやかに、青年は家族とやりとりし、写真を撮り終わると晶にカメラを返すと、にこやかに一礼して去っていく。


 ——かに思われた。しかし。


 青年はすれ違いざまに、千雛に向かって囁いた。ぞっとするような、冷たい声で。


「幸せか? 葡萄染千雛」


 雑踏の中で、極めて不自然に、去り際のその一言だけが、切り取られたように宙に浮いた。けれど瑠璃も、翡翠も、確実に耳にした。


「幸せか? 葡萄染千雛」

 謎の言葉を言い残した青年はいつのまにか、忽然とと言っても良いくらいに、人混みの中に消えてしまっていた。千雛はしばらく呆然と、その辺りを見つめてた。

「ママ」

 不安そうに小さな手を伸ばしてきた瑠璃の呼びかけに、はっと我に帰って千雛は瑠璃の手を握り返した。

「今の人、知り合い?」

 千雛は首を振った。

「ううん、そんなわけないよ」

「でも、ママの名前知ってた」

 瑠璃はこっそりと翡翠に目配せをする。けれど翡翠には、母にかける言葉を思いつかなかった。ただ、得体の知れない嫌な予感に、顔を蒼白にして、怯えることしか、できなかった。

 京都旅行も帰路につく頃には、母は奇妙な青年とのことは忘れてしまったようだったが、二人とも、どうしてもあの声が、言葉が、脳裏を離れなかった。

「幸せか?」

 と尋ねる低い声。その一音一音に刻み込むように込められた「怨」に、瑠璃も翡翠も、心の凍りつくような感覚を味わったのだった。


 その出来事をきっかけに、少しずつ日常に変化があった。

 壊れ始めたと言うにはあまりに些細な、けれども確実に、幸福な家族を蝕んでいく、それはまさしく「呪い」のように。

「どうしよう、見つかっちゃったかもしれない」

 夜更けに声がするので、翡翠は、半分夢の中で耳をそばだてた。

「まだ隠れられている?」

 声の主は瑠璃に間違いないが、会話の相手の声が聞こえない。独り言なのだろうか。

「どうしたら、その人から逃げられる?」

 夜な夜な誰と話しているのか、何を話しているのか、怖いし気味が悪いながらも好奇心が勝って、翡翠はこっそり聞くようになった。「まだ来ない」「まだ大丈夫」そんな言葉が繰り返し聞こえた。どうやらあの日の不安の正体を、瑠璃だけが知っているらしいのだと、翡翠は直感していた。けれどなぜだろう。自分には頑なに教えてくれないのだった。日に日に疲れを滲ませ、元気を失っていく妹。自分だけがのうのうとうつつを生きている気持ちがして歯がゆい。

 毎日翡翠を引っ張り回して遊んでいたあのお転婆な瑠璃が、春が来る頃にはやつれて口数が減り、一人で部屋に篭もり、夜はどこかへ消えてしまうことが多くなった。夜にいなくなる瑠璃のことを、翡翠はどうしても、両親に教えることができなかった。

 その日は特に酷く疲れた様子で、瑠璃は夕方からずっと、二段ベッドの下の段で布団を被っていた。

 退けるともぬけの殻、ということもあるので、慎重に様子を伺うと、布団の中で瑠璃は身体を丸めて震えていた。

 さすがに見かねて翡翠が尋ねた。

「瑠璃ちゃん」

 返事はなかった。

「ねぇ、大丈夫?」

 今度はしばらくして、小さな声が返ってきた。

「大丈夫。ちょっと熱があるみたい……」

 あんなに自信満々で堂々としていたはずの瑠璃の声音は、びっくりするほど弱々しい。

「いつも話しているのって、誰なの?」

 刺激しないように、怖がらせないように気を遣いながら、翡翠は聞いた。

「なんでもないよ」

「でも瑠璃ちゃん、とても疲れてるでしょ? 心配だよ」

「心配しなくていいよ」

「もしかして、タケっていう人?」

「タケは人じゃない!」

 がばっと、瑠璃が跳ね起きた。

 それから、奇妙なことが起こった。

 子供部屋の電気が、スイッチを弄っていないはずなのに一人でに点灯し、さらにショートし、火花を散らした。蛍光灯が割れて、頭上に振ってくる。慌てて部屋の隅に避難した。

「これが瑠璃の、雷神の力。こんな風にね、電気を操れるの。雷だって起こせるんだよ!」瑠璃は先程までの弱り切った様子から一変、苛立ったように、だんだん声を荒げながら話し出す。「お兄ちゃん。瑠璃、神様の力を持ってるの。瑠璃ね、神様の遣いに、選ばれたの。ずっと小さい頃からそうだった。お兄ちゃんとは違って!」

