後編 夢

 

 もう朝なのか、とうんざりしたが、違った。まだ空が暗い。

 安堵して目を閉じる。


 ――空?


 不審に思って、もう一度、うっすらと開けた目は、たしかに空を仰いでいた。

 部屋の天井じゃない。間違いなく、夜空。

 だって星が、たくさんの星が輝いてる。


 ――でも、そうか、これは夢だ。


 夢の中で目覚めたのだ。何もおかしいことはない。

 それに気づいた瞬間、急に意識がはっきりした。

 手にはスマートフォンが握られていた。中央のボタンを押すと、美月からメッセージが届いた画面のままになっていた。電波状況は圏外になっている。自分の脳内で考え出された夢にしては、無駄に細かいところまで設定が練られているな、と明日歌は可笑しく思った。

 体を起こし、正面、右、左と見回してみる。


 異常なほどに、見慣れない場所だった。


 明日歌の身長の四倍はあるであろう高さの黒い壁が、時折曲がり角を形成しながら、まるで迷路のようにどこまでも続いている。明日歌は、その通路の途中、ど真ん中に寝転がっていたようだ。地面は冷たく黒い石のようで、所々にきらきらとした光沢のある粒が埋まっている。高い壁も同じ素材で出来ているのだろうか。自分の顔がうっすらと映るほど磨き上げられていた。暗い空には、見たこともないほど綺麗な星の群れが広がっている。そして、不自然に近い大きな三日月。煌々と、暗い道を、周りの様子がはっきりと見えるほどに明るく照らしていた。この三日月の異常な大きさによって、これは夢だと確信を持つことができた。

 風はなく、気温は暖かい。しかしなにか不安になるような、奇妙な静けさだ。

 立ち上がる。ひんやりとした感覚が、裸足の足の裏を伝わる。とりあえず、夢なら特に何をしてもしなくても同じだろう。目が覚めるまではどうしたって暇なわけだし。そんなふうに余裕な思いで、スマートフォンを部屋着のポケットにしまい、少々心細いが、夢だと割り切って辺りを散策してみることにした。

 少し歩いたところで、道が三つに分かれていた。まっすぐ行くか、右に曲がるか、左に曲がるか。こんなふうな分かれ道がいたるところで派生しており、出口の見えない巨大な迷路を構成しているらしい。その先の見えなさと、途方もない長さに、夢であると分かりつつも、言い知れない孤独感と不安感に襲われる。

 そんな中、静寂が、突然破られた。


  ――ァァァァ――……


  翡翠はその、耳をつんざくような、しかし少し悲しげな叫び声のする方へ、目を凝らし、壁の縁を伝っていく。姿は見えないが、おそらくその声がこの神域の主のものだということは推測できた。


 風音のような、甲高い獣の叫び声のような、おそらく人間ではない何かの声があたりにこだました。明日歌は不安げに、歩みを進め、そして次の曲がり角から右に顔を出したところで、息を呑んだ。

 そこにあったのは――いや、「そこに居た」のは、ひとつの骸。長い髪の毛が体にまとわりついているが、その隙間から溶け出した蝋のようにやつれた顔が覗いている。落ち窪んだ目と鼻には骸骨のように二つの黒い穴があいているだけ。口からはどす黒い液体がだらだらと流れ出ている。白い着物を着ているが、そのどす黒い液体が着物を汚し、まだらな模様を作っていた。だらりと垂れ下がった腕にも髪の毛が絡みつき、着物の裾からはひからびた手に異様に長い、人間のそれとは明らかに違った黒い爪が見え隠れする。恐ろしい形の人の残骸がゆらゆらと漂いながら、しかし確実にこちらに向かって来ていた。

