後編 祭

 お祭り会場である刻見神社は、まだ空が明るい頃からすでに賑わいを見せていた。

 浴衣を着ている人が多い。それに比べれば、動きやすさ重視のTシャツとショートパンツにスニーカー、髪型はポニーテールという格好で来てしまった明日歌は、逆に目立ってしまっている。というかまあ、明日歌はどんな格好をしてもその頭のせいである程度注目を浴びるわけで。一応、黒いキャップを被っているので、それがある程度人目を凌いでくれればと、祈るばかりである。

 

「藤村くん……?」

 鳥居の下で、見慣れた人の姿を見つけて、明日歌は思わず声をかけていた。

「お祭り、来てたんだ」

  黒いTシャツとジーンズ姿の翡翠は、普段と何も変わらない様子でひょこっと会釈をした。

「白瀬さんも。一人ですか?」

 明日歌は首を横に振ると、風神が後ろから顔を出した。

「僕がいるよん」

「あ。いつもありがとうございます」

 翡翠は恭しく一礼した。ふふん、と風神は得意げに腰に両手を当て、

「褒めよ、讃えよ、崇め奉れ!」

 この二人の神様と神使どうしも、なんだかんだで久しぶりに会った気がする。危険は減ったとは言え、風神が明日歌の家についている状況は、夏休み中も変わらなかったからだ。

「でも、ちょうど良かったかもしれないな。俺も実は、用事が早く済んだら白瀬さん呼びに行こうと思ってたんです」

 そう、結果的に、明日歌は翡翠に夏まつりのお誘いを断られてしまったのだった。本当に申し訳なさそうに何度も謝る翡翠に明日歌は、いつものように、「いいよ」「気にしないで」「こっちこそごめんね」と決まり文句だけ返して理由は聞かなかった。本当はとても気になっていたが、聞く勇気が出なかった。

 とはいえ、夏祭りの主役とも言えるこの神社の神様・祇願兎様とは顔なじみだし、お参りして、念のため悪霊やあの少女が現れないか、風神と見回っておこうということになり、二人で(傍から見れば一人で)お祭りに参加しているというわけである。

「用事って?明日歌と夏祭りに行くことよりも大事な用事って、一体何なんですかねえ~?」

 そう風神が眉根を寄せてじぃっと問い詰めた時だった。

「ひーくーん」

 翡翠に向かって親しげに手を振りながらこちらに近づいてくる人物がいた。

「げ、こいつかよ」

 と、その人物を見てあからさまに嫌な顔をする風神。

 背は、明日歌より少し高いぐらいか。大きく丸い瞳は、くっきりとアイラインとピンクのシャドウで縁られ、形の良い唇にピンクベージュのリップが映える、華やかで可愛らしい顔立ちだ。水色の地に大判のピンクの花柄を散らした、派手すぎず可憐な今風の浴衣に、ふわりとした生地の桃色と菫色の帯。緩くパーマをあてた髪はきっちりと結わえている。そんなまるで雑誌のモデルをそのまま切り抜いたかのような非の打ち所のない美少女が、翡翠に向かってとろんとした口調で尋ねる。

「誰?この人」

「クラスメイトの白瀬明日歌さん」

 そっけなく答える翡翠。

「ふーん」

 少女は一瞬、明日歌を下から上まで無遠慮に眺めたあと、とびきり可愛い作り笑顔で挨拶した。

朱華はねずですー。どうもー」

「こんにちは」

 突然の登場に面食らいつつ、明日歌も短く返す。返しながら、初めて聞くその名前は、苗字なのか下の名前なのかわからないな、と思った。漢字もわからない。どちらにせよ珍しい響きの名前だ。

