第137話 迷宮の解明-2


 長く険しかった逃亡劇も、この遺跡が終着となった。

 俺とシラヌイは追手の魔人に見つかり、致命傷を負った。

 その魔人を捲くことには成功したが……結局、こんな薄暗い遺跡の中で最後の時を待つ定めとなった。


 魔人の攻撃を受け瀕死のシラヌイを背負って遺跡の最深部まで辿り着いたが、そこが限界だった。

 同じく重傷を負っていた俺は、そのまま地面に倒れ込んだ。立ち上がる気力もなく、せめてシラヌイを離さないように抱きしめることで精いっぱいだった。

 衰弱し意識を失っているシラヌイは、今にも死にそうだった。


 そこへ、一人の魔人が現れた。

 黒魔導士と思われる女は、俺達を見ると声を発した。


「あんたかい。魔族を裏切って人間と逃げてるっていう馬鹿な魔人は」


 女は間違いなく俺達を殺すために差し向けられた追手だった。

 俺にはもう戦う余力もない。あとはただこの女による処刑を待つだけだ。

 受け入れるしかなかった。俺と、シラヌイの死を。


「まったく面倒な仕事だよ。こっちは研究で忙しいってのにさ。さっさと終わらせるよ。あんたも覚悟はできてんだろ?」

 容赦なく俺達を見下ろす女に、俺はシラヌイを強く抱きしめながら話しかけた。


「俺は……どうなっても構わない。だから……」

「その女は見逃せって? 出来ない相談だねぇ。そいつも抹殺対象に入ってるのさ」

「……違う、そうじゃない」

「は?」


「……彼女が息を引き取るまで……待ってくれないか。彼女はもう瀕死だ……もうすぐ死ぬ」

「……」

「だからせめて……最後だけは……死の間際だけは……安らかに眠らせてやってくれ。俺の……愛した男の腕の中で静かに……」

「……」

「頼む。これ以上、彼女に苦痛を与えないでくれ……俺はどれだけ痛めつけられたって構わない。だから、彼女だけは……頼む……お願い、します……」


 堪えきれずに、俺は静かに涙を流しながら懇願した。

 こんな命乞いが魔人に通じないのは、魔人である俺がよく分かっている。

 だがそれでも願わずにはいられなかった。


 死は覚悟している。せめてもう一目だけでも、生き別れた我が子に会いたかったが……俺のような罪人には過ぎた願いだということも弁えている。

 俺は人を愛してしまった。

 人間の……魔人にとって家畜でしかない人間の女を、心から愛してしまった。

 その結果、魔族を脅かす力を人間に与えてしまった。その罪は全て俺が背負うべきものだ。


 シラヌイには最後の時を、ただ静かに眠ってもらいたい。

 その願いを叶えてくれと、俺は女に向かってみっともなく泣きながら懇願した。


「……くだらないねぇ」

 そんな俺の願いを、女は一蹴した。

 もとから受け入れられるはずもないと諦めていた願い。俺はせめてシラヌイを守ろうと、彼女の身体を強く抱きしめた。


 ――だがその女は、俺達に背を向けて歩き出した。


「私が手を下すまでもなく、あんたらもう死に体じゃないかい。まったく、だったらわざわざ私に命令なんか出すんじゃないってんだよ」


 女は心底不愉快そうに通路を進み、そのまま姿を消した。

 最後に一言だけ、俺に言葉を残して。


「いいかい、その女がくたばったらあんたもとっとと死にな。もし生きてこの遺跡から出てみな。そんときは私の作った秘薬で死ぬほど苦しませてやるからね」


 女が俺達を見逃して去ったという奇跡を、俺は信じられずに呆然としていた。

 俺は静かにシラヌイを抱きしめながら遺跡の地面に寝転がった。

 傍らで眠る愛しい妻の髪を撫でながら、シラヌイが眠りにつくまでのこの最後の一時が、彼女にとって安らかであることを祈った。


 だが、奇跡はきっとここまでだ。

 あの女が来たということは、他の追手もこの近くに来ているはず。

 他の魔人はあの女のように、俺達を見逃したりはしないだろう。



 ――ああ、誰か。

 誰かこの声が聞こえるか。

 誰でもいい。この俺の……生涯最後の、たった一つの切なる願いを聞いてくれ。


 もし聞こえるのなら、少しでいい、時間をくれないか。

 生き延びるためではない。ただ妻が眠りを終え、息を引き取るその間だけでいい。