 曲がり角から顔を引っ込める。恐怖に目を見開きすぎて、瞬きの仕方を忘れていた。心臓の音が酷く煩い。できるだけ気を落ち着かせようと呼吸を整え深呼吸する。

 ――大丈夫。これは私の夢なんだから。

 あんな恐ろしいお化けを作り出す自分の脳に人体の不思議を感じながら、明日歌はとにかくそれと鉢合わせしないように逆方向へと歩き出した。けれど、なんだか脚が重い。


 ――タスケテ……


「え?」

 耳の奥で、小さな声が聞こえた。幼い子供のような、男の子か、女の子かもわからないようなかすかな声。

 そして。

 ――タス……ケテ……

 いつの間にか次の右の角から、それは現れた。その音もない一瞬の移動は、物理的法則を全く無視しているとしか思えなかった。だが、そもそもあれは見た目からしてあからさまに人ではない何か。壁を通り抜けるか超える方法は、いくらでもあるのかもしれない。それは一瞬止まると、首だけを左に向け、明日歌のいる路地を見つめた。そして手を伸ばしながら、その大きな真っ黒な二つの目の穴で、完全に明日歌の姿を捉えると、ゆらゆらと左右に体を揺らしながら、こちらに向かってきた。

 逃げよう、ごく単純にそう考えて、明日歌はくるりと方向転換すると走り出した。が、ものすごく脚が重い。

「えっ……ちょ、な、なにこれ」

 必死で脚を動かしているはずなのに、どんなに力を込めても、実際にはそのなん十分の一の動力しか生み出されない。一歩一歩、泥沼から足を引きずり出すように逃げる。こんなのすぐに追いつかれてしまう。

 ――ああ、でも逆に、ここで簡単に捕まったら、すぐに目が覚めるのかも。

 ふとそんな、夢でよくありがちな展開が頭に浮かぶ。それならいっそ、こちらからお化けに突進して行ってやろうか。

 明日歌はもがくのをやめ、化物の方に向き直った。あちらも相当ゆっくりとした動きをしていたが、両手を前に突き出しながら、滑るように移動している。白い着物を着ているが、その下に足はないのかもしれない。骨に革が張り付いたようなひからびた手の先には、針のような爪が十本、びっしりと刃をならべていた。もしもそれに突き刺されるとどうなるかは一目瞭然だ。

 冷静になろうとするも、心臓が早鐘のように打ち、足は鈍器のように重いのに、小刻みに震え出す。

 やっぱりできるだけ逃げたほうが良いのかもしれない。夢の中でも、痛みは感じるのかもしれない。そんなことをぐるぐると考えているうちに、化物は明日歌との距離を詰めてしまった。その背丈は明日歌の二倍はあるだろうか。明日歌はおびえながらもそれを見上げると、声を振り絞る。

「あ、あの、」

 意外と話し合いの通じる相手かもしれない。そう思った時だった。

 ――タス……ケテ……クレル……?

 またあの声が。しかし明日歌の目の前で、化物は無表情で腕だけを動かし大きく上に持ち上げ、自らの長い爪を彼女の頭にふり下ろそうとしていた。

 もう回避は間に合わなかった。意味はないが咄嗟に、明日歌は両手を頭の前にかばうようにかざし、固く目をつぶった。


 ばちばちと電撃のような音と同時に、瞼の裏に鋭い翠の閃光が走り、明日歌はそれが脳への衝撃よるものだと思った。しかしその瞬間、痛みはなく、代わりに化物の甲高い悲鳴だけが頭に響いた。なぜか化物が苦しみうめき声をあげている。そして、ごうごうとものすごい嵐のような音が鳴り、突然吹き始めた突風に、体が押されるような感覚。立っていられなくなり、思わず尻餅をついた。なにか、夢の中特有の、信じがたいなにかが起きているのだろう。明日歌は目を開ける。あまりの暴風で焦点が定まらないが、緑の閃光に包まれ、苦しみ仰け反りながら後退する化物の姿が確認できた。

 そのとき、明らかにこれまで頭の中で響いていたものとは違う、男性の肉声が頭上で聞こえた。

「すみませーん!」

 風の中で、やっと聞き取れるほどかすかにその声は叫ぶ。やや張り気味の声ではあるものの、道端でしんどそうにしている人に声をかけているような、どこかひかえめで間の抜けた調子だ。

