第5話


 さらに、その次の日。

「なんで9月にマラソンなんかあるんだ。しかも一限。頭おかしいとしか思えん」

「やあやあ陸上部長距離エースの伊勢谷くん。やっぱガチの選手だと走ってる途中も時間とかペースとか気にしたりするもんでしょう? そこでこの時計が」

「おまえその喋りどうした気持ち悪いぞ。……あ、いや、すまん。最近ちょっと壊れてるんだったな」

「だからそういうのじゃないってマジで」

 一限、体育。マラソン5km。言うまでもなく苦痛な授業だ。

 というか、女子と一緒に走らせるのほんとやめてほしい。男子5km女子3kmで女子のほうが早く終わるせいで、走り終わった女子がトラックの内側で休んでいるところに、俺たちは終盤の必死な姿を晒す羽目になるのだ。

 そう、体育がマラソンの時期の帰り道は、よくそれを時枝に茶化されたものだ……。

「よー時枝ちゃん。やだねー、一限からマラソンとか」

「ほんと。でも上野くんマラソンも早いんじゃなかったっけ?」

「お、よく知ってるな~? じゃあ、ちょっとはできるとこ見せなきゃなんねーなー」

「がんばってね」

「もちろん」

 ……まあ、今回はそんな心配も要らないような気がしてるけど。

「……オラ、もうすぐスタートだって。余計なこと考えながら走ると余計しんどくなるぞ」

「……おう」

 バシバシと背中を叩いてくれた伊勢谷は、多少口が悪いところはあるものの、やさしい男なのだ……。


 俺はマラソンを走るとき、距離というよりは時間を心の支えにしていて、時計を見ながら何分経った、あと何分だ、あと何分の一だ、あとちょっとだと言い聞かせながらひいひい走る。

 そうやって自分をごまかしているが、苦しいときはどうしても「まだこんだけしか経ってねえのかよ!」と言いたくなってしまうものである。

 ちなみに、時枝は意外とマラソンが早い。というよりは、うまい。

 普段はマイペースなやつなのだが、やはり秒針に囲まれて育ったためか、あいつにストップウォッチを持たせると1秒でも10秒でも1分でも必ずコンマ00で止めてみせるし、その正確な体内時計のおかげか、ペース配分が重要な物事に関しては、なんでも要領よくこなす。

 その正確すぎる時間感覚が、かえって他人とのズレを生み、あいつのマイペースな性格を形作っているのかもしれない……じゃなくて、話がそれた。なんだっけ、マラソンは苦しいって話だ。

 ところで、こういう感覚って専門のランナーにもあるんだろうか?

 そう不意に思い立ったので、以前男子3000mで県大会を優勝した伊勢谷に体感時計を着けてもらった。伊勢谷は自分の腕時計を持っていたが強引に押し付けた。

 で、そこからきっかり25分後――

「おまえ、この時計おかしいだろ。時間めちゃくちゃだったぞ」

「……、……。……」

 ……マラソンのたびに思うが、ラスト数百メートルの苦痛はゴールが目前だとわかっているのにかなり辛い。長い。あそこだけ体感どうこうじゃなくマジで時間が引き伸ばされてるとしか思えん。

 伊勢谷と上野のワンツーフィニッシュから、数分遅れて俺はゴール。終わった直後は息切れでまともに返事もできなかったので、その後の休憩時間で少し話した。

「この時計メチャクチャ進むの早かったけどなんだ? 俺の時計でまだ5分しか経ってないのにこっち10分くらい進んだぞ」

 委員長とは逆パターン、体感時間のほうが早い。ということは?

「長距離の選手でも、やっぱマラソン走るのってしんどいもんなの? めんどくさい?」

「そりゃしんどいに決まってんだろ……」なんというか、意外な返事だった。

「楽しくて走ってんのかと思ってた」

「そーいう変態もいるかもしんねえけど」

 日々の厳しいトレーニングで全身が鍛えられているからか、伊勢谷はわりと引き締まった顔をしている。その顔でしばらく考え込み、言った。

「さっき、体育のとき、おまえ走り終わったときすげえ疲れてただろ。やっと終わったって思ったろ?」

「まあ、そんな感じ」

「息も切れまくってゼーゼー言ってる。でも、だんだん呼吸は整ってくる。だんだん楽になってくる」

 そこで一旦言葉が切れた。

「……あの瞬間って、なんか幸せじゃね?」

 その台詞は、俺に向けたものというよりは、独り言に近かった気がする。

「たぶん、それが理由だな……」

 ……なんと言うのだろう。その、なんだ。

 そう言った伊勢谷は、まさしく、……『男の顔』をしていた。

 そうとしか俺には言えなかった。

 言ってることがわからないわけではない。共感できなかったわけではない。

 でも、なんというか……普段、ぼんやりと生きている俺とは、面構えからして違う……そんな気がした。


 あ、その日の学食の味噌ラーメンはうまかったが、マラソンでの疲労が尾を引いてかなかなか喉を通らなかった。

 しかし、帰りに一人で寄ったゲーセンのUFOキャッチャーでは犬のぬいぐるみが取れたので良しとする。

 ……あげる相手がいないので(『もう』いないので、と言ったほうが正確かもしれないが、考えたくない)この犬には相談相手になってもらおう。

 ……と、思ったが、部屋で一人ぬいぐるみに話しかけていると猛烈に死にたくなってきたので、おとなしくインテリアになってもらうことにした。

 はあ……。

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