 ――彼らを、この場所に近づけないでくれ。


 あるいはこの場所が、彼らに辿り着けないほどの……広大な迷宮であれば……。



「……え?」


 ――その光を浴びたとき、俺の中の魔人の本能が忌避感を覚えた。

 冷たく薄暗いこの遺跡の中を、神々しい光が包み込んだ。


 がそこにあった。

 傷つき横たわる俺たちをまるで祝福するかのように、その斧の光は俺たちを照らしていた。


「――私の、望みは……」


 そのとき、俺の傍らで眠るシラヌイが、小さく呟いた。

「シラヌイ……? お前、意識が……」

「私の望みは、いつだって、たった一つです」


 俺の声が聞こえていないのか、シラヌイはまるで誰かに語り掛けるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 そのシラヌイの囁きを……白く輝く斧が静かに見下ろしていた。


「――インクブル様と、いつまでも、共に……」






「――それがきっと、彼の願い。『誰もシラヌイに近寄らせないこと』よ」

 パンダの言葉に、オリヴィアは黙って頷いていた。


「オリヴィア、あなたこの遺跡の奥でインクブルに会ったって言ってたわね。そのとき、彼はどんな様子だった?」

「……男も女も瀕死だったよ。もってあと数分かそこらって感じだったね」

「まともに思考できる状態じゃなかったでしょうね。そう考えると、神器に何かを願った、というよりも……インクブルの願いを神器が勝手に叶えたっていうほうが正解かもね」


「目的や合理性があって生まれたものではなく、ただ魔人を遠ざけたいという突発的な思いから生まれたものか」

「そうね。具体的にインクブルが『迷宮』を望んだかは分からないわ。追手の魔人たちが自分たちのところまで来ないでほしいっていう、そんな抽象的な想いを神器が形にしたともとれる」

「……あり得るね。私にとってはついさっきの出来事だけど、確かにあいつはそんな風だったよ。生き残りたいとか、追手の魔人を倒したいとか、そういう願いは持ってなかった。ただ女が死ぬまで時間をくれって、そんなこと言ってたねぇ」


 あの迷宮に侵入者を害するような仕掛けがなかったのもそのため。

 ただ中に入った者が迷い、最奥にまで辿り着かないこと。それだけを根幹のルールとするのが迷宮の実態なのだ。


「ただ……私はインクブルが二つの願いをしたと思ってたんだけど……」

「そうだな。二つの迷宮に二つの法則があるのだから、神器に託した願いも二つあるはずだな」

「でも、こうして皆の話を聞いてると、もしかすると少し違うのかもね」

「どういう意味っすか? 姉御、宿屋で言ってたじゃないっすか。もう一つの願いは『インクブルとシラヌイが一緒にいること』だって」


 キャメルは事前にパンダからこの迷宮の謎について説明を受けていた。

 今のところその説明と矛盾はないようにキャメルには思えたが、パンダは何かが腑に落ちない様子だった。


「ええ。多分それがもう一つの『法則』で、インクブルがその二つを願ったんだと思ってたけど、もしかするともう一つの願いは……」

「それについては私が説明するよ」


 パンダの言葉を遮って、オリヴィアが口を開いた。


「パンダとか言ったかい。あんたの予想通りだと思うよ。――。二対の斧さ。あれがその神器とかいう代物だとは知らなかったけどね」

「やっぱりね。――あ、ごめんなさい。『そうだったのか』!」

「……なんだいそりゃ。馬鹿にしてんのかい」

「あら、あなたがやれって言ったのに。まあいいわ、つまりは、そういうことね」

「いやどういうことだ」


 話についていけず尋ねるホークに、「鈍い子だねぇ」とオリヴィアが嘆息する。

 そのやりとりも本物のオリヴィアとしたことがあるホークは、何百年経とうとも魔人は変わらないのかと不快そうに舌打ちを飛ばした。


「つまり、あのシラヌイとかいう女も神器に選ばれたのさ。二つで一つの神器、その一対にね」


「二人の人物が、同時に同じ神器に選ばれただと?」

「あるいはそれがその神器に選ばれる条件だったりするのかもね。二対の神器に、二人の適格者。二人の願いによって、二つの迷宮が生まれた。そう考えると整合性は取れてるわね」