 声の主は、見上げると、黒い壁の上にいた。

 ぴょん、と何のためらいもなく人間五人分の高さはある壁を飛び降り、明日歌が尻餅をついているところからほどなく前方に、すとんと着地した。

 いつの間にか、化物の姿は消えていた。

「大丈夫?」

 その人は、さらりと黒髪を傾けながら明日歌の方を振り返った。月明かりに浮かび上がる姿はとても華奢で、明日歌と同じぐらいの年に見える。切れ長の目は落ち着いており、まぶたの裏側に見えたのと同じ、鮮やかな翠色の光を宿した瞳で、明日歌の姿を、ただ静かに捉えていた。

「立てますか?」冷静な、しかし意外に優しげな物言いで、彼はそう尋ねた。「手を出して。多分うまく走れないと思います。手を離さないで、俺についてきて」

 そう言って少年は少し屈んで左手を差し出す。長袖のTシャツはひどくぶかぶかで、掌は袖口に隠れている。右手にはなぜか扇子がしっかりと握られていた。明日歌は突然の展開になんのことやら分からずきょとんとしている。彼女の思考は、閃光と暴風のあたりから処理落ちしていた。

「あ、すいません、突然出てきてびっくりさせちゃいますよね」

 ふふっと彼は涼しげな笑顔を見せた。先程までの冷静さとは裏腹に、年相応というかどちらかというと少し幼さの残る笑い方をする。その表情の柔らかさは、少し女の子のようにすら見える。「大丈夫。俺は味方です。少し移動しながら説明します」

 明日歌はおそるおそる、手を取る。女の人のように優しくほっそりとした指の感触。ひんやりとした冷たい手だった。少年は力強くその手を握り返し、ぐいっと明日歌の体を持ち上げると、同時に走り出した。

 ――タスケテ……

 また、この声――脳内で耳鳴りのように聞こえた声だったが、なんとなく明日歌はちらりと後ろを振り返った。風は止み、化物の姿はもうなかった。


 少年とともに、軽く二、三分は走っていただろうか、同じような迷路のはずだが、ここは少し曲がり角がたくさんあり、さっきいたところより複雑に入り組んでいる。それだけ逃げ場も多いということか。速度を緩めると、もう普通に歩けますよ、と明日歌の手をようやく離し、歩きながら話し始めた。少年は扇子を広げずに右の手で持ち、左の掌をそれでぽんぽんと軽く叩きながら話し出す。

「すみませんでした、驚かせてしまって……」

「あ、いえ、あの、ありがとうございました」

 明日歌は、夢の中の登場人物に素直にお礼を言った。まだまだ、状況はよくわからないが。「助けてくれなければ死んでました。多分」

「そうだねぇ」

 少し微笑み、彼は頷いた。明日歌は、

「まあ、これは夢だから大丈夫なんですけどね。でもさすがにちょっと怖かったです」

 相手を和ませようとしてか、明るい口調で、そんな言葉を口にしていた。

「あー。夢ね……」

 閉じた扇子をくるくる弄びながら、困惑気味に少年はつぶやく。

「?」

「たしかにこれは『ゆめ』だけど、あなたの『夢』じゃないですよ」

「はい?」

「ちょっと落ち着いて聞いて、できれば信じて欲しいんですが……」言いにくそうに彼は立ち止まり、一瞬ためらうが、振り返り、明日歌の目を見て、真剣な表情で言った。

「ここ、神様の領域なんです」



   ☆



「神様のりょういき……?」明日歌がぼんやりと復唱し、翠色の瞳を見返す。「そういうあなたも私の夢の中の登場人物ですよね」

「ああ、まぁ、たしかに、あなたの視点から普通に考えればそうなるかな」登場人物は困ったように目をそらし、独り言のように言うと考え込んでいる。

「でもそうじゃないんです。俺もあなたも――そう、実体のある人間です。つまり現実の世界を生きているのと同じような状態で……いやまずは、この領域の話をしようか……うーん」