「じゃあ、お話、早くしましょう」

 翡翠が少女に向かって、早口で促した。

「まあまあ、いいじゃん、久々なんだから、一緒に回ってよ」

 愛想の良い笑顔を振りまきながら、翡翠の腕にすがりつくように手を回す。明日歌には真似できない距離の近さだ。

「そういうんじゃないって、言いましたよね?忙しいんで」

 普段なら、苦笑いの下に隠して流してしまう翡翠だが、今は珍しく真面目に困惑しているように見えた。

「その人と付き合ってんの?」

 と、明日歌をあごでしゃくり、ずかずかと踏み込んだ質問。容赦がない。気圧された明日歌は、彼女に聞こえていないだろうが思わず「違います違います」と小さく言いながら首と両手を横に振る。

「いやそれは、違うけど……」

 歯切れの悪い翡翠の返答を聞くや否や、

「じゃあいいじゃん。ちょっとだけ待っててもらえば」と機嫌を直しにっこり笑うと、

「すみません、ちょーっとひーくん借りていきまーす」

 と、明日歌に会釈をし、何か言いたげに明日歌を一瞥する翡翠の腕に両腕を絡ませ、さっさと引っ張っていってしまった。

 しばらく呆然と、その後ろ姿を目で追っていたが、明日歌はようやく風神に尋ねた。

「あの子、誰なの?」

「中学の時に、翡翠と付き合ってた後輩の子だよ、朱華。別の高校行って、すぐあっちからふってきたのに、まだ連絡取ってたんだ」

 風神は呆れたように深くため息をついた。

「そう、なんだ」

 それだけ返すのがやっとだ。理解は出来るのだが、感情が追いつかない。

「翡翠は僕にもよくわからないところがあるから」

 と言いつつ、風神は、あの朱華という女の子と翡翠の関係が、決して褒められたものではない状態だということは薄々気づいていながら、見て見ぬふりをしていたのだった。ふられた理由も、別の高校で新しい彼氏ができたからというありがちなものだ。それが少しでもうまくいかなくなるとああやって呼び付けては遊んでいるのだ。計算なのか天然なのかわからないが、優しさに浸け入るような勝手なところがある子で、風神は苦手だけれど、翡翠も断りきれないところは悪い。

 だがそこまで深く告げるのは、明日歌にはあまりにも酷だと思う。

 もう十分すぎるほど蒼い顔をして、明日歌はただ黙って立ちすくんでいた。拝殿の方に流れていく人の波に逆らって、どれぐらいそこにいただろう。

 心臓が、うるさいほどどくどくと音を鳴らしている。

「大丈夫?明日歌、ごめん」

 風神の声に、はっと我に返る。

「ああー、大丈夫、大丈夫」異常に裏返った声が出た。

「きっとあの子も久しぶりに一緒にお祭り回りたいよね。私も、祇願兎様にご挨拶して、ほかに異常がなければすぐ帰ろう」

 吐き気のするようなセリフだ。頭がぼーっとして、頬が歪むのを抑え、胃の辺りがギュッと掴まれるような感覚に、めまいを覚えながら、明日歌は奥へと流れる人の波に合流しようとした――時。


「そう、明日歌ちゃんって言うのね」


 不意にクスクス、と笑い声がする。聞いたことのある、儚く可愛らしい声だ。

 前方にはヨーヨー釣りに興じる背の高い制服姿の男子生徒数人のグループが立ちはだかり、視界が遮られていた。ばっと振り返るも、声の主の姿は見えない。風神が空中にふわりと上がり、キョロキョロと人ごみを見渡す。屋台の煌々とした明かりと、行き交う人々。

「みーつけた」

 今度はすぐ耳元。ぞわりと悪寒が駆け抜ける。

「あなたなの?」

 直立したままで、明日歌は訊ねた。

 あの時と同じ。いつのまにか、視界の端に、彼女がいた。ああ、あれは浴衣か、と今まで暗くてわかりづらかったその姿が、初めてはっきりとした色彩を持って目に入ってきた。紫紺の地に紅色の花が散らされた着物に、鶯色の帯。夏祭りのための装いと思えば、全く違和感なく、この場に溶け込むその出で立ち。しかしその髪は、菊のように静謐な白。

「貴様、何者――」

 そう低く言って風神が容赦なくその姿を睨むが、こちらは全くの無視で。

「遊びましょ。あなたの主のところで待ってる」

 少女は楽しそうに笑い、煽るようにその場でくるくると回ってみせると、奥の拝殿の方に駆け出してゆく。人ごみをすり抜けるようにすいすいと進むその様は、ほかの人間には見えていない。


 ――主?