「インクブルの願いが、『誰もシラヌイに近寄らせないこと』。そしてシラヌイの願いが、『インクブルと共にいること』、か」

「そう言ってたっすよね、姐御」

「ええ。――ただし、皆も察してると思うけど、


 誰もシラヌイに近づけないのであれば、シラヌイには近づけない。

 しかしそれではシラヌイの願いは叶えられない。

 二人の願いをそのままの形で同時に満たすことはできないのだ。


「これを解決するために、神器は二つの迷宮に二つの法則を適用したの」

「『誰もシラヌイに近づけない迷宮』と『魔族だけがシラヌイに近づけない迷宮』

……か」

「――待て、それはおかしい」


 リュドミラがパンダの推論に異を唱えた。


だ。どちらの迷宮においても奴はシラヌイには近づけない。それではシラヌイの願いが叶えられない」

「そうね。少なくとも、『本物のインクブル』はその法則に阻まれる。でも、回帰迷宮に現れたインクブルはその法則を回避できるの」

「何故だ」

「そもそも、神器はどうやって魔族とそれ以外を判別してると思う?」

「それは……」

「――なるほど。か」


 ホークは瞬時にその可能性に行きついた。

 それはホークにとっても、この迷宮内で直面した大きな謎の一つだった。


「そう。この迷宮内に現れた――つまり、神器によって作られた亡霊の魔人たちは皆『血の盟約を持っていなかった』」


 森に現れた追手の魔人、バルブル。ホークは彼に背後から破魔の矢を命中させたが、バルブルは死ななかった。

 同じく小屋で遭遇したインクブルにも破魔の矢を当てたが結果は同じだった。

 魔人でありながら、血の盟約を持っていない。だからこそホークの矢でも死には至らず、同時にそれが、彼らが神器によって作られた存在だという証明でもあった。


「追手の魔人たちからすら盟約を剥奪したのは、もしかすると神器の力を以てしても血の盟約を再現することはできないからなのかもね。盟約は個人のもの単体で完結する概念じゃないわ。その盟約と連なる者全てを再現しないといけない。そんなことは単純に不可能なんでしょう」


「ではバルブルやテラノーン……私が出会ったあの魔人たちも、神器が作り出した幻だったというのか?」

「そうね。その二人だけでなく、ここにいるオリヴィア、果てはホークが出会ったインクブルとシラヌイすらもね。幻……いえ、『亡霊』と呼んであげましょう。彼らはあくまでも自我を持って行動していたようだし、ただの幻と言うと可哀想ね」


「つまりあの転移は、厳密には魔族を判定していたのではなく、『盟約を持っている人物かどうか』を判定して転移現象を起こしていたということか」

「ええ。まあ定義的にも魔族って血の盟約に連なってる者たちのことを指すし、そういう意味では間違ってないわ。ただし、追手の魔人は別ってことみたいね。彼らは大本のインクブルの願いである、シラヌイに近づけたくない者たちに初めから含まれてるから」


「……ああ、おそらくそれで間違いない」

 深く頷きながらリュドミラが言った。

 今まではパンダの話を聞いているばかりだったが、その件に関してはリュドミラの方が強く確信を持てていた。


「廃虚の町が終わる直前、私は冒険者の女を一人捕えて尋問していた。貴様も覚えているだろう、ホーク」

「ああ、貴様らの悪辣な罠が仕掛けられていたな」


 ルゥを囮にした罠を思い出し、リュドミラを睨み付けるホーク。

 しかしリュドミラは静かに首を横に振った。


「違う。あれは罠のつもりではなかった。単純に、あの瞬間に転移現象が起こったんだ。だからすぐにあの女を爆殺しただけだ」

「……? 転移現象は北東区域でしか起こらなかったんだろ?」

「なるほどね、合点がいったわリュドミラ。ねえホーク……そのとき、シラヌイと一緒に町を移動してなかった?」

「……していた。――そうか、北東区域に入れないんじゃなく、『シラヌイに近づけない』という法則によって転移していたのか」

「おそらくね。シラヌイが移動したことで、転移する座標も変わった。リュドミラ達がルゥの尋問中に転移したのも、シラヌイが接近してきたからでしょうね」


 ホークもようやく全ての辻褄があった気がしていた。

 確かに、迷宮から森に転移したときも、すぐ近くにインクブルとシラヌイが潜んでいる小屋があった。だからホーク達以外の魔族は別の場所に飛ばされた。


 廃虚の町では、スタート地点ではまだシラヌイから遠かったため全員が一緒に行動出来ていたが、移動するにつれシラヌイに接近してしまい、魔族であるパンダとキャメルだけが別の場所に飛ばされた。