 明日歌はすべてが自身の想像に過ぎないと確信していた。

「まずあなたが今いるこの場所は、神様が住んでいる世界なんですよ。世界っていうか、空間、かな。固有結界とかいうとなんだかゲームの世界みたいな感じになるけど、それが一番近いです。信じられないかもしれませんが、あなたは夢を媒介にして、神様や妖怪とかそういう、人ならざるものの住んでいる領域に来てしまった、ということです。なんでかとかは置いといて、とにかくそうなんです。これはまあ……よくある話ではないんですけど、夢とか空想ではなくて、ごくまれに、現実に起こりうる話なんです」

 そんな突拍子もないことを言われたところで、彼女が翡翠の話を信じることはできないだろう。これらの状況そのすべて明日歌の頭の中で作られた空想ではないことを、証明できるものはなにもない。

「神社が近いのかな……」少年は必死に言葉を選びながら説く。「神様の住んでいるところっていうか、神社は、現実世界ですよね、それの別世界、みたいな。いやこれじゃわかりにくいな。とにかく、神社も神様の個別のお家というか、そういう、固有の領域でしょう?この世界もまた、各神様の一人ひとりが持っている領域なんです。俺たちは夢を通してここに来るから、一応便宜上ゆめとも呼んでますけど……」

「異次元空間……ってやつですね」

 明日歌がおそるおそる口を挟む。そういう、ファンタジーな設定は漫画やアニメでよく見る。それぐらいなら自分の思考回路でも思い付きそうだ。なんだやっぱり空想か。私も結構メルヘンなところがあるのだな。

「そう!」翡翠は、理解が得られたと思ったのか、右手に持った扇子をびっと明日歌の方に向ける。「それです」

「私まだ信じてませんけどね」

 明日歌は少々引き気味で、あまりこの人と共感しないように一歩引きながら答える。

「……あ、そうですよね。すいません、こんなの、馬鹿げた話って思いますよね」

 翡翠が困ったように笑うのを見て、明日歌は少し申し訳なくなる。

「いえ、あの、こちらこそなんかごめんなさい」

 冷静ではあるが、素直に思ったことを表情や言葉に表す人間のようだ。

「ゆめ……つまり神域に来られる人間はけっこう珍しいんですよ」

「そうなんですか……」

 明日歌は話半分に聞き返す。どうせ夢だろうと思えばその程度の反応でも致し方なかろう。

「みんな気づいてないんです。こういうことがあっても、同じように夢だと思っているから。それに朝が来れば、忘れてしまう。寝ている間に見る夢を覚えてないのと同じように。だからみんな気づかないっていう」

 ――じゃあ私も朝起きたらここで起きたことは忘れてるってことね。で、これが本当に神様の世界だったか、私の夢だったかっていうことは、結局わからないのか――

 明日歌が心の中で自分の妄想をそこまで理解した、その時だった。

 

 ――イ タイ……。


「あ!この声……」

 明日歌の脳裏に、またあの子供の声が響いた。さっきより苦しそうで、弱々しい。

「どうかした?」

 少年が耳ざとく聞き返す。

「あ、いえ、その、なんかさっきから子供の声が聞こえて……」

「子供の……ああ、それこのゆめの主の声です」

「主?」

「神様ってことですよ」少年は少し言いにくそうに続ける。「今はあの化物……祟り神の姿になってしまいましたが、あの方は神様です」

「嘘……あれが?」

「迷わし神様。人を道に迷わせるっていう伝承を持つ、土地神様です。本当は小さな子供のような見かけをしているんですよ」

「全然違いますけど!」

「それは彼が、悪い霊や呪いをたくさん取り込んで、祟り神になってしまっているからなんです。原因はまだわからないんですけど……あと元に戻る方法も」

 ということは、この夢はあの化物(になってしまった神様)の領域で、あの化物の作り出した世界ということになる。一刻も早く出たいけれど、なんだか今の状況ではそれも難しいような気がしてきて、明日歌はそれが自分の作り出した悪夢だとしても、漠然とした嫌な不安に駆られた。

