extra5 君みたいになりたかった〈5〉

 狂犬、そんなあだ名が例の部室での件からひと月も経たないうちに定着した。

 衛田令司のことだ。南から見て彼はすっかり変わってしまった。

 極端な話ではなく、目が合った者には誰彼かまわず喧嘩を吹っかける。常に苛立ち、刺々しさを隠そうともしない。

 あの日、衛田や甲間たちによって暴力を加えられ、心を叩き潰された上級生たちは結果として学校側には何も訴え出なかった。一人は遠方へと転校してしまったらしい。

 甲間颯士はなかなかに頭が回るようだった。下半身のみを露出させたうえピースサインまで強制した写真をばらまくぞと脅せば、大抵の人間は泣き寝入りをするしかない。


「いざとなれば、いじめられていた南を助けるためにやりすぎてしまった、そう言って反省してみせりゃすむ話さ」


 涼しい顔でそう嘯く甲間などとはまるで水と油だろうに、なぜか衛田が行動をともにするようになってしまったのは南にとって理解に苦しむところだ。

 ただ、彼らと一緒にいれば争いの種には事欠かないに違いなかった。荒みきってしまった今の衛田には好都合なのだろう。

 衛田は決して自身の心情を語ったりはしない。だから今の彼がサッカーについてどのように捉えているかは南には知る由もなかった。


 そのようにしてサッカーから遠ざかってしまった衛田が、甲間らや南と校舎内の廊下を歩いていたときのことだ。

 鬼島中学の校舎は非常に古い建物であるせいか、廊下に設けられているのは柵だけで壁というものがない。リゾート風にいえばオープンエアだが、実際はただの雨ざらし吹きさらしである。

 その柵にもたれかかるようにして一人の大男が立っていた。四ノ宮亮輔だ。およそ中学生とはとうてい思えないほど恵まれた彼の体には、すれ違っただけでこちらが委縮してしまうほどの威圧感がある。

 自然、あからさまではない程度に一行は四ノ宮を避けるような進路をとった。しかし中ほどを歩いていた衛田だけは四ノ宮の前で足を止めてしまう。

 そのまま顎を上向けにし、険のある目つきのままで昔からの友人に話しかけた。


「何か言いたそうだな、シノ」


 はらはらしながら見守っている南と同様、さすがに甲間たちも一触即発の気配を感じとったのか、口を挟むことなく事の成り行きを注視していた。

 だが四ノ宮のリアクションは予想外のものだった。


「別にィ」


 滑稽なくらいに下唇を突きだし、大袈裟に肩を竦めるユーモラスなその姿からは、彼がすでに手にしている「鬼島中学最強の男」という肩書きがどうにもそぐわない。

 おかげで場にはどこかほっとした空気が流れた。

 リーゼント頭の長谷村はその反応をみて、「なんだ四ノ宮くーん、けっこう面白いやつじゃーん」と近寄って馴れ馴れしく彼の尻を叩く。

 途端に四ノ宮の表情は一変した。


「あ? 誰だおまえ」


 1オクターブは下がったであろう低い声で凄まれ、調子に乗っていた長谷村も「ひっ」と竦みあがる。

 ああ、とすぐに南は理解してしまった。

 圧倒的な力を持つおかげか、もしくはそのせいなのか。四ノ宮は旧友である衛田以外とは誰とも積極的につるもうとしない。

 当然ながら南や甲間たちの存在など眼中にないだろうし、のみならず「衛田令司をサッカーから引き離す者」として苦々しく思われているに違いなかった。

 結局のところ、現状に流されているだけのやつにはそんな扱いがお似合いなのだ。あきらめ混じりの自虐を込めて南は心の中でそう呟く。


「ほんじゃレイジ、またな。暇があったら姫ヶ瀬FCのゲームでも観にいこうや」


 周囲を凍りつかせたことなど意に介してないかのように、ひらひらと手を振りながら四ノ宮が言った。

 ほんのわずかばかり、衛田の顔の筋肉が動いたのに南は気づいたが、それがどういう感情の表れなのかまではわからなかった。


        ◇


 結果からいえば、衛田令司がサッカーから離れるだなんてどだいありえない話だったのだ。一年の時を経て彼はようやく本来の場所へと戻っていった。

 鳴り物入りで入学してきた一学年下の榛名暁平たちが放つ熱は、そのあまりの激しさに息苦しくなるほどだった。練習を少し眺めただけでもそれがわかる。そして周囲を黙らせるだけの並外れた実力でもって、彼らはあっという間にサッカー部をあるべき姿へ立て直した。

 南は年下の榛名暁平に対し、怯えに似た畏怖の念を抱いていた。自分とは生き方も備わっている力も、とにかくすべてが違いすぎる。憧れるには遠すぎたのだ。

 中学総体予選の時期に合わせて面白半分に甲間らが学外で起こした恐喝事件、それに伴うサッカー部の出場辞退は南にとってもショッキングな出来事だった。しかもその主犯格と誤認された衛田が部員の一人によって一方的にやられたとなってはなおさらだ。

 それでも彼は再びボールを蹴ることを選び、そのことが南には素直にうれしかった。


「おまえはどうする」


 サッカー部へ復帰する決意を話してくれた際、ぶっきらぼうな口調でそう訊ねてくれたのは、あとになって思えば衛田なりの南への友情の証だったのかもしれなかった。

 榛名たちとの練習についていく自信が持てなかった南は、苦笑いとともに首を横に振ったわけだが、もしあのとき「一緒に行く」と答えたならば、はたしてどのような未来が待っていたのだろうか。

