第6話



「時枝ちゃんピアノ弾けたんだねえ、俺この前初めて知った。休憩中にね、上野と二人でちょっと合わせてみたりとかしてたよ」

「……『大きな古時計』だろ、どうせ」

「そう、それ。やっぱ時計屋だから?」

「弾けるつっても、昔ちょっと習ってただけだから、そのへんだけだと思う」

 しかし、上野と二人で、かあ。

 ……どのくらい進展しているのだろう?


 いっそ音楽室に直接乗り込んで調査してみようかとも思ったが、それはなんというか、さすがに、無理。

 屋上のフェンスからなんともなしにグラウンドを見下ろしていると、九月の放課後の風は変に生ぬるく、どうも背中が寂しい。

「硲ー? 着けたけど……この時計なんなの?」

「……おまえ、あんまり腕時計似合わねーよな。なんというか、バカっぽくて」

「って、アンタが着けろって言ったんでしょ!?」

「まーまー、硲も今しんどいんだって。吹石ちゃんかわいいから知らないと思うけどね、失恋って本当につらいんだよ」

「……だからさ、なんでどいつもこいつもそういう態度取るかな……」

 敵情視察のため、学食一回奢りで買収した軽音部員二人も、あまり役には立ってくれない。時枝と上野が予想以上にいい感じってのを知らされただけだ。

 丸っこい眼鏡ののんびりした宮本、いかにも気が強そうな茶髪ショートの吹石。担当はそれぞれベースとキーボード。

 去年俺と時枝と同じクラスにいた二人で、軽音部というくくり以上に、凸凹コンビとして有名な二人だ。

 凸凹コンビの凸のほうが、手首に巻かれた水色の時計を見つめて、ぼそりとつぶやく。

「……そんなに似合わないかなあ」

「そんなことないと思うけど……あ、サイズ合ってないってのはあるかも。吹石ちゃん手首細いもんねー」

「ちょ……!」

 宮本がするりと距離を詰め、吹石の左手首を握る。

 吹石は見る間に赤くなっていったが、宮本はそれを知ってか知らずか、子供にそうするような仕草で掴んだ腕をふりふり振った。

 何やらハミングまでし始めた天然男子宮本に、いつものキツめの性格が鳴りを潜めた押しに弱い系女子吹石。

 軽音部の内情……というか、上野と時枝の関係がどんなものか聞き出そうと最初は思ったのだが。

 こういう感じの二人なので、吹石に着けてもらうと面白いかもしれないと思って体感時計を渡した。宮本の人差し指と親指がくっつくくらい手首が細いので、ちょっとベルトは余っているようだが。