「とても強い力を持つ神様なので、あのような姿になってしまえば、ほうっておくと現実の世界にも悪い影響を及ぼしかねない」

「そんなことあるんですか?」

 少年の、やけに真実味のあるような語りかけに、思わず本気になって、明日歌は彼を見上げた。

「だから止めなきゃいけないんで――白瀬さん!」


 頬を点々と、生暖かい液体が伝ってゆく。

「ごっ……ごめんなさ……」

 突然のできごとに、明日歌は荒く上下する薄い胸の中でただ呆然と目を見張ることしかできなかった。

 黒光りする地面に鮮血が滴り落ちる。

 明日歌の背後から壁をすり抜けて現れた化物が、背後から爪を突き立てようとしたその瞬間、少年が左腕で明日歌の頭を抱き寄せ、右腕でその背を咄嗟に庇い、刃を受けたのだ。

 右手からだらりと力が抜け、持っていた扇子を取り落とす。彼は眉根を寄せ、一瞬うろたえていたが、すぐに左手で扇子を拾い上げると再び広げかざすと、まっすぐ目の前の化物を見据えた。

「迷わし神様……これはきっとあなたの意思じゃないんでしょう」静かに、しかし強い意志を持った口調で、彼は化物と対峙する。

「ですが、俺の仲間に危害を加えるのであれば、阻止させてもらいます」

「何をするの?」

「下がって」

 力なく垂れ下がった少年の右腕は、肘から指先まで白い長袖のTシャツが真っ赤に染まり、その直下には小さな血だまりが出来始めていた。見ただけでわかる。その腕はおかしな方向にねじ曲がり、折れていた。止血しないと、出血が酷くて死んでしまうのではないだろうか。こんなたくさんの血、見たことがなかった。明日歌はぞっとして、目を背けてしまう。

 彼は内心痛みをこらえているのだろうが、化物を見据える表情は険しくはなく、異様なほど冷静だ。その超然とした態度は、やはり彼が夢の中の空想人間で、実態を持たない何よりの証拠じゃないのだろうかと思わせた。化物を諭すように、彼はその場に立ちはだかり、扇子を持つ左腕を横へまっすぐふった。

 轟音とともにつむじ風が巻き起こり、見えない刃が化物の着物を引き裂く。化物の目や口、裂けた皮膚から、どろりと黒い液体が噴出した。祟り神は爪の長く伸びた両手で顔を覆い、悲鳴を上げる。

 ――イヤダ……イタイ……!

 乱風の中、泣き叫ぶような子供の声に、明日歌は思わず何か言いかけた、が、やめた。声の主の訴えを無視するにはあまりに悲痛すぎたが、だからといって自分を助けてくれている少年に攻撃をやめさせて、声の主をかばうことも理にかなわない。

 ――どうしよう、どうしたらいい? 

 何もできるはずがないのに、そんな自問が脳裏をかすめる。

 噴出する黒い液体が、突如として固形の物質となり、触手のように伸びていく。ものすごい速さで少年の細い首をぎゅっと締め上げると、彼がはっとして反応を見せるより早くその体を投げ飛ばした。

 明日歌の数歩後方にぐしゃっと音を立てて落ちた。仰向けに倒れ、右手はぶらりと投げ出され、全身に自分の返り血を浴びていた。死んでいてもおかしくないような惨状だが、意識はあるようで、すぐに上体を起こす。

「……痛っ!」

 その様子を、明日歌はどうすることもできず呆然と振り返って見ていたが、にじり寄る祟り神の気配を感じて向き直った。

「白瀬さん!」

 夢であろうがなかろうが、このままじゃダメだということだけが、彼女を突き動かしていた。それ以外は何も考えない。

 明日歌は化物の前に立ちふさがり、痩けた顔に開いた虚ろな穴を見上げる。

「危険だ!離れろ!」

「これは夢かもしれないけど!」

 少年の制止を打ち消すように、そして自分の迷いを振り払うかのように、明日歌は荒ぶる神と対峙し、その真っ暗な目を見上げたまま言葉を放った。神はそのずっと上から、なんの表情もなく明日歌を見下ろしていた。