 二人の使っている勉強机上のスタンドライトも、バチバチと青白く光りを散らしながら、熱を持ちすぎて煙を上げ始める。部屋全体が、青い閃光を明滅させている。翡翠は怖くなって、部屋の壁に持たれてへたり込んでしまった。

「瑠璃にしかママを助けてあげられない」

「ママを、助けるってどういうこと?」

 瑠璃はベッドの上で膝を抱え、翡翠は反対側の壁に背をくっつけている。

 部屋の端と端とで、兄妹は会話していた。

が来るの。あの人は、怖い人なんだって。前に、京都行った時に会った人。雷神が知ってた。あの人は——ママのことを恨んでるって」

「なんで?」

「わかんない。わかんないよ。なんでだろ。呪いだって、雷神が」

「僕もママを助けたい」

「ダメ。瑠璃にしか、できないの」

 翡翠には理解できず、互いの主張は食い違う。

「僕も手伝うよ。だからひとりで悩むのはやめて」

「ダメだよ! だって——」

 翡翠の言葉がまたもや瑠璃の感情を逆なでしたらしかった。

「だって、お兄ちゃんは全部、ゆめを忘れちゃうじゃん!」

「えっ?」

 それは今よりもっと小さい時に、よく瑠璃が聞いてきた、夢を覚えているか、という話だろうか。翡翠は困惑した。あれは、瑠璃が自分の夢に翡翠が登場したのを同じ夢を共有していたと思い込んでいた、という可愛い勘違いだったと、解釈していた。少しずつずれ始めた双子の歯車の根幹が、そこにあるとは思っていなかった。

「ゆめの中であったこと、全部忘れちゃうんだもん。一緒に悪い霊をやっつけたり、たくさんたくさん走ったり、飛んだり、色々あったのに全部全部全部覚えてないって!」

「ご、ごめん」

 叫びながら、今にも泣き出しそうな瑠璃の気迫に気圧されて、翡翠は思わず謝った。

「どうしてお兄ちゃんは神使じゃないの? どうして一緒に覚えてられないの? ねえ雷神」

 その時翡翠には見えていなかったのだが、この部屋には、もう一人の姿があった。瑠璃のことを見守る、小さな神様の存在が。瑠璃は彼に向かって訴えかけていたのだ。

「こんなの、不公平だよ」

 雷神は黙ったまま、目を伏せた。

「瑠璃一人じゃ、不安だよぉ……」

 妹は、いよいよ泣き出してしまった。彼女がこんな風に泣くのを見たのは初めてだった。怒って喚き散らしながら涙を浮かべることは幾度となく見てきた。けれどもこんなにもさめざめと、力なく嘆き悲しむ様を見るのは、初めてだった。翡翠は慌てて瑠璃の方へと歩み寄った。もう恐怖心は退いていた。

「お兄ちゃん、瑠璃ね、ずっとこの近くにある神社の、神様たちのところでお役目をしていたの。瑠璃は雷神に選ばれて、神使っていうね、神様と人間が仲良くするのを、お手伝いすることになったの。これはその証」

瑠璃はそう言って、棒付き飴のように持ち手がある、特徴的な形の小さな太鼓を翡翠に見せた。太鼓の両側には腕のように二本の紐が取り付けられ、その先についた小さな玉が、太鼓の皮に触れて音を立てるのだ。それが赤ちゃんをあやすために使われる昔ながらの玩具であることは、なんとなく知っている。

「神器って言ってね、これをもらったから、こんなすごい力を使えるようになったんだよ。すごくもないけどね。雷を起こせるなんて、やっつけたい人でもいない限り、誰の役にも立たないし」

