第88話 お相手いたします


 突如としてセドガニアに現れたラトリアの姿は、ベアが記憶していた姿とは若干違っていた。

 まず一目見て変化が分かるのは彼女の頭髪。

 陽の光を受けて輝いていた砂金のように美しい金髪は、今では頭頂部から真っ白に変色し、毛先に残った僅かな金色のみがかつての名残だった。


 次に目つき。

 騎士として研ぎ澄まされつつも、内に秘めた優しさと気高さが窺えた眼差しは、あまりにも鋭く、かつ全く光を宿さない虚無の瞳へと変貌していた。


「……」

 そしてベアが何よりも目聡く見て取ったもの。

 ――それは、ラトリアの身体から放たれる魔の気配。


 魔王であるスノウビィに召喚されたドラゴン達は紛れもなく魔獣として顕現しているが、その群れの中にあってなお際立つ魔性のオーラ。

 魔人であるベアには分かった。

 あの騎士は……二日前のそれとは別人。


 ――ラトリアは、半魔人化している。


「ベアさん、あれってこの前の……ルドワイアの騎士?」

 戸惑っている様子のマリー。

 それは地上で奮戦していたバラディア軍兵士たちも同様で、ドラゴンに騎乗して向かってきているのがラトリアだと分かると、彼らも皆一様に困惑の表情を浮かべた。


 セドガニアの戦況を考えれば、ラトリアの帰還自体は喜ぶべきことだ。

 人類最高峰の戦力であるエルダーの助力を得られれば、この絶望的な状況も一気に打開できる可能性がある。


 ……ただ、それもラトリアがドラゴンに騎乗していなければの話。

 誰の目にも、ラトリアがドラゴンを操っているように見える。背にまたがるラトリアに対して、ドラゴンは何ら敵対する様子を見せない。


「――」

 やがてベアとマリー、そしてバラディア軍が戦闘を繰り広げている付近上空まで接近したラトリアが、軽く右手を上げる。


 ――直後、その場にいる誰もが言葉を失った。


 ラトリアの頭上に、一本の剣が出現したのだ。

 独特の刺々しいフォルムは見るからに一品もの。名工が手掛けたと思わせる見事な造形は、それだけで名剣と確信させる。

 が、何よりも彼らの目を疑わせたもの……それは、その剣の『大きさ』だった。


 ――ラトリアの頭上に現れた剣は……全長五〇メートルにもなる、あまりにも巨大すぎるサイズだった。


「なんだ……あれ」

 兵士の一人が呆然と呟く。

 剣と呼ぶにはあまりにも馬鹿げた巨大さ。柄は人の腕よりも太く、到底握って振れるものではない。

 事実、ラトリアはその剣を握ってはいなかった。剣はラトリアの頭上に突如現れ、そしてそのまま宙に浮遊していた。


 ――そしてその切っ先は、真っ直ぐにマリーに向けられていた。


「……え?」

 自分が狙われている、とマリーが直観したときには、既にマリーは何者かに突き飛ばされていた。


 突き飛ばしたのはベアだった。

 誰もが困惑し動きを止めたこの空白の時間……ベアだけは唯一冷静に動くことができた。


 ――ラトリアの巨大な剣がされた。


 弾丸さながらの速度で放たれた剣は、一瞬前までマリーがいた座標を突き抜けた。

 ベアによって突き飛ばされたマリーはその脅威から逃れることができたが、代わりにベアが剣の直撃を受ける。


 凄まじい轟音と共に剣が地面に激突した。直線上に存在した数体のドラゴンをも飲み込みながら、激突した地面が激震する。

 巨大すぎる剣は、その見た目通りの質量を有していたようだ。そんな大質量の物体が高速で地面に激突すれば、その破壊力は計り知れない。


 直撃した地面が一気にめくれ上がり、地面には巨大な亀裂が発生。

 激突時の衝撃波で周囲の建物が吹き飛ばされ、近くにいたバラディア軍兵士がそれに巻き込まれて瓦礫に呑まれて消えた。


 破壊され尽くした爆心地の中央に聳え立つ巨大な剣。

 現実味を感じさせない光景に誰もが言葉を失っていた。


「べ、ベアさん……!?」

「無事です」


 あんな威力の一撃を直撃してしまったのでは、と心配したマリーに、ベアの平坦な声が答えた。

 声は上空から。マリーが見上げると、上空からベアが軽やかに落下してきた。

 剣に直撃したかに見えたベアだったが、その並外れた運動能力で剣を蹴り上げ上空へと逃げ延びていたようだ。


 落下してきたベアはそのまま、地面に突き刺さった巨大な剣の鍔に降り立った。

 そして、ベアは足元の剣をじろりと確認した。


