第9話 素直 すなお


 風で桜が舞っている……そんな日――。


 もはや日課になっていた病院を訪れると、ベテランの看護師さんたちは慌ただしそうに、病院中を走り回っていた。


「先生! 301号室の患者が目を覚ましました!」

「…………」


 少し聞き耳を立てると、担当医と思われる先生に電話をかけているのが聞こえた。301号室は、さくらが入院している病室だ。


 確かに、ずっと目が覚めていないのに、特に個室から大部屋に移す理由もないだろう。


 でも、そのおかげなのか俺がほぼ毎日この病室に行っても、特に問題はなかった。もしこれが大部屋だったら、変にからかわれていたかもしれない。


 ただ……まさか、こんなに早く結果が出るとは思っていなかった。


 そう、俺が「もしかして、今までさくらが目を覚まさなかったのは、そういった先入観を持っているのでは?」という結論に思い至った。しかし、それは二月頃の話だ。


 今まで何をしても目を覚ましていなかったのだから、それに気がついて一カ月以内に結果が出ただけでも、嬉しい話だ。


 もちろん、証拠も根拠もない。もしこの結論が違った場合。


 それこそ、成す術なし、お手上げ状態になってしまっていただろう。しかし、上手くいったのであれば、結果オーライというやつだ。


 看護師さんたちは次々と俺を追い越して行っている。当然だ、廊下を走っているのだから。


「…………」


 だが、今日ばかりは仕方ないだろう。なぜなら、長い間眠っていた眠り姫が目を覚ましたのだから。そう思うと、この状況も分かる気がした。


「よかったですね」


 俺に気がついた看護師さんが、少し小走りになりながらそう言ってくれた。


「……はい」


 まさか、声をかけられると思っていなかった。だが、俺がそう言うと看護師さんは少し微笑み、今度はそのまま速度を上げ、走り去った――。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 301号室の病室には、さくらの両親と俺の両親。そして、すっかり顔なじみになった医師と看護師さんがいた。


 ただこんなにいなくてもいいと思う。


 それに、間違いなく俺と父さんと母さんはいなくてもいいはずだ。毎日ここを訪れていた俺ですら最初はこの場にいるのを遠慮したくらいである。


 なぜならこういった場には、俺の様な部外者はいない方がいいだろうと思ったからだ……。


「いいのよ。今まで色々手伝ってもらったんだから」


 しかし、さくらのご両親は俺の同席を許してくれた。


 だから、俺の両親がいるのはなおさら、に落ちていなかった。でも、俺はようやく起きているさくらに会うことが出来たのだ。


 ただ、祝福してくれていた周りとは対照的にさくらは、『真顔』だった。


「…………」


 俺は、すぐにその異変に気がついた。そして、次にさくらから言われる言葉をなんとなく……悟っていた。


「あなた……だれ?」

「…………」


 そして、それが間違っていない……すぐに理解出来た。


 そう、この『色眼鏡いろめがね』は「先入観をなくす」という効果がある。それ はつまり、「俺とさくらの関係もなくなる」という事を意味している……と、思っていた。


 元々、『先入観』というモノは、直接に出会う以前に、他の人の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識。そして、そこから導かれるネガティブな認識やその人、物に対する評価がもたらされるようなモノをいう。


 例えば、「この人、他の人の話に耳を貸さない」と噂されていても、実際会ってみたら、実は寡黙なだけで話ををすれば、言葉は少ないが、きちんと会話が成り立つ。といった様な感じだ。


 多分、「女子」との関係は「授業をよくサボっている不良と思っていたけど、意外に普通に話せる。それに、最近授業をまともに受けている……」などなど評価が変わったからだろう。俺の勉強に対する姿勢もそれと同じようなモノだろう。


 そして、この『先入観』がなくなる……。という事は、俺たちの間に成り立っていたはずの『幼馴染』という関係がなくなる。


 だから、俺は『昔からの幼馴染』だと思っていても、こいつは俺の存在全てを忘れている。しかし、俺に会う前に多分、両親から色々と俺に関する話を聞いていたはずだ。


 しかし、さくらからしてみれば「色々聞いてこの人は私の『幼馴染』らしいけど、覚えていないよく分からない人」っていう評価を俺にしている状況なのだろう。


 それは、いくら俺や自分の親が「さくらはお前の幼馴染だ」と言っても、覚えてすらいない人を『幼馴染』とは普通、言わない……それ以上に思わないだろう。


 ――少なくとも、俺なら思わない。


「…………」


 ただ……人生はそう甘くない。さくらの目が覚めて、しかも俺を覚えているなんて虫のいい……話……。


 いや、もしくはこれが俺の『本当の罪』か――。


 ふとそう思った。今まで自分の感情に素直にならなかった報いかも知れない……。そう思えた。


 でも、涙は……出なかった。


 多分、さくらは気がついていたはずだ。ただ、俺は気がついていないふりをずっとしてきた。


 それは、こんな状況を作ってしまう程の『罪』になるようなことをさくらにしていた。という事だろう。


 ただ、それを考えると……俺が泣くのは……違うはずだ。


「だから、さくら。この人は幼馴染の……」

「えっ……と」


 周りがいくら説明してもさくらは困惑気味だったが、それでも一向に俺を思い出せそうになくかった。


「……そんなに怖がらなくていいですよ」


 だからそんなさくらに俺は、笑顔で出来る限り穏やかに言った。もちろん。さくらは、驚いていた。


 でも、今の状態なら……大丈夫だ。今度は……今度こそ、自分の感情に素直になれそうな気がした。


 だから――――。


「色眼鏡なしでいこう」

「えっ?」


 さくらは、俺の顔を驚きの表情のまま見つめた。しかし、俺は笑顔を崩すことなく、さくらをじっと見た。


「……」

「……」


 今はそのままでいい。でも、さくら。俺はいつか必ず、今までお前に言えなかった言葉を伝えよう。それが……俺の素直な気持ちだ……。


 ――――そう、心の中で思った。

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