持ち手を持って振ると、打面に玉が当たって、子気味良い音を鳴らすと同時に、ピリピリと青い雷光が瑠璃の手の中で起こる。

「ううん、十分すごいよ」

それはとても恐ろしい力かもしれないが、瑠璃の操縦下にある限りは脅威ではない。翡翠は冷静に、そう判断して、穏やかに言った。瑠璃はそれを聞くと、肩の荷がおりたかのように長く息を吐き出した。

「お兄ちゃん、ずっと秘密にしててごめんね」

「僕の方こそ、全然気づけなくてごめん」

「ううん、瑠璃が隠してたの。お兄ちゃんには神様見えないから、言ったらかわいそうだと思って。でも、今までずっと、ホントは寂しかった。嫌だったよ。怖いこととかもあるし、幽霊とか見えるし」

自分ではわかったつもりでいたが、妹のことをなにも理解していなかったのだ。妹の見ている風景や、経験してきた出来事は、想像することすら、できなかった。

「これからは僕がついてるから。一緒に頑張ろう?」

 それは心からの言葉だった。瑠璃と同じ景色が見えなくとも、そばにいることはできるはず。もう知らないフリなど、できはしないのだから。

「ホント?」

「うん、ホント」

 通じてくれと念じながら強く頷く。その気持ちが伝わったのか、瑠璃はやっと笑顔を見せてくれた。

「ありがと、お兄ちゃん。約束だよ? 約束だからね!」


 こうして兄妹の微妙な仲違いは解け、円満な一件落着を見るかに一瞬思えたが、そうはうまくはいかないもので。


 ——トントン、と部屋の戸を叩く音がした。


「ママ?」

 呼びかけても返事はなかった。しばらくの静寂ののちに、また扉は叩かれた。二度、三度、一定のリズムで、延々と——。


 何かが変だと感じ始めた時、瑠璃の顔に怯えの色が走った。

「気づかれたって、雷神が」

 と緊迫した様子で、傍にいる神様の言葉を伝えた。

「瑠璃が力を使ったから、悪霊に気づかれたんだ!」

 瑠璃の説明によると、この付近はもうだいぶ前から数多くの悪霊が徘徊していたらしい。彼らは瑠璃を、正確には「瑠璃」と「千雛」を探しているらしかった。

「どうしようどうしよう、どうしようお兄ちゃん」

 瑠璃は異常なまでに取り乱し、恐怖に我を忘れている。けれども翡翠にはまだ、その脅威に対していまいち実感がない。何しろ、何も感じないし、見えないのだから。ただただ瑠璃の狼狽えた様子に焦りを感じていた。

「ど、どうしようって……」

「呪いが来る」

 戸惑い目を泳がせる翡翠に、瑠璃はすがりついた。「紫根の姫が来る——!」

「だ、だれだよ、それ」


 ——トントン。


 双子が息を殺していると。


 突然扉が蹴破られるように開いた。


 初めて、人ならざるものの姿を見た。自分が恥ずかしくなるほど間抜けに思えた。こんなに間近に、普通に、はっきりとそれはいる。自分は今の今まで何も見えていなかったのだと痛感した。世界はただ平和で、自分たち家族にはなんの危険もなくて、それが当たり前だった。訪問者は日常の終わりを告げていた。白い髪の女は、にたあっと口元を歪めたが、血走った赤い目は笑っておらず爛々と輝いていた。その目で瑠璃だけを見つめて、手を伸ばした。こっちにおいでと言うように。


 女の霊を、鋭い青い閃光が包み込んだ。雷撃。雷神の放った一撃だった。


「ぎゃあああああああああああああああああ」


 女はおぞましい悲鳴をあげて頭を抱えた。


「瑠璃、翡翠、外へ出るんだ!」


 鋭いがしかし幼い、声が聞こえた。それが雷神の声だと翡翠にはわかった。

「瑠璃ちゃん、行こう」

 すっかり取り乱した瑠璃の手を引いて、翡翠は自分でも驚くほど冷静に、化け物の横を走り抜け脱出した。


 家の中はめちゃくちゃに荒らされていた。狭い居間の壁や床に、幾筋も、爪の跡や血の跡が刻み付けられている。何より衝撃的なのは、その全てが炎に包まれていたことだ。そしてその中に、父と母が倒れていたことも。