 こんな土壇場で行動を起こすなんて、まったく自分らしくなかった。

 夢だと思っているからこそ、開き直れるのだろうか――けれど自分のものとは思えない、感じたことのない強い意思と活力が湧いてくる。

「私がとても恐ろしい想像をしているだけなのかもしれないけど、夢とか現実とか、嘘とか本当とか関係なくて」

 ただ今、この傷つけ合っている彼らを、救いたい。止めなければ。

 なぜだかそれが、このゆめのなかで果たさなければならない自分の使命のように感じられるのだ。

 ――でもどうやって?

 気づけば目の前には話も通じず脅威しかない恐ろしげな化物が、今まさに明日歌に向かってゆらゆらと近づいてきているのだ。


 自分のものではない、別の何かの意思に導かれるように、明日歌は左腕を伸ばす。自分たちの方へ向かってくる化物を、その手で制止するかのように――。


 包帯を巻いた指先が、仄かに煌めき出す。


 瞬間、薄赤紫色の光が、幾重もの筋状にまとわりつきながら明日歌の左手を包んだ。

「な、なにこれ!」

 驚いて明日歌は左手の小指に巻かれた包帯を凝視する。その下には、彼女が幼い頃からどうしても外すことができない指輪がはめられている。

「神器……」

 朦朧とする意識で翡翠が呟いたその言葉は、明日歌の耳には届いていなかった。

 あっという間に、光の筋は明日歌の周りを覆い尽くすように回り始め、光に導かれるように明日歌が腕をいっぱいに伸ばす。

「どどどどうしよう」

 勢い余って啖呵を切ったはいいものの戸惑う明日歌を、置き去りにしていくかのように、伸ばした指先から光の筋は勢いよく化物の体に向かって放たれた。反動で、明日歌の身体は仰け反り、おもわず後ろに尻餅をついてしまった。

 ――コワイ、マブシイ。

 頭を抱えうずくまったその化物の体を、一閃の光が直撃し、刺し貫く。

 甲高い悲鳴がこだまするなか、光の矢が直撃した部分から徐々に化物の体が薄紫色の光り輝く鱗で覆われ始めていた。鱗はすごい勢いでその全身を包み込み、そのいっさいの動きを封じ込めた。

 よろめきながらも立ち上がった翡翠が、うずくまったまま凍り付いた神様の袂まで駆け寄ると一撃、渾身の廻し蹴りを食らわす。その衝撃に光の鱗は、薄氷が割れるより脆く薄く、くだけ散っていった。


 化物の抜け殻がバラバラと剥がれ落ちていく中から、小さな、おかっぱ頭の日本人形のような装いをした子供が、ふわりと姿を現した。眠っているように見えたが、空中で静かに目を開くと、体制を立て直し、つま先から地面に音もなく着地した。

「迷わし神様、よかった」

 少年が、一瞬くらっとして、力が抜けたようにそのまま膝をついた。負った傷は深く、体は活動限界に近いのだろう。そのまた目線のだいぶ下に。神様はいた。両手で抱え上げられそうな大きさの童。これがあの化物の元の姿なのか。にわかには信じられず、明日歌は呆然と立ちすくむ。

「翡翠……」

 その声は、明日歌がずっと頭の中で聞いていたあの子供の声と同じだった。だけど今度はもっと感情を持っていて、弱々しいが、たしかな肉声だ。迷わし神は翡翠と呼ばれた少年の、力なく垂れ下がって地面に指先を付けている血塗れの右手に、そっと小さな手を触れる。

