第十一話 竃神

前篇 火

【竈神様の言い伝え】

 竈神様はお台所の神様だそうだ。

 昔の人は、火を守護する神様を手厚くお祀りすることによって、一家の繁栄と防火を祈念してきたらしい。

 というのも、竃の神様は、怒らせると、家や財産などの全てを焼き払ってしまう荒ぶる一面を備えている荒神でもあり、だから竈は常に清浄な状態を保っていなければいけないんだとか。

 調べれば調べるほど、結構めんどくさそう。

 この家オール電化なのになあ。


 (???の日記より)




「なんだ。貴様も来たのか」


 龍神はちらりとこちらを一瞥すると、またガラスを溶かす作業に戻った。

 彼にはどうも、歓迎されない。相手に苦手と認識されていながら、わざわざ会いに行くほど鬼畜ではないので、龍神のゆめに入ったことはこれまで一度もなかった。


明日歌は、壁に立てかけてあった小屋の中を竹箒で清掃し始めた。ほかにやることがないので、いつもそうするのだと言う。

 ガラス細工のことは明日歌から聞いていたが、たしかに丸っこい動物たちが質素な作業台の上に並んでいる様子は、ファンシーな雑貨屋さんのようだし、それを畳の上に座って背中を丸め、真顔で作り続ける龍神は、ちょっと滑稽だった。

「随分伸びたな。そうしていると、エリスに似ている」

 龍神は、明日歌に向かって言った。明日歌ははっと顔を上げ、慌てて、

「嫌だった? 切ろうか!?」

 と言いながら髪を触る。

 龍神はこちらは見ずに、

「いやいい」

 とだけ早口に言った。明日歌はその反応は悪い意味には捉えていないようで、ほっと肩を下ろした。随分と、この無愛想な神様の扱いにも慣れてきたようだ。

「紫根神社に行ったのか」

 龍神はそこでやっと作業をやめ、顔を上げると一息ついた。

「はい」

 翡翠はうなずいて答えた。龍神は面倒くさそうにこちらに向き直り、翡翠にも座るよう進める。そしてあぐらをかいて座り直すと、やがて話し始めた。

「私の記憶では――先代のものだが――巫女が死んでからしばらく、巫女のお告げに入れ込んでいた信者たちが病気や事故で次々と死んだ。それはもうほとんど根絶やしに近い。これは紫根の祟りか、巫女の祟りかわからないが……。慌てて黒須家の当主が紫根神社に洞穴を掘り祠を建てて巫女を祀り、供養し始めた。神社には自分以外、誰もいれなくなった。それで「祟り」が収まることはなかったが」

「洞穴って、戦争の時に掘られた防空壕じゃないんですか?」

 翡翠は聞いた。なぜか忘れたが、そんな風な噂を聞いたことがあったが、事実と食い違っている。

「戦争中はそういう目的でも使われたのだろう。だが洞穴自体はもっと昔からあったと思うぞ」

 噂というのは不確かなもので、どこから出て、どう伝わったものが正しいのかは、あやふやになってしまうものだ。

「六年ほど経ったときに、大火事が起きた」

 他人の記憶を思い出すのは奇妙な感覚なのかもしれない。龍神は作業台の上に頬杖をつき、少し重たそうに頭を支えている。

「火事?」

 翡翠は聞き返した。明日歌も箒を持つ手を止めて、黙って話に聞き入っている。

「火をつけたのは黒須家の当主だという。召使や家族を皆殺しにした。そして自分も腹を切って死んだ。これもまた巫女の祟りかも知れぬと村の人間は噂していたが、真偽のほどは、私たち土地神共にもわからぬ」


「それからは、紫根神社に関わりのありそうな事件はなにも起きなくなった」

「じゃあ百年ぐらい、何も起きてなかったの?」

 明日歌が聞いた。龍神はため息のようなうなずきのような、曖昧な返事をした。

「今更我々に呪いをかけて、一体どうしたいのだろうな」

 それには、翡翠も首をひねった。千筆の祟りは百年前に既に遂行され、その時恨まれていた人間たちは、ほとんどこの世に残っていないのだ。黒須という当時の権力者も、おそらく祟りによって気がふれて、屋敷を焼き払って死んでしまったのだろう。