 気づかない間に、全部さっきの女がやったのだろうか。

 二人は絶句して、その場に立ち尽くしていた。瑠璃が呆然と、炎の中に歩み進もうとする。翡翠は思わずその腕を掴んで止めていた。

「瑠璃、行っちゃダメ」

 でも、と振り返る。涙を浮かべていた。

「ママたちを助けなきゃ」

「どうやって?」

 問われて、自分の力には彼らを救う方法がないことに気づいて、瑠璃が絶望したのを感じた。それでも翡翠の手を振りほどき、瑠璃は火の中へ飛び込んでいく。

「瑠璃!」


「ニ ガ サ ナ イ 」

 後ろから背筋の凍るような声が迫っていた。叫び声をあげそうになって翡翠は、思わずその声から逃れるように、火の海の居間の方へ後ずさる。


「女の人が来た」

 翡翠は硬い声で呟いた。「廊下のところに。僕にも見える」

 呆然と、瑠璃は千雛の傍に座り込んでしまった。

「紫根の姫……って、雷神が言ってた。ママを追いかけてきたんだって」

「幽霊?」

「悪霊……だって」

 紫根の姫というその化け物は、音もなく滑るようにこちらに近づいてくる。白い着物の両袖が、椿の花模様のように肩まで真っ赤に染まっていた。嫌な予感がする。雷神は、どうした? もともと姿は見えないが、気配も声も、先ほどから感じない。

「ひーくん、瑠璃ちゃん」

 弱り切った声に、二人は素早く反応した。

「ママ!?」

「早く……逃げて」

「嫌だよ、ママたちを置いていけないよ」

 泣きながら訴える瑠璃に、千雛は少し起き上がって微笑んだ。

「ありがとう、瑠璃ちゃん」

 翡翠はその腹が大きく抉られているのを見てしまった。助からない、と直感した。それが現実だとも、受け入れ難かったけれど。

「ママはあの村で本当は死ぬはずだった。だから、仕方ないの。こうなるのは呪いだったのよ。ママは呪いに勝てなかった。半分だけしか、解けなかった。でも二人は違う。生きて、呪いを解いて。私たちの。葡萄染の呪いを、解いて、ね」

 話の半分も理解できなかった。翡翠は頭の中で必死に否定しながら、一方で瑠璃が一体この家に何を招き入れてしまったのか、必死に理解しようとしていた。神なのか妖怪なのか、幽霊なのか、なぜ、千雛がそれに殺されなければならないのか——。

「晶、巻き込んでごめんね……」

 最期に、千雛はそう言った。


 雷鳴とも唸り声ともつかない、轟音が、部屋中に鳴り響いた。


「雷神……」

 耳を覆ってもなお響き渡る、断末魔のごとくその悲鳴は彼らの脳を苛んだ。

 雷神はそこにいるらしかった。悲しみにくれる間も無く瑠璃は立ち上がる。恐怖に目を見開きながら。

 腐食していく雷神の姿はみるみる膨れ上がり、醜い鬼へと変貌していく。その狭間に、神様の姿が、見えた。一瞬のうちに、翡翠の脳裏に、幼い頃に見た夢の中の光景が蘇った。


「タケ……」


 これがあの、タケなのか? あまりに忌まわしき姿は、神とも悪魔とも呼べぬ醜悪な化け物。皺だらけに歪ませた唇から、どす黒い血が滴っている。


「タケ! 目を覚まして!」

 瑠璃が泣きながら叫んでいる。「呪いなんかに負けないで!」

「タケ、思い出したよ、僕も!」

 翡翠も、タケに向かって呼びかけた。

「だから、だから……」


 けれどその意識はもう彼のものではなく、こちらを認識できていないようだった。


 化け物二体に囲まれて、火の手は瞬く間に家中に広がって、 

「こんなの勝てっこない……」

 瑠璃は弱々しく呟いた。助けを求めたいところだが傍には、いつも守られてばかりのさらに脆弱な自分しかいなかった。自分にはなんの力もない。己の弱さを痛感して、翡翠は絶望した。打ちひしがれて、もう一度目の前の化け物を見上げたときだった。


「お兄ちゃん!」


 何が起こったのかわからなかった、何も見えない間に、自分は大きく廊下の方に突き飛ばされ、自分の立っていた場所には代わりに瑠璃が倒れていた。床には見る間に血だまりが広がる。千雛とおなじだった。腹部に大きく開いた穴。反対側には雷神も倒れ伏していた。相打ちになったのだろう。