 以降はホーク達は、インクブル達と北東区域の宿屋で潜伏していた。

 リュドミラ達が近づけない区域に偶然入っていたのではなく、『シラヌイと行動を共にしていた』ことでホーク達は守られていたのだ。


「二対の神器はそれぞれで二つの迷宮を作り出したってことだねぇ。『誰もシラヌイには近づけない』っていう法則を持つ迷宮と、『インクブルとシラヌイがどちらも共にいられる』世界としての迷宮。……ああ、確かにこの迷宮は法則が先行して存在して、それに整合性を寄せる形で迷宮が出来上がってるねぇ」


「森や廃墟の町といった、二人が逃走中に通りがかった場所を再現したのは、きっとシラヌイの心象から採用されたものだったからでしょうね」

「『二人が共にいる場所』の舞台として、シラヌイが思い描いた世界が、あそこだったと?」

「皮肉ね。辛い旅路だったはずなのに、それがインクブルを最も身近に感じられた時間だったなんて。とはいえ、ご丁寧に追手の魔人たちまで再現するのはやり過ぎだけど」


 それぞれの『シーン』において、シラヌイの脳裏に強く残っていたものだけがあの世界で再現されたのだとすれば、遭遇した追手の魔人を神器が再現しても不自然はない。

 代わりにそれ以外のものは何も存在しない。

 パンダが廃虚の町で『見えない壁』に対して感じていた違和感もそれだ。


 パンダの予想通り、あの廃虚の町には外など存在しない。

 物理的に壁に覆われているわけではなく、単にそこから外の世界は神器によって作り出されていなかったのだ。


 迷路構造の迷宮は、そのままインクブルの願いが反映された迷宮だ。

 『誰もシラヌイには近づけない』、踏破不可能な迷路。

 それが第一の迷宮だ。


 一方で森や廃虚の町、そしてこの遺跡は、シラヌイの願いが反映された迷宮ということになる。

 かつてシラヌイの記憶に強く残ったシーン。それを再現し、インクブルやシラヌイの『亡霊』を作り出して迷宮に配置した。


 『インクブルと共にある』という願いと、同時に『誰もシラヌイには近づけない』というインクブルの願いが混ざり合った迷宮だ。

 その二つの願いは矛盾している。それを解決するために迷宮は、『誰も近づけない』という条件を『魔族はシラヌイに近づけない』という法則に組み替えた。

 代わりにインクブルや追手の魔人たちの亡霊から血の盟約を剥奪し、転移現象のフィルターにかからないようにした。

 これが第二の迷宮だ。


 シュティーア遺跡に迷い込んだものは、その二つの迷宮を交互に行き交うことになるのだ。


「では、あの森や町が終了する条件はなんだ。森は数時間も経たずに消滅したのに、廃墟の町は数日に渡って再現が続いていたぞ。テラノーンも消えずに残っていた」

「ねえリュドミラ、そのテラノーンとかいう魔人は最後まで生き残った?」

「いや、最後に騎士に殺された。――そうだな、その直後に世界が光に包まれて迷宮に戻った」

「ならやっぱりそれが『回帰』が終わる条件なんでしょうね。森もそうだった。五人目の魔人、バルブルが騎士に殺された直後に斧が光って迷宮に戻された」


 確かに、とリュドミラは深く息を吐いた。

 どちらの状況もリュドミラはよく覚えていた。バルブルが死に、テラノーンが死に、どちらもその直後に迷宮に戻されたのは間違いない。

 数日間全く動きのなかった廃虚の町が、テラノーンが死んだタイミングでいきなり迷宮に戻ったのだ。これを偶然とは思えなかった。


「一度迷宮に戻るのは、単なる準備時間なのかしら。そこはちょっと確信が持てないけど」

「神器が次の世界を構築するまでのか?」

「ええ。いくら神器とはいえ、世界を丸ごと作り出すんだから、それなりに時間がかかってもおかしくない。そんな具合に、迷宮と『回帰』の往復を繰り返し続けてるのね。そしておそらく、『回帰』から迷宮に戻るタイミング……その時点でシュティーア遺跡にいる人物が一緒に迷宮に取り込まれてしまうのよ」


「……ああ、おそらくそうだろう。ここにいるシェンフェルが探知魔法を使える。廃虚の町が終わる直前と、迷宮に戻った直後に探知魔法を使ったが、シェンフェルがお前たちの反応を捕えたのはそのタイミングだった」