千筆の復讐は完了しているはずなのだ。

なのに百年後の今、なぜ、再び千筆は、いや、千筆の子供が? 今度は神様を、呪っているのだろうか。

「しかし気をつけろ。もうすぐ神無月だからな」

「神無月?」

 明日歌が聞き返す。


「貴様、何か隠してないか?」

 どきりとした。なぜ気づかれたのだろう。努めて普段通りに振舞っているつもりだったのだが。

「いいえ、何も」

すぐに答えたつもりだったが、不自然な間が空いてしまったかもしれない。


 考えないようにしようとしても、どうしても知っていることが頭の中に浮かんでしまう。暗い海の底に沈めてしまった記憶の粒が、ふつふつと海面まで沸き上がってくる。


 雷神のことを、翡翠は知っていた。

 ずっと前、たしかにあの神様に会ったことがある。

 それも一人で会いに行ったのではない。あの写真の少女――妹と、一緒にゆめを見ていたのだ。それも一度や二度ではない。あの神様と自分は、たぶんそれなりに親しかったのだ。妹の名前までは思い出せないが、昨日までより確実に、彼女の声やしぐさの記憶は鮮明になっていた。


 裕福で、平穏で満ち足りた家庭に所属する理想的な自分にとり、死んでしまった人たちの過去の記憶なんて、必要がないもののはず。

 平穏な自分の人生に影を落とす、そんな思い出ならいらないはず。

 また雷神に対峙すれば、否応なく過去の記憶を思い出させられる。そんな気がして、気が進まなかった。


 だが、それだからと言って明日歌に雷神の件を全て任せるわけにも行かない。

 龍神とも約束したのだ。明日歌は自分が守ると。今ですらあれだけ嫌われているのだ。これ以上彼を裏切って株を下げたくない。

 論理的に考えて、過去の自分と、現在の大切な仲間を天秤かけて前者を取ることはできなかった。

 六時間目の授業そっちのけで考えに考えた結果、ホームルームの後、部活に行く前に彼女を呼び止めた。

「白瀬さん」

 呼ばれた明日歌は小首をかしげた。

「なんでしょう」

 少し微笑みながら、彼女は答える。

「今日もう一度、一緒に紫根神社に行ってくれませんか?」

 その申し出を、少しは予想していたのかもしれない。明日歌は驚かず、

「いいけど」とすぐに承諾してから、「体は大丈夫なの?」と付け加えた。

「はい。昨日はすみませんでした」 

「ううん」

 明日歌はにこやかな表情を絶やさずに首を振った。

「今日は部室にもいかないから、一旦家に帰るね」

 そう言って、鞄を持つと、手を振って教室を出ようとする。そうして二、三歩進んだところまで見送ったと思うと、くるりと振り返り、

「ねえ、藤村くん」

 と、逆に呼ばれる。

「なんでしょう」

 同じ返しをしてみる。今日の彼女はなんだか愛想がいいように思える。いや、いつもが愛想が悪いというわけではないのだが。

少し間があく。

「……なんでもない。元気出してね」

「ご心配をおかけしてすみません」

 なんだか最近謝ってばかりだ。

「心配してるのは私の勝手だから」

 そこで初めて、すこし、明日歌の表情が陰る。

「風神ちゃんも」

「うん」

 昨日から、風神はしおれた花のように見るからに元気をなくしてしまっていた。

「お友達が祟り神になっちゃってたら、落ち込むよね」

 あの雷神が、なぜ今になって祟り神として風神の前に現れたのかは全く謎だった。十年前から、風神は相棒のことを探していたのだ。神様が忽然と姿を消すことは希なことだが、その理由が、やっとわかった。