「まさか」

 明日歌ははっとしてその後を追いかける。

 参道を逸れ、暗い雑木林の方へ、少女は誘う。追いかけながら、明日歌は心の中で強く呼びかけた。

 ――龍神様。いらっしゃるのならお答えください……。

「明日歌殿、大蛟はここにはいない。たぶんゆめの中だ」

 地面に近いところで低い声がして目をやる。白い兎が、暗闇に光るルビーのようなつぶらな赤い瞳でこちらを見つめていた。こんなところにいる野生のウサギ――祇願兎様。

「ど、どうしよう」

「こっちへ」

 祇願兎様はぴょんぴょんと、先に立つと、明日歌を人目につかない小さな祠の前まで案内した。出店の明かりも届かない、参道からかなり外れた、雑木林の中だ。

 祭りの温かい喧騒が微かに聞こえてくる。距離的にはそうでもないはずなのだが、とても遠くに感じる。

「ここなら、見つかり辛かろう」

「寝るしかない」

 風神が険しい面持ちで言った。

「え!?ここで!?あの、今全然眠くないけど、大丈夫かな?」

 頓狂な声を出してしまった。それに野外で睡眠するのはもちろん初めてだ。ゆめに入れば体ごと消えるとは言え、いろいろと不安が残る。

「時間がないよ。僕が見てるから――待って、翡翠に電話して」

 言われて明日歌は思い出す。そうだ、一人でゆめへ行ってはいけないのだった。龍神のゆめ――今、向こうにどんな危険が待っているか、完全に未知だった。

 そうした方がいい、というのは頭ではわかっていた。翡翠はきっと電話に出てくれて、無理にでも来てくれる。しかし、明日歌の中で蠢く何かが、その正しい行動を拒否していた。

 脳裏に嫌でも浮かんでしまうのだ。あの「はねず」という女の子のこと。

「藤村くんには知らせないで」

 明日歌は静かに言った。

「え!?なんで?」

 風神は驚いて目を丸くする。明日歌はいつでも、風神に言われたことには素直に従ってきたのだ。その反抗は完全に不意を突いていた。躊躇なく横になる明日歌の体を、風神は揺さぶった。

「君一人で行っちゃダメ!明日歌!」

 けれどその制止を振りほどくように、明日歌は乾いた草の匂いと感触。意識を向こう側へ集中させた。



      ☆



 白い霧が立ち込める、険しい山道に寝そべっていた。


 空は曇が低く垂れこめている。


 道は、緩やかな石畳の階段が峠道のように曲がりくねりながらどこまでも続いており、その両脇に植物はない。代わりに岩石だらけだった。桜と紫水晶の入り混じったような透明な輝きを持つ氷柱のように尖った石が、いたるところから顔を出していた。全く見覚えのない鉱物のはずだが、なぜか既視感がある。

「龍神様?」

 立ち上がりながら、おそるおそる、明日歌は呼びかけた。

「あら」

 道の向こうから、軽い足取りでこちらへ降りてくる少女の姿があった。

「来ちゃったのね」

 明日歌からは距離を取りつつ、少女は口の両端を釣り上げてクスクスと笑う。目だけは笑っていない。

「一人できちゃったのね」

「一人できたよ。あなたは誰?」

 少女と対峙したら、まずは話の通じる相手か会話を試みよと、巴から言われていたことを思い出して、明日歌は、極めて冷静に問う。

「今日は怖がらないのね。怖がり明日歌ちゃん」

 煽るようにくくっと笑う少女。誰?という問いかけには、応じるつもりはないらしい。

「龍神様はどこ?」

「ここにいるわよ。私と遊んでくれたの」

 少女は明日歌を手招きすると、すたすたと階段を登り始めた。

 明日歌は即座に後を追った。 


 山頂は思いのほかすぐだった。

 静寂に包まれたそこには、温かみを帯びた輝く石が周りを取り囲んでいる、その中に平らな空き地があり、そこに小さな茅葺きの庵が建っていた。質素ではあるが神様がひっそりと暮らす神聖な領域であることが一目で見て取れる。