 リュドミラの後ろで黙って話を聞いていたシェンフェルが、こくん、と一度頷いた。


 ルイスの調べでは、神隠しは連続では起こらないとなっていたが、その説明もつく。

 『回帰』が発動し、そこに登場する追手の魔人が死ぬまで神隠しは発生しないのだ。その間隔にバラつきがあるのもルイスが調べた通りだった。


「それが神隠しの正体か」

「そう。そして迷宮に迷い込んだ者たちを、インクブルが殺してるのね。誰もシラヌイに近づけないために」

「奴は……そんなことを繰り返し続けているのか? ……三○○年だぞ。三○○年間……ずっと迷宮を彷徨って……実在しない、神器が作り出した亡霊を殺し続けているのか?」

「マジ気が遠くなるっすね……そんなに長い間戦い続けてりゃ、そりゃ強いはずっすよ」


「しかも可哀想なのが、本物のインクブル自身は盟約を持っているせいで、彼はこの三○○年間、一度もシラヌイに会えてないんじゃないかしら」

「うわっ、最悪っすねそれ。何のために戦ってんすか」

「もちろん、シラヌイのためよ。彼女が死んで眠りにつくまで、彼は戦い続けるしかない」

「だがそのシラヌイは、神器の力によって延命している……」


「そうね。シラヌイは今も生きているはずよ。でなきゃ『回帰』が今も起こっているはずがないものね。彼女が生きている限り神器は稼働し続け、インクブルも戦い続ける。それが三○○年続いてるってことは、シラヌイは自分で死ぬこともできないんでしょうね。あるいは、生きてはいるけど仮死状態が続いてるのかも」

「だが誰かが殺してやることもできない。誰も本物のシラヌイには近づけないからな」

「そうして、この迷宮は三○○年もの間『回帰』を続けてるのね」


 悪辣な皮肉の連鎖が積み重なり、回り続ける虚構の世界。

 そんな回帰迷宮の亡霊と成り果てたインクブルを思い、ホークは沈鬱な表情を浮かべた。


 ホークはこの中で唯一、インクブルやシラヌイと数日間に渡って行動を共にしてきた。

 たとえそれが神器によって作り出された亡霊であろうとも、彼らは確かに意思を持っていた。


 妻を愛しているとインクブルは言った。

 夫と運命を共にするとシラヌイは言った。

 魔人と人間の夫婦など馬鹿馬鹿しい、と一度はホークも嘲笑ったが、彼らの想いは幻などではなかった。

 そう、決して幻などではない。インクブルのその誓いは今この瞬間も続いているのだから。


 たった一人愛した者のために、数百年の時を戦い続ける。

 その決意。その苦しみ。


 ……ホークには痛いほど理解できた。


「――どうすればこの迷宮は終わる」

 静かに、しかし確かな声音でホークが言った。

 迷宮から脱出するだけではなく、この迷宮そのものを終わらせたいという、ホークの思いが滲み出ていた。


「方法は二つ。インクブルを殺すか、シラヌイを殺すか。あるいは、『その両方』を入れて三つ。それで神器は持ち主を失って停止する。迷宮も消えるはずよ」

「シラヌイは、例の『空白地帯』にいるんすよね?」

「つまり……真っ向からあの騎士を倒すか、迷宮のゴールに辿り着くか、ということか」

「そうなるわね」


 リュドミラの言葉を肯定するパンダ。

 リュドミラはしばらく黙考を続ける。

 騎士が持つあの斧が本当に神器なのであれば、リュドミラはなんとしても迷宮を脱出する必要がある。

 そのためにはあの騎士を倒すか、迷宮を踏破するしかなく……どちらにおいてもパンダの協力は不可欠に思えた。


 リュドミラは迷路構造の迷宮に対する知識に疎く、パンダなしでは迷宮の最奥にいるシラヌイに辿り着くことはできないだろう。

 騎士……インクブルを倒すにしても、リュドミラではあの騎士に勝てないのは承知の事。だがインクブルが魔人であるならば、破魔の力を持つホークと協力すれば勝機はある。


「……」

 視線を動かすと、パンダがこちらを見て不敵な笑みを浮かべていた。

 リュドミラがどのような決断を下すのかはお見通しという顔だった。この少女の狙い通りに事を運ばせるのは癪だが、リュドミラには選択肢などなかった。


「答えは決まったかしら、リュドミラ?」

「……いいだろう。この迷宮を抜けるまでは停戦に同意する」

「オッケー。十分よ。……これで準備は整ったわね」


 パンダは周囲を見回す。

 この場に集った迷宮の生き残りは、総勢六名。そしてディミトリとミサキを入れれば八名だ。

 その手綱をパンダが握り、この迷宮の最終決戦に向け動き出した。



「行くわよ。――この迷宮を、攻略する」

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