「……」

「けど絶対私が、浄化するからね。ね!」

 両の拳を顔の前で握り、がんばるぞ、のポーズをして力強く言うと、明日歌は少し恥ずかしそうに笑う。

その姿を見ている時だけ、翡翠は少しだけ心安らぐ思いがする。そしてやはり、彼女のためにも自分勝手な都合は捨てて、紫根神社の真相を探りに行かなくては、と改めて意を決したのだった。





「ほんとに来たぁ」

「何してるんですか」

「昨日小雨に聞いたの。もしかしたら今日もここにひーくんが来るんじゃないかって思って待ってたのよ」

「ストーカーにでもなるつもりですか?」

「ひどーい。後をつけたわけじゃなくて、私がここにいたら偶然ひーくんが来てくれたんだから、ストーカーじゃないよぉ」

「そうですね、すみません。忙しいんで」

 やんわりと否したつもりだったが、小雪はなおも食い下がってきた。

「その子とデートだから?」

 むすっと頬を膨らます様子はいかにもわざとらしい。

「どーせその人のことも遊びなんでしょ?」

 それをお前が言うか? と抗議したい気持ちを抑え、落ち着いて口を開こうとした時だった。

「あなたはなんなわけ? いつも黙ってて、なんかないわけ?」

 急に矛先が明日歌に向けられた。

「ひーくんは自分のことを好きな女の子なら誰でもいいのよ?それでどうなわけ?あなたはそこまでひーくんのこと好きなわけ?」

 ひどいいわれようだ。たしかに小雪から向けられた好意をまったく利用していなかったかといえばそれは嘘かもしれないが、別に誰でも良いというわけではない。今は特にそんなつもりはない。何よりその発言は明日歌の誤解を招きそうで、撤回しなければ、と思いを巡らせる。しかし翡翠が何か言う前に、

「遊びじゃないです!」

 明日歌が、小雪をまっすぐに見て、きっぱりと言い放った。饒舌だった小雪も流石に驚き、勢いが、途切れる。

「遊びでこんな怖いとこ来ません。好きで心霊スポットなんて行きません。でも藤村くんが、一緒に来て欲しいって言ってくれたから……」

 小雪の表情が、驚きから呆れに変わる。

「なにそれ。つまり付いてこいって言われたらどこへでもホイホイついていくわけ?」

「そうです」

 明日歌は真面目な顔をして答えた。こんなふうに他人に反論する明日歌を見るのは初めてだ。一歩も退かない態度をみせてはいるのだが、赤面しているし声は震えているし、無理をしているのがわかる。

「なにこの人」

 その尋常じゃない様子に、逆に小雪は面食らっているようだ。たぶん、そこまで言い返されると思っていなかったのだろう。意外と効いているのでは?


「あーあ。お姉ちゃんやっぱり来てたんですね」

 小雪よりも少しトゲのある声音に翡翠が振り返ると、そこには小雨が呆れた顔をして立っていた。

「てか、藤村先輩はなんなんですか。女子二人を争わせて、いいご身分ですね」

 小雨は相変わらず手厳しかった。そのとおりであるからなおさら罰が悪い。

「修羅場、修羅場じゃ!」

 愉快そうに囃すしわがれ声が聞こえた。小雨の肩を見ると、火の玉のような顔から、小さな腕と脚が生えた奇怪な何者かがちょこんと乗っかっている。火の神。竈神だ。

「おー、神使殿! わしじゃ、わしじゃ!」

 翡翠を見つけると、嬉しそうに手を振る。なぜそのポジションに収まっているのか知らないが、もちろん、小雨には見えていない。自分の肩に神様が乗っているとは夢にも思っていない。