「すまない……我の力不足ゆえに……このような……」

「いえいえ」翡翠はゆっくりと言って、微笑む。「気にしないでください。迷わし神様のせいじゃありません。それより貴方様に本気で廻し蹴り入れてしまいました非礼、お許し下さいね」

「無論。こちらこそ、こんなひどいけがを負わせてなんと詫びれば良いか……しかし、われの力でも、そのけがを治すことができぬ。せいぜい血の流れを止めるぐらいしか」

 小さな神様が何やら両手で翡翠の手を優しく包み込んでいることしか、傍から見るとわからない。翡翠が驚いたように、

「ありがとうございます。こんな力があったのですね」

 と、少しおどけて言った。どうやら迷わし神の力によって、出血が止まったらしい。迷わし神も釣られて笑い、場の空気がふっと柔らかくなった。

「我は意外と有能なのだがね、こういう力は普段使いどころがなかなかないのだよ」迷わし神は努めて明るくそう言うと、「それと、そちらの方にも礼を言わねば」

 と、翡翠の後ろに立っていた明日歌の方に目を移した。

 明日歌は、彼らのやり取りをぼーっと見ていたが、はっとして我に返る。

 小さな神様が明日歌に目をやると、はるか上空を見上げるような姿勢になったのを見て、なんだか失礼に値するような気がして、明日歌も膝を抱えてしゃがみこみ、神様と初めて視線を合わせた。

「明日歌、といったかな」

 子供の声で、たどたどしい口ぶりでありながら、言葉遣いだけが老人のように古風で、落ち着き払っている。

「なんで私の名前を?」

 明日歌は驚いて思わず尋ねた。

「神様だからね」迷わし神はにっこりと無垢な子供の表情で明日歌に笑いかけた。「我の声を聞いていてくれて、有難う。貴女が来てくれたなんて、我も運が良い」

「ほんとに、俺だけじゃ、迷わし様を救出できませんでした。俺からもありがとうございます」

 翡翠が立ち上がり、痛むのだろう、ほんの少しだけれど、恭しく頭を下げた。明日歌はついさっきのことを思い返して、急に恥ずかしくなり、赤面する。

「えええ!わ、私はそんな別に!っていうか逆にすみません!なんか、言うこと聞かずにでしゃばってしまって」

「あはは」あからさまにしどろもどろな慌て様の明日歌を見ながら、翡翠はなんだか可笑しそうに笑った。それを見て明日歌は首をかしげる。

「いや、白瀬さんってもっと、クールな感じの人だと思ってましたんで、なんかつい、すみません」

「へ?」明日歌はますますぽかんとして翡翠を見つめ、瞬きをする。「っていうか私のこと知って……どっかで会ったことありました?」

「翡翠、そろそろ朝になる」

「また明日、ですね」

 翡翠は明日歌の問いかけには答えず微笑んで、左手をひらりとふった。その刹那、視界がぐらりと歪み、裏返されるような奇妙な浮遊感に襲われる。


 アラームの音。なんだかくぐもった感じの音がすると思ったら、それはポケットの中で鳴っていた。

 体が重く、おもいのほか冷えていた。脚がひどく疲れている。そしてまるで一睡もしていないかのように、眠い。

 でも結局夢か、と胸をなで下ろす。夢なんて、ほとんど覚えてたことがないのだが、ここまで強烈だと、流石に記憶してしまうものなんだなと、自分の脳を恨みたくなる。怖い夢は、さっさと忘れなければ。

 だけど――鋭い翠色の瞳と、小さな神様の笑顔が頭をかすめる。何か引っかかっていた。

 白い縁取りのドレッサーの鏡に映った顔面を見て、明日歌は息を呑んだ。

 頬に、血の流れた跡がある。

 部屋着にも、数滴。

 寝てる間に引っ掻いたのだろうか。ざっと全身を確かめてみたが、どこにも傷がない。


 他人の血。


 さっと蒼白になる。

 こんなの馬鹿げた考えだ。だけど、そう思わずにはいられない。


 ――もしかしてあれ、夢じゃない?

  

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