 今はその前に、禍々しい黒い龍の姿がある。とぐろを巻き、荒々しく息を吐きながら、訪れた少女と明日歌を交互に睨みつける。

「龍神様……!」

 姿は全く違うが、それが龍神だと、直ぐにわかった。おそらく、既に祟り神の呪いを受けてしまっているのだろう。暴走と自制心の狭間で苦しげにもがいるように見えた。

「どうして、こんなことするの?あなたは……」

 少しきつい口調で問い詰めるように、あなたは誰?と繰り返し尋ねようとして、思いつく。

「あなたはの廃墟の神社の巫女さん?」

 それはほとんどひとりでに口をついて出た言葉のように感じた。

「あなたは、この世を恨みながら死んでしまった――」

「遊びはおしまい」

 とだけ、少女は言った。明日歌の言葉を、否定も肯定もしなかった。

「待って」

「明日歌ちゃんには罪はないけどね」

 少女の白い髪が、生暖かい山の風にそよめく。真っ白な手を口元に当て、ふふっと柔らかな笑みを浮かべているも、充血したような赤い瞳は決して笑っていない。

「待って!」

 やはり彼女は悪霊を使役していたのだ。それを証明するかのように、少女の姿と入れ替わるように黒い影が霧の向こうかから揺らめきながら湧き上がり、龍神と明日歌を取り囲む。

 明日歌が制止しようと左手を伸ばすも虚しく、少女はあっけなく消えてしまった。

 

 山頂を黒い影が覆い尽くす。その数は、公園にいたものの数倍はいる。

 

 甲高い笑い声だけがこだまする。


「……!」

 けれど正直、明日歌もこの展開は予想していた。ちらりと、指輪のはめられた左手に目をやる。今まで使ったことはないが、龍神が授けてくれたこの拳ならば、悪霊をも退けることができるという。自分にできることは、今はこれしかない。前回、完全に彼らに敗北を喫したことを思い出しても、怯えすくんでいる場合ではなかった。

「明日歌、私のことは良い。離れろ」

 聞き覚えのある若い声とは違う、もっと低く、くぐもった、何十にも重ね合わさったような恐ろしげな声で、彼は唸った。龍神の姿は、先ほどの黒い鱗に全身を覆われ、完全な龍に変わりつつあった。自らの行動に反して変化していく体を、くねらせながらのたうち回っている。

「嫌だ」

 明日歌は龍神を背に、悪霊に向かって拳を構えた。正直殴ったことはないが、漫画とかドラマとかでなら見たことがある。とりあえず、真似してみればいいか。

「その力は使うな。私を置いて、今すぐ帰れ」

 苦しげに、龍神が呻く。

「嫌だ!」

 明日歌はそう、一層強く繰り返す。

 わらわらと寄ってくる悪霊たち。でもこうして見ると、動きも遅いし、一人一人はそんなに力を持っていそうにない。当たりさえすれば。けれど一つ気がかりなことがあった。

 傷つけた分だけ、自分も傷つく。

 その代償に対する恐怖心が、今になって重くのしかかる。それはどの程度のものなのだろうか。想像もつかない。握った拳が、情けなく震えている。

 

 ――まさに、踏んだり蹴ったりね。

 

 私、なんにも悪いことしてないのに。今までわがままも言わなかった。人の迷惑になることしないようにしようって、いい子でいようって、ずっと前から決めて、ちゃんとしてきたと思うのに。

 

 それなのにこの仕打ち、か――。


 俯き、自嘲気味に苦笑する。、そんな健気な努力になんて、なんの見返りもくれなかったことに、明日歌はようやく気づいていた。

 