「えっ」

 明日歌もその異質な姿に気づいたようだった。

「新しい神使殿! 初めましてじゃな」

 竈神は女子三人が険悪な空気を漂わせるのを余所に呑気に明日歌に話しかけた。

 混沌が極まってきた。

「お姉ちゃん、帰るよ!」

 小雨が呆れ顔でぴしゃりと言い放つ。

「ええーなんでよ! 私も行く」

 小雪はダダをこねていた。どちらが妹かわからない。

「ここは遊び半分出来ちゃダメなとこなの」

 しばらく姉妹は言い争っていたが、どういう手を使ったわけか小雨に言いくるめられた小雪は、最終的にとても不機嫌になり、すたすたと小雨を放って歩き出した。

「そうじゃ、帰れ帰れ」

 神様は小雨の肩の上から、小雪を邪険そうにしっしっと小さな手で払う。

「小雨ちゃん、ありがとうございます」

 翡翠は頭を下げた。彼女の姉の扱いは神がかっていた。

「藤村先輩」

 小雨の、凛とした瞳にきっと睨まれる。今回はうまく逃がしてくれたが、彼女は翡翠と小雪、特にどちらの味方でもないのだ。


「お二人も気をつけたほうがいいと思います」

 小雨は強い口調で言った。「できればここには来ない方がいいかも」

 それは分かっているのだが、自分たちはここに用があって止むを得ず入るのだ。彼女に本当のことを話せたらどんなにいいか。すると小雨が驚くべきことを口にした。


「私、昨日ここへ入ったところからの記憶がないんです」




「お二人はどうですか?」

 小雨に聞かれ、

「私はちゃんと覚えてるけど」

 明日歌が答える。「廃屋に入ったことは?」

 小雨は廃屋? と聞き返し、首を横に振る。

「なんか、嫌な感じがします。先輩たちが何をしたいのか知りませんけど、深入りしないでやめておいたほうがいいかも。紫根神社は近所の人もみんな気味悪がって近づかないから」

「そうじゃ、お主らも自分の身の安全のために帰れ」

 竈神が横からはやし立てる。

「今も私、なんだか熱っぽくなってきました」

「それはわしが肩に乗っているからじゃよ」

 聞こえないのは承知の上で、竈神が小雨に言った。しかし一体、この神様はなぜそこにいるのだろう。

「小雨、帰るんでしょー?」

 遠くで小雪の不機嫌な声がした。

 小雨が姉を追って踵を返したと同時に、竈神は肩からぴょこんと飛び降りて、ふよふよと火の玉のごとく空中を浮遊し始め、翡翠の顔の前まで近づいてきた。

「お主ら、なぜここに来たのじゃ?」

「紫根様と、その巫女のことを調べているんです。何か知りませんか?」

 紫根の名を聞くと、竈神はわずかにその身体から発する光を陰らせた。

「紫根のことか。よくは知らないな。火事になったときは、わしもどうすることも出来んかったが」

 竈神は遠ざかりながら言う。

「お主ら、紫根がこの神社から消えた話は知っておるな?」

 明日歌が頷き、はいと答えた。

「神が消えるというのは珍しいことなんじゃよ。悪しきことが起きる予兆じゃ。しかし時見町も、またやけに物騒になったものじゃなー。最近は祟り神の噂もあったしなあ。まあわしはこの先には入らん。邪気が強すぎて、神様はみんな行かぬのよ、ここには」