「瑠璃!」

 さっと血の気が引くのを感じた。突き飛ばされたときに頭を打っていたが、そんな痛みは無視して駆け寄った。

「瑠璃、瑠璃、返事して」

 抱え上げると、その腕は力なく垂れ下がったが、息はあった。必死に妹の名を呼ぶも、煙を吸い込んで咳き込んでしまう。瑠璃もまた、ゼエゼエと荒い呼吸をしていた。

「お兄ちゃん……逃げて」

  頑なに首を横に振る兄に向かって、瑠璃は諭すように言った。

「約束、したでしょ。一緒に頑張ろって」

「したよ! したから一緒に行こう、ここからなんとかして——」

「だからね、大丈夫だよ。これからは」

 にわかに口調がはっきりとし、瑠璃の瞳に光が宿った。その名前と同じ、深く吸い込まれるような瑠璃色の美しい目。目の中に海が広がっているよう。その力の脈打つのを感じた。妹がとても強大な能力を持っていることを、翡翠は今日まで知らなかった。その、常人には抱えきれないほどの破壊の力を、ずっと、コントロールして使っていたことも。

「瑠璃の力は、全部あげるよ。瑠璃とママとパパの分まで、お兄ちゃんが生きて」

「瑠璃、やめ——」

「うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」


 最後に瑠璃が落とした雷は、呪いを振りまき両親を殺めた化け物も、祟り神と成り果てた雷神も、そして自分の命すらも、その全てを破壊していく。青い閃光に焼かれ、翡翠の意識もまた、消失した。





「目が覚めた時には、病院のベッドの上でした」

 漫画みたいですよね、と翡翠は苦笑した。

「実際、この時の記憶は火災のショックでほとんどありませんでした。最近になって、やっと思い出せたんです」

「それで最近、塞ぎ込んでたんだね」

 明日歌はただひたすら黙って聞いていた。ひどく久しぶりに言葉を発したので、かすれたような声になってしまっていた。

「すみませんでした」

「謝ることじゃないよ! ……辛かったよね」

 明日歌の目が潤んでいた。けれど泣くまいと固く決めているように見えた。

「最初は声も出なかったし、やけども手術をしてやっと治って。リハビリをしている間に、風神が見えることに気づいたんです」

「その時風ちゃんに出会ったのね」

「風神だけじゃない。人ならざるあらゆる異界のものが見えるようになっていました。もちろん、ゆめも覚えてました。しっかりと。でも俺は、自分がなぜそうなったのか、わからなかった。事故のショックで変なものを見るようになったのだと自己解釈しました」


「でその後、何ヶ月間か入院して、藤村家の養子になって、それからは、平穏無事に神使をやってきて、今に至ると。そんなところです」

 明日歌は何か言葉を探して、でも見つからずにいるようだ。だから、

「こんな話をして、すみません」

 と言うと、

「ううん。話してくれてありがとう」

 すかさず返事が返って来た。

「それで、今話していてまた思い出したことがあるんですが」

 翡翠はそのまま続けた。ある一つの疑問が、また浮上していた。しかもかなり重要なことのように思える。一呼吸置いた後で。


「葛城さんって、まだ会ってますか?」

 それは唐突な問いだったようで、明日歌はへっ?と頓狂な声をあげる。

「うーん、最近は、公園に全然こないんだよね。夏休み終わってから、一回も会ってないんじゃないかな」

「あの日京都で写真を撮ってくれた人、俺の見間違いでなければ葛城さんです」

「えっ?」

 思いもよらない葛城の登場に、明日歌はすぐには理解できず、

「藤村くん、葛城さんに会ったの?」

 と言うよくわからない返しをしてきた。翡翠は頷いた。彼には会ったことがある。

 一度目は、あの京都旅行の時。二度目はほんの、つい昨日。

「しかも、あの日と何も変わらない姿のね」

 まだ要領を得ない明日歌は首を傾げていたが、次第に自分の頭の中でも、どういう意味か噛み砕いて理解したのだろう。みるみる顔が青ざめていった。

「まさか」

「聴き間違いなんかじゃない。たしかに言ったんです。が」


「「幸せか? 葡萄染千雛」って」

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