 それでも――。


 急に、意を決したように顔を上げると、一歩踏み出し、一番迫ってきていた悪霊に対して、できるだけの体重を乗せて握りこぶしを打ち込む。

「ひゃあっ」

 実体のないものに触れた感覚――殴った感触がたしかに有り、思わず目をつぶる。胃の辺りに、鈍い痛みが走った。

 ――そうか、こんなかんじか。不便だな、と、自分でも意外なほどに冷静に、明日歌は思った。でもこれなら、まだ耐えられる。

 龍神の吠える声が、地を震わせる。

 二発目。脇腹の下の方。悲鳴を上げそうになるが、歯を食い縛る。

 後ろで目を見開きながら、黒龍は唸り声を上げた。

「明日歌!やめろ!」

「うるさい!」

 自分のものとは思えないような、強い否定の言葉。自分がそんな言葉を持っていたことに、驚く。

 気づけば、それは龍神の怒号さえ一蹴していた。

 不意の叱咤に怯む龍神。しかしそのすぐ直後に、自らの意思に反して尾を振り上げ、明日歌に向かって振り下ろしていた。

「よけろ!」

 バァンと砂埃を上げる地面。言葉はまだコントロールできるようで、そのおかげで、明日歌は一撃を避けることができた。体勢を立て直すと、明日歌は黒龍を見上げて叫んだ。

「聞いて!」

 三発、四発――感情をぶつけるように、悪霊を殴り続ける。なぜか脳裏に、数十分前の翡翠と「はねず」という女の子の並んで歩く後ろ姿が思い起こされる。――なんで今?

 打ち消すように、殴り続ける。

 その度、どこに痛みが現れるかはわからなかった。こみ上げてくる気持ち悪い感じは、内蔵にダメージが及んでいるからだろう。でも、ということはその分だけ奴らにも攻撃が効いているということだ。

 そして、不意にまた蘇る光景も、腹立たしく思いながら潰すように。

 痛いと言わないように、代わりに明日歌は言葉を絞り出した。

「私、龍神様が来てくれて嬉しかった!でも、なんかわからないけどすごく避けられてるような気がして、どうしてだろうって思ってました」

 悪霊たちは、攻撃されることに対してはかなり脆弱なようで、そのうちに一体、また一体と、姿を消していく。彼らを撃退できれば、龍神の呪いを浄化できる隙が生まれるはず。

 龍神は、咆哮と共に、明日歌に向かって言うことを聞かない尾を叩きつけてきた。ゆっくりとした大仰なモーションのその一撃は、小柄で身軽な普段の明日歌になら難なく交わすことのできるものであろうが、腰や腹がひどく痛む今、思うように体が動かなくなりつつあった。

「理由、あのとき風神ちゃんとお話してたの、お社の中で聞いてました。ごめんなさい。でも聞かずにはいられなかったから」

 怒りという感情がこれかと、明日歌は初めて気づいていた。誰に対してだろうか。

「ひどいと思いました。私、お母さんのこと、あんまり知らなかったけど、お母さんだし、知らなかったけど、大好きだったのに。そんなことで死んだなんて」

 話しながらも悪霊を一人二人と消滅させていく。

「気持ち悪かったし――ムカついたし、許せないって思いました。それに――」

 げほげほっ、という咳に、途中遮られる。土煙にむせたのか、内蔵の損傷がそうさせるのかは、もうわからない。

「――龍神様はもっと許せなかっただろうなって、思いました」

 

「でも納得いかないんです」

 不意にこみ上げた吐き気に、明日歌は膝をつき嗚咽を漏らすと、ぼとぼとと赤黒い血を吐いた。両手にこぼれたそれを見て、少しめまいがする。

「明日歌!」

 気づけば、息をするのも苦しかった。これだけの打撃を、あの霊たちに打ち込んできたのか。息を荒げながら立ち上がると、龍神ににじり寄る悪霊の行く手を塞ぐ。

「もうやめてくれ!」

「やめません!」

 振り返り、龍神を見上げ言い放つ、その強い意思を秘めた眼差しは、記憶の中にだけある、会ったことのない忌まわしい少女――エリスと、重なった。龍神はその眼を睨みつけながらも、必死の思いで自分の攻撃を食い止めると、呪いに魂を食い荒らされる感覚に叫び声を上げ、身をよじった。