 竃神はそう言い残すと、ふよふよと小雨の後を追って飛んで行き、やがて見えなくなった。


「さっきの神様は?」

 明日歌が聞いてきた。

「竈神と言って、台所や火の元を守る神様ですね。どうして小雨ちゃんといたのかはわからないけど」

「小雨ちゃんの話、記憶がないって、気になるね」

「神社の外に出たとき、気を失ったショックじゃないかな」


「さっきの朱華さんの話、気にしないでくださいね」

 少し気になって、翡翠は言った。明日歌は乾いた笑い声をあげた。

「うん。私、変な人に思われちゃったかな」

「すみません」

「なんで謝るの? あれは私が自分のために言ったんだからね」

 明日歌自身のため――そういう考えのもとに明日歌のあの言い返しがあったのかと思うと、意外だった。翡翠は逆に、思い上がりを恥じることになった。

「ここって、そんなに誰も近づかないのかな?」

「俺は、ちょっと気味の悪いところだけれど、呪われた場所ではないと聞いてました。けれど神様の話からして、それだけではなさそうです」

なにか、もっと別の真実がこの神社にはあったと、そんな気がしてならなかった。確かめなければ、祟り神の呪いは解けないのだろう。

「先、祠の方に行ってみようか?」

 明日歌が促した。


「これ、小屋にあった御札と同じ……」

 壁に貼られた御札の文字は、ボロボロになってほとんど読むことができなかった。しかも、比較的読めるものでも、人為的に一部分墨で黒く塗られたあとがある。

『鎮魂 ■■■ 千筆』

 墨塗りの部分には、昨日小屋で見つけた御札と同じ文字が入るのだろうか。

 軽い頭痛とめまいに襲われ、足元がふらついた。

「藤村くん、大丈夫?」

「大丈夫です」

 この感覚は、一体何なのだろう。




「久しぶりね」

 薄くはかなげな声に、二人は同時に振り返る。

 すぐ後ろに、が、立っていた。


 背筋が凍るような思い――何年も忘れていた感情。恐怖。

 千筆の姿を見て、翡翠が感じたのは、身のすくむような、恐怖だった。

「――?!」

「明日歌ちゃん、そしてあなたは翡翠くんね?」

 何がおかしいのかわからないが彼女は口元を手で覆い、笑っていた。初めて見るその姿は、明日歌から聞いていたように、菊の花のようにしっとりと白い髪の少女だった。泣きはらしたあとのように赤い眼――だけは笑わずにじっとこちらを見据えている。

「あなたは——どっち?」

 明日歌の落ち着いた声がした。そうか、彼女はどちらの千筆も知っているのだ。これは幻影の方だと翡翠は思う。明日歌も内心ではそう感じているのだろう。

「あ、もしかして気づかれちゃった?」

 声は笑ったままで、千筆の幻影はそう言った。

「千筆さんの姿を騙るのはやめてください」

 千筆が偽物だと確信すると、明日歌は一歩前に出て、少し語気を強めた。

「騙ってなんかいないわよ。千筆は私。私も千筆なんだから」

 くすくすと嘲笑いながら、千筆はよくわからないことを言った。

「どういうこと?」

「ねぇ、そんなことより、翡翠くん、あなたのこと、私覚えているわ」

「え?」

 唐突に自分に話が振られて、翡翠はたじろいだ。絶対に、良い話ではないことは、彼女の楽しそうな口ぶりから察せられた。

「あなたは忘れちゃったの?」

 わざとらしく少し残念そうにする素振りを見せる千筆。忘れるもなにも、彼女には初めて会うのだ。

「知らない」

 翡翠は表情を変えずに即答した。

「そう」

 千筆は、翡翠の答えに、なぜか満足したかのように、口の端をさらに釣り上げてにいっと笑った。そしておもむろに口を開いた。

「あなたの妹のことも、私は知っているわよ」

「――!」

 翡翠は言葉を失った。妹、と千筆はたしかに口にした。その存在を、なぜ知っている?

「妹?」

 訝しげに尋ねる明日歌には目もくれず、千筆は翡翠のことを薄笑いを浮かべたままで、じっと見ている。

 

「私はあなたが憎いの」

 突然、頭の中を突き刺すような痛みが走った。

後ずさり、頭を抱えながら、それが呪詛によるものだとわかった。千筆の幻影がなのか、千筆の幻影を操る何者かによる神への呪いが、翡翠を狙い撃ちしている。人間が、この呪いを受けたら、どうなるのだろう。自分の神通力ではね返せるのだろうか。けれども、この幻影は、ほかの多くの神様も呪ってきたのだ。たかだか神使風情の力で退けるのは不可能に思える。だとしたら、どうなるのだ?