 しかしすべてはもう手遅れでしかない。


 今、「衛田令司」とネームプレートがかかった病室の扉の前で、彼を見殺しにしてしまった己を恥じながらも、その事実と向き合うための決定的な一歩を踏みだせずにいた。

 何もできずに立ちすくんでいた時間はいったいどれくらいだっただろう。

 彼の両足は震えるばかりでどうしても前には動いてくれず、そうやって無為の時を重ねているうちに扉が内側から音もなく開かれた。

 病室の中から姿をみせたのは衛田の親友、四ノ宮亮輔だった。

 四ノ宮は突っ立ったままの南を気だるげに一瞥して言った。


「邪魔だ。用がないなら消えろ」


 そのまま廊下を歩き去っていこうとする彼の広い背に、すがりつくようにして南が必死に声をかける。


「待って四ノ宮くん、待って!」


 南らしからぬ、考えるよりも先に体が反応した行動だった。


「四ノ宮くんは気づいているんでしょ? 誰が衛田くんをあんな目に遭わせたか」


 返事はなかったが、それでも南は堰を切ったように言葉を続ける。


「──その場にいたんだ。臆病でバカなぼくは、自分に矛先が向くのが怖くて衛田くんを見捨ててしまったんだ。そんなぼくでもこのまま見逃してもらおうだなんて虫のいいことは考えちゃいない。ちゃんと罰されるべきなんだ、衛田くんの親友である四ノ宮くんにぼくは殴られるべきなんだ!」


 思いのたけを吐きだし終わるや、不意に南の首は大きな手によってつかまれた。

 締めあげるその手には次第に力が込められていく。


「うぬぼれるなよ」


 殺される、と南は思った。だがたとえそうでもかまわなかった。

 なのに次の瞬間には、投げ捨てられるように四ノ宮の手から南の首が離された。受け身も取れず南は病院の冷たいリノリウムの床に仰向けとなってしまう。


「おまえみたいなただただ流されて生きてるだけのようなやつになんざ、殴られるだけの価値もねえから」


 見下ろしながら四ノ宮が吐き捨てる。


「おまえは甲間らに『ションベンちびりながら復讐されるのを待ってろ』と伝言さえしてくれりゃそれでいい。よほどおれを敵に回したいらしいとみえるからな、二度とそんな気を起こさねえようにどいつもこいつもぶっ潰してやるよ」


 たった一人であっても、彼が敗れる姿など南には想像もつかない。きっとその宣言通りにすべての敵を理不尽なまでの力で叩きのめしてしまうだろう。

 甲間たちは決して四ノ宮亮輔のテリトリーを侵してはならなかったのだ。


「わかったらさっさと行け。そんでもう、二度とレイジの前に顔を見せるんじゃねえ」


 何の反論もできないし、そんな資格もとうにない。

 四ノ宮から放たれた辛辣な言葉に打ちのめされて南は呆然と廊下の天井を見つめていた。どこから入ってきたのか、病院には不似合いな黒い虫が羽音をたてながら蛍光灯にまとわりついている。

 起き上がれないでいる南に構うことなく立ち去ろうとする四ノ宮だったが、歩きかけてなぜか彼は足を止めてしまった。

 南の視界の片隅で、背を向けたままの四ノ宮が独り言のようにして話しだす。


「レイジが言ってたよ、『おれは何度だってやり直す』ってな。姫ヶ瀬FCジュニアユースのセレクションに落とされても、サッカー部の有様に幻滅して道を踏み外しかけても、全国大会を前にしてひどい重傷を負わされても。何度でも何度でも、繰り返しやり直すんだとよ。あきらめの悪さならあいつ、もしかして世界一かもしれねえな」


 ははっ、とあきれたように笑っている彼が身にまとう空気は、先ほどまでとは違って随分と柔らかくなっていた。


「まあ、なんだ。ちょっときつく当たったけどよ、おまえだって手に入れたいものがあるなら別にあきらめる必要はないんだぜ。レイジならきっとそう言う」


 最強の男がみせる、思いがけない気遣いに不意を突かれた。

 いつの間にか南の両目から大粒の涙がこぼれて止まらない。拭っても拭っても、体の底から涙が溢れでてくる。


「行動には移せなかったにせよ、おまえが一貫してレイジに好意的だったことくらいはおれにもわかってる。だから会ってきてやれ。悔やんでいることがあるならそれをあいつにちゃんと伝えてこい」


 とうとう南は顔を両手で覆い、痙攣したかのように全身を震わせて泣きだしてしまった。

 言うべきことを言い終えた四ノ宮が静かにその場を後にしても、通りがかった看護師に「大丈夫ですか?」と声をかけられても、南には嗚咽を止められなかった。

 衛田が襲われたあの夜、自分の人生も一緒に終わってしまったような感覚に南はずっと囚われ続けている。

 こんなみじめな自分でも変われるのだろうか。

 四ノ宮みたいに衛田の隣に立っていたいと願うのは恥知らずで図々しいにも程がある。今さらだ。そんなことは南にだってわかりすぎるくらいわかっている。


「──それでも、ぼくは」


 弱々しい声であっても、自分がどうありたいかという意思を口にした彼は涙を流れるままに任せ、手と足とにありったけの力を込めた。

 前へ進むためには立ち上がらなければならないのだ。

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