 明日歌は最後の悪霊と対峙した。


「私のこと信じてくれて、ないからなんですよね。お母さんと同じことするって、思ってるから避けてるんですよね?」

「危ない!」

 耐え切れず振り下ろされる龍の巨体を、間一髪で身をかわし、地面に転がって、起き上がり、叫びながらその懐に拳を当てる。

「それが、嫌だって……言ってるんです!だって……」

 自分でも何を言っているか半分わからなくなっていた。けれど叫んでいなければ、心が負けてしまいそうだった。腸が裂けたかのような腹の痛みに、叫び声さえかすれてしまう。

「私は、私だから――!」

 全身を引きずるようにして、最後の一撃を打ち込む。鉄の味が口の奥にせり上がる。霊の姿が砂のようにさらさらと消えていった。


 やった……。


 しかし、達成感に安堵している暇はない。

 もがき苦しむ主のもとへ、明日歌は近づいていく。龍神は、明日歌を打ち殺しそうになるのを必死に抑えていた。

 制御の効かなくなった祟り神の巨体は、滅茶苦茶に暴れまわっていて、身がすくんでしまうほど不気味で、脅威だ。

 けれど明日歌は、もうその尾に触れられるなら、次の瞬間に叩き潰されても良いとすら思い、ためらいなく歩み寄る。


「これは、あなたの、ために言ってるんじゃない。私が、自分で……心でほんとに思ったこと、だから」

 龍神の暴れる体に、伸ばした左腕で触れた。

 薄紫色の光が全身から湧き出て、呪いに犯された黒龍の身体を優しく包み込む。ほどなくして、龍神の躯体は、明日歌が触れた部分から徐々に光り輝く温かい鱗に包まれ、凍結したように動きを止めてゆく。


 さらにその鱗も、明日歌が少し指ではじくとパラパラと崩れ落ち、人の姿を取る龍神が戻ってきた。


 急に意識が朦朧とし、明日歌は気の抜けたようにその場に崩れ落ちた。

 龍神は、その体をしっかりと受け止める。

 

 神域に、静寂が訪れた。


 龍神の膝に頭を乗せた状態で、明日歌はゆっくりと口を開いた。

「あなたとは、考えが違うかもしれないけど……」


「ただ……私の気持ちを知って欲しかったから、言いました」


 龍神は、眉間にしわを寄せた表情と、厳しい口調を変えずに、

「これほどまでに、我が命に従わぬ神使とは」

 と言うと、ふと、吹っ切れたように口元を緩ませ、肩をすくめた。

「すっきりした、か」

 明日歌は龍神の投げかけたその言葉に、きょとんとしたように目を瞬かせる。そして、笑顔で小さく頷いた。

「はい」

 龍神は、その手を明日歌の額に翳した。全身を貫いていた苛烈な痛みが和らぎ、深淵から、体を動かす活力が、戻ってきた。


「明日歌!」

 気がつくと、祠の前で眠っている自分がいた。風神が顔を覗き込んでいる。

「あ」

 すっかり夜は更け、祭りは終わっているようで、先程は遠くで聞こえていたはずの現し世の喧騒も、今は蛙の合唱だけになっていた。

「なにやってんの!勝手に行っちゃって!もう!なにやってんのーーー」

 ゆさゆさと体を揺さぶる風神。

「い、痛い痛い」

 ゆっくりと起き上がる。

 龍神から治癒の恩恵を受けたとは言え、疲労は消えず、体の節々が傷んでいた。口の端には、血を吐いた痕跡も残っているし、左手の甲にはそれをぬぐった痕もある――というか、手のひらは吐いた汚い血に塗れていた。風神が慌てて背中をさする。