頭の中に吸い込まれるように、邪悪な意識が入り込んでくる。悪霊や怨念の類が、体の中に、心の中にまで入ってきていた。

「ぐっ……」

 尋常ではない吐き気を催す。自分の中に自分ではないたくさんの意識。憎しみと、怒りと絶望と悲しみだけでできた意識が無数に、針金のように突き刺さり、脳をぐちゃぐちゃに犯していた。

「藤村くん!」

「触るな!」

 気絶しかけながらも、肩に触れようとした、明日歌の指輪のある方の手を、思わず払いのける。その指輪が包帯越しにもわかるほど強く輝いているのが見える。力を使って翡翠の苦痛を和らげようとしたのだろう。しかしそんなことをすれば、おそらくその性質上、明日歌が呪いを受けることになる――明日歌は唖然として、少し泣きそうな目で自分を見ている。ごめんなさい、せっかくの厚意を無下にするようなことをしてしまった――。

「どう……して?」

 やっとのことでそれだけ口にする。

「私も聞きたかったのよ。妹はちゃんと死んだのに、どうしてあなたが生きているの?」

なんだ?ちゃんと死んだってどういうことだ? お前は、何を知っている?妹は、「瑠璃」はなぜ死んだのだ?

 

「殺したのか?」

 まさか、お前が――?

 

 自分の意志が自分の体を動かしているのではなかった。もう体は蝕まれてしまったのか。神使は呪われると何になるのだろう?明日歌、危ない、離れたほうがいい、思うけれど、声にならない。

その刹那、体に電流が走る。自分のものとは思えない、知らない力の源が目覚めたように、それは心臓の奥から、湧き上がるような振動で、鮮やかな蒼色の閃光で、蠢く闇たちを払い除けて、千筆の方に、やっと一歩脚が出る。声が出る。


「許サ、ナ、イ」


 それは、自分が発したものだろうか。地獄の底から響くような声だ。翡翠の意志ではない言葉が勝手に口からこぼれ出る。

 少し驚いたように目を大きくする千筆。しかし、

「ちゃんと、ではなかったのね」

 となおも可笑しそうにあざ笑うと、翡翠ののばした腕をかわすようにふっと消えた。

 その途端、体の中で心を食い荒らしていたものたちが、しゅっと一斉に退いた。


 立っていられなくなって、その場に、崩れ落ちる。

「藤村くん!」

「ああ、大丈夫です。怒鳴ってすみませんでした」

 朦朧とする意識の中で、気にしていたことを開口一番に謝る。

「いいよ、そんなことより、さっきのは何?」

「呪いかな。きっと神様たちが受けたものと、同じ類のね」

 明日歌は息を呑む。

「そんなの、大丈夫なの? とっても苦しそうだった……」

「今はなんともないですよ」

 蒼い顔をする彼女を安心させるように、翡翠は微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。

「今日はもう帰ろう、ね?」

 明日歌は促した。千筆を含む悪霊の気配が消え去り、神社にはかつてないほどの静寂と平安で満たされていた。探索するには好機だったが、もうそれほどの体力が残っていない。素直に頷く。


 明日歌に支えられながら、紫根神社を後にした。

 あの邪悪な千筆の幻影に、いいように嬲られてしまったのも正直悔しかった。彼女が姿を現したときというのは、呪いの本質にも近づけるときでもある。彼女と対等に渡り合えれば、祟り神問題を解決する糸口がつかめるかもしれないのだ。


 しかし問題は、その前に立ちはだかる自身の記憶の蓋だった。



 帰宅するやいなや、翡翠はベッドに倒れ込んだ。

「翡翠?大丈夫?」

 風神が静かに問いかける。風神の声を聞くと安心する。けれどいまは少し、恐怖心も抱いていた。

「平気です――少し、疲れました」


さすがに何千年も生きている神様だけあって、人間の心を察するのも早かった。翡翠の異変に、風神は気づいた。

「思い出したんだね。妹の名前」

 翡翠は頷いた。


「瑠璃――」

 

 今は亡き自分の半身の名を口にした。記憶——蓋の隙間から、溢れるように、それは涙のひと雫となって、流れていく。


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