「で、宮本」

「なに、硲」

「なんで俺の腕も握ってんの?」

「いや、掴んでないと飛び降りとかしそうだなと思って……」

「……」

 頭を抱えるしかなかった。

「なあ、なんでどいつもこいつも気ぃ遣ってくんの……。そんなにか? 今の俺そんなにひどいか?」

 大丈夫ですよ、俺は大丈夫ですよ、とアピールするつもりで、少しおどけた感じで言ってみる。

 が、自分で言ってても思った。どこからどう見てどう聞いても、俺のこれはやせ我慢だ。

 傍から見ていてもそう見えたのだろう、吹石はぎこちなく宮本の腕を振り払うと、まだ少し緊張に震える声で俺を煽った。

「そ、そんなの見てればわかるに決まってるでしょ。上野はわかりやすくアプローチかけてるし、時枝ちゃんもまんざらじゃなさそうだし。よく上野の話してるから」

「よく、上野の話……」『よく』か。そんなに上野の話ばっかしてんのか……。

「……で、あんたは最近元気が無い。わっかりやすい男よねー」

 いくらか余裕を取り戻したらしく、声には嫌味が多分に混じっていた。

「もうアレじゃない? 上野より先にアンタのほうから告白するしかないんじゃない?」

「俺のほうから……って、それは」

「まーさか無理なんて言わないでしょー? 自分から攻めて行かずに手に入るものなんてなんにもないのよ?」

「そのまんま返すわ」

「そのま……ッ!」

 その一言で吹石は宮本のほうをチラ見して凍りついたが、こいつをいじめたところで俺の状況が好転するわけではない。

 宮本のほうはこの硬直が好意から来るものだとまるっきり知らないので、うんうんと頷く顔はとても気楽そうなものだった。

「でも、ほんとそのくらいしかないんじゃないかなあ。普通に考えれば、誰だって硲より上野のほうがいいだろうし」

「誰だって? ……誰だって?」

「え、普通そうじゃない?」

「そりゃアンタと上野なら10人中500人が上野のほう選ぶわよ」

 吹石のそれは便乗かつ子供じみた暴言なのでどうでもいいのだが、宮本は天然ゆえに自分の辛辣さを自覚していないところがある。

 またも頭を抱えた俺の隣で、吹石はぶかぶかの腕時計を眺める。

「っていうか、この時計にしてもさあ。何のつもりか知らないけど、これ時枝ちゃん家で売ってる時計かなんかでしょ? 渡すならそれこそ時枝ちゃんに渡したらよくない?」

「時枝に時計渡してどうすんだよ。っていうか、それ借り物だから」

「借り物また貸して何がしたいわけ。……でも、あの子がいつも着けてる時計、最近調子おかしいっぽいよ」

「……え、そうなの?」あれ、初耳だぞ。

「あたしが見たときいっつも遅れてたから。本人に言っても大丈夫って言うんだけどね」

「ふーん……?」

 時計がおかしいって、あいつなら自分で直せると思うのだが。

 ……というか、そういえば。あいつの腕時計ってどんなのだっけ?

 時枝の姿を頭に浮かべる。その手首にピントを合わせてみる。……が、あいつがどんな腕時計をつけていたか、それがどうしても思い出せない。

 別に他人の腕時計なんかいちいち注視してるわけでもないだろ、と言えばそれはそうなのだが。それを思い出せないという事実が、最近時枝との付き合いが希薄になったことを如実に示しているようで……。

「ま、幼馴染だからっていつまでも一緒にいるわけじゃないよねえ」

「……」宮本は天然ゆえに自分の辛辣さを自覚していないので、今の台詞もいつも通りののほほんとした笑顔で言い放った。

 その場にうずくまって考え込む。そうだよなあ、そりゃそうなんだよなあ。

 幼馴染、ってだけなんだよな。

「やっぱ硲からもアタックするしかないでしょ。当たって砕けて塵になれって感じ」

「うるせえよ。っていうか、別に俺は時枝とそういう関係になりたいわけじゃなくて……」

「そうなの?」

「え?」

 無責任な吹石の声に顔を上げると、そこには時枝がいた。

 俺の顔を覗き込むようにして立っていた。

 時枝?

 ……時枝?

「音楽室、誰もいなかったから。ここにいたんだ」

「わー、こんにちはー時枝ちゃん。そうだよ、上野は今日進路指導室に監禁されてます」

「……そうなのか?」これは俺だ。

「あいつ、この前の進路指導の調査書出してなかったらしくて。先生音楽室まで来たよ」呆れたような吹石の声。

「進路指導……って結構前じゃなかったか」

「そーそー、だいぶ豪快に無視したらしいね。すっごいパンク」

「……」

 俺は宮本の首を取って屋上の片隅へと移動する。

(どーいうことだ?)

「じゃあ、俺らはそろそろ練習戻んないとねー。上野はしばらく出てこれないと思うけど、もう文化祭近いんだし」

「はいはーい。じゃ、この時計返すから」

(おい)

 宮本は白々しい棒読みを残して屋上のドアをくぐり去り、吹石も時計を外してよこした。

(……上野が進路指導室呼ばれてるってのはホントだから。たぶん時枝ちゃんも上野いないなら来てもしょうがないだろうし、久しぶりに一緒に帰れば?)

(帰ればって……)

 背後に感じる時枝の存在がなんとも居心地悪く、返してもらった時計の文字盤に目をやる。4時……16時56分。

 屋上から去ろうとする吹石の背を小走りに追いかけつつ、ポケットの携帯を取り出す。今の時間は……5時、17時05分。少しズレている。体感時間のほうが短い。

(ちょ、ちょっと待てって!)

「……はあ」

 好きな人と一緒にいる時間は短く感じる。だからだろうと、そう思ったが。

「まあ、今のアンタも見ててちょっと楽しいけどね。みじめで。でも、一応……一応ね? 同じクラスだった縁もあるし」

 呆れ気味に振り返った吹石は、子供に言い聞かせるように、指を一本立てて――

「上野とも同じ軽音部だけどね、アンタと上野なら、アンタのほうもちょっとは応援してやらないと釣り合い取れないかなって思うくらいには、アンタのことも友達だと思ってるから。一応ね」

 それだけ言うと、すぐに階段を降りていってしまった。

「……」

 見ててちょっと楽しい、友達……。

 そういや、まあ、そうか。

 好きな宮本と一緒にいるからというのもそうだろうが、しかし、そもそも恋愛どうこうじゃなくても、誰かと楽しく過ごす時間っていうのは短く感じるもんかな。


 ――――さて。

 腕を組み、くるりと後ろを振り返ると、屋上には時枝がぽつんと立っている。

 しばらく視線が合った。

 その視線をズラして、手の中で新品のようにきらめく銀色の腕時計を見つめる。ズレた時間はもう戻っていた。

 手首に巻いてみると、文字盤の薄い水色は、オレンジ色の夕陽で少しわかりづらくなっていて――

「……久々に、帰るか、一緒に」

「そうだね」

 覚悟を決めるようにベルトを締めると、留め金が綺麗にパチリと鳴った。

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