「きゃああああごめえええん!大丈夫?血出てるよ!」

 慌てて風神は、白いハンカチ――というか手ぬぐい?を取り出し拭いてくれた。

「あ、それは大丈夫。むしろ気分がいいくらい」

「え!?明日歌、それは……ドン引きだわ」

 大げさに白目を剥く風神。日常に帰ってきたのだ、と明日歌は実感を大きくし、息をついた。

「ありがとうね。風神ちゃん」

 風神が自分の意思を尊重してくれたことが嬉しく、明日歌は心から礼を述べた。


「……白瀬さん」

 呆然と、翡翠は佇んでいた。

 さっき会ったばかりなのに、なんだか久しぶりな気がする。

 翡翠の姿を見た瞬間、明日歌の心の中にモヤモヤしたものが沸くのを感じた。

「ごめん…」

 それは何に対しての謝罪なのだろうか。彼に謝ることはないはずだった。

「い……」

 いいよ、気にしないで、という決まり文句を頭の中で組み合わせた――が、口にしたのは、全く反対の言葉だった。

「いやです」

 顔を背け、地面に吐き捨てるように、明日歌は言った。

「え?」

 反面、冷静な自分は「あれ?」と思いながらも、自分を抑える心のブレーキが効かない。

「私、藤村くんと、一緒に行きたかった。あの子と行かれるの、嫌だった!」

 何を言い出すんだろう、こんなところで。しかも、結局はあの白髪の少女が現れて、それどころではなかったじゃないか。冷静な自分がそう思う反面、明日歌の目には、どうしようもないほどの利己的な涙が溢れていた。

「あ、明日歌?」

 風神も目を丸くしている。

 そこを問いただされるのは、予想もしていなかったのだろう。

「朱華さんとは、きちんと別れてきたから、もう行かないよ」

 翡翠はそう返すのが精一杯だった。

「でも」

 ――ああ、そうか。

 でも、なんて言ってもどうしようもないことはわかっているのに、食い下がる自分。そんな自分を冷静に見つめる自分が、気づく。この気持ちに。

「また来年一緒に行けばいい」

 翡翠は力強く言った。一歩も引かずに、そう答えた。明日歌はそこで初めて、まともに翡翠の顔を見て話せた。

「私、おばあちゃんの家から元の家に戻っちゃうんだけど。ここまで一時間半以上かかるんだけど」

 小さな子供がわがままを言うように詰め寄る。

「それでも来てください。浴衣着て。約束しましょう」

 そう言って、翡翠は微笑む。

 寂しくて、虚しくて、胃の辺りをきゅうっと掴まれるような感覚に、また襲われる。

 その感覚の正体を、明日歌はもう知っていた。

 それが、穢れの原因だったのだから。

「そんな先のこと、今決めていいの?」

 明日歌は消えそうな小さな声で、問う。

「いいよ」

 その温かい声に、だんだんと、熱が引いて行くのを感じた。

「ごめん、私めちゃくちゃなこと言った。すごいわがままだ」

 ううん、と翡翠は首を横に振る。

「聞けて良かったです」

 立ち上がろうとする明日歌を介助する。

「すっきりしましたか」

 その言葉に、はっとし、明日歌は翡翠を見た。

 そして、少し恥ずかしそうに、しかし何か憑き物が落ちたかのように、清々しい気持ちで、うん、と大きく頷いた。





  ☆   ☆   ☆   ☆


【明日歌】

 私はずっと、どこかで期待していた。

 お母さんがいなくなってから、かな。

 私がいい子にしていたら、みんなが褒めてくれた。

 お父さん、おばあちゃん、学校の先生も。友達だって。

 そうしていたら、みんなが幸せそうだったし、

 それにどこかで見返りを期待していた。

 そうやって私が我慢していれば、いい子にしていれば、

 神様が見ていてくれて、

 もう私の前から誰もいなくならないようにしてくれるんじゃないかって。

 今にして思えば、すごく馬鹿げてるね。

 私が会ったどの神様も、そんなの知ったこっちゃない!っていうと思う。

 

 だから私、大切な人には、

 大切な人だからこそ、

 自分の気持ちを、ちゃんと言わなきゃ。





 第一部終わり。第二部へ続く

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