「……グラントゥイグ」


 その剣の名を口にしながら……ベアは珍しく、目に見えて不機嫌そうな表情を浮かべた。


「これは……フルーレ様の剣ですよ」


 持ち主の力に応じて大きさと威力が変動する魔剣。それがこの『グラントゥイグ』という剣だ。

 数百年前に人間の鍛冶師によって造られ、その後様々な者の手を渡り、最終的には四代目魔王フルーレが所有するに至った。

 今は魔王城の宝物庫に保管されているはずのこの剣を、何故ラトリアが操っているのか。


 ……答えは一つしかなかった。

 そもそも、魔王城の宝物庫を管理できる者は一人しかいないのだ。


「……スノウビィ。あろうことかフルーレ様の宝物を、無断で人間ごときに下賜するとは」


 フルーレからその力を奪い、魔王という地位を奪っただけでは飽き足らず、彼女の私物まで無断で持ち出し、人間ごときに譲った……?

 許しがたい無法だ。

 こんな暴挙は、フルーレへの侮辱も甚だしい。


「ッ、ベアさん、後ろ!」

 グラントゥイグの一撃で若干四方に散っていたドラゴンが再び行動を開始した。

 剣の上で佇む無防備なベアを背後から襲う一体のドラゴン。


 そのドラゴンに見舞われたベアの裏拳は、彼女の怒りを表現するかのように強烈だった。

 今までのどんな攻撃よりも重く鋭い一撃は、ドラゴンの巨体をセドガニアの町の外まで吹き飛ばした。


「マリーさん」

「は、はひ……」


 怒気を露わにしたベアは、味方であるはずのマリーですら思わず一歩引いてしまうほどの威圧感があった。


「周囲のドラゴンの相手はお任せします。私はあのエルダーを粛清します。彼女の相手ができるのは私だけのようですので」

「う、うん。分かった」


 これだけの数のドラゴンを相手にマリーがやり合えていたのは、その大部分をベアが受け持っていたからだ。

 そのほとんどをマリーに丸投げするのはかなり危険な采配だが、仕方ない。


 今のラトリアを相手にすれば、マリーはひとたまりもない。彼女を倒せるとすればベアだけだ。

 ……そしてドラゴンを味方につけたラトリアは、ベアを以てしても容易い相手ではない。


「では、ご武運を」

 そう言い残し、ベアは大きく跳躍した。

 ドラゴンの背に乗り上空に陣取るラトリアに攻撃するには、とにかく接近する必要がある。


「――」

 ラトリアはスノウビィの命令でブラッディ・リーチ殺害を目的としているが、彼女はまず倒すべき相手はグレイベアだと判断した。

 この魔人を差し置いてマリーを攻撃する余裕はない。

 逆にグレイベアさえ倒せれば、むしろマリーの殺害はドラゴンに任せてもいい。

 マリー一人ではこの数のドラゴンに対処できるはずがない。


 地面に刺さっていたグラントゥイグが一瞬で消えた。

 幻のように掻き消えた魔剣は、再びラトリアの頭上に現れた。


 この剣は『形のない剣』だ。その大きさは、先程のような五〇メートル大から短剣ほどまで、様々なサイズに変えられる。

 かつ、ツインバベルの実験の触媒に利用されたことで、従来とは違う使い方ができるようになった。


 ――グラントゥイグは今やラトリアに完全に吸収されている。


 冥府の魂の吸収に伴ってグラントゥイグそのものがラトリアに吸収されたことによって、出現も消滅もラトリアの思いのまま。『形のない剣』は、今はその在り方すら魔力的なものとなっていた。

 ――そしてそれが魔力体であるならば、黒魔導士のように撃ち飛ばすことも可能だ。


 再び射出されたグラントゥイグは、今度は確かにベアを狙っていた。

「――」

 足場のない空中で身動きの取れないベアへの正確な一射。しかしこの程度はベアも想定済み。

 。ベアは襲い掛かってきたドラゴンを蹴り上げ更に跳躍する。


 ベアを外したグラントゥイグが再び地面に激突する。

 爆撃に晒される地上部隊に多大な被害を出すが、ラトリアは気にする素振りもみせない。

 グラントゥイグの姿が消え、再びラトリアの頭上に出現。上空を飛び跳ねるベアを再度狙い撃つ。


 ベアは次々と撃ち出されるグラントゥイグの砲撃を軽やかに回避し続けた。

 周囲には数千ものドラゴンがひしめき合っている。彼らはベアに食らいつこうと、自分から近づいてきてくれる。

 そのうねりは巨大な竜巻のようにベアを取り囲んでおり、ベアの周囲には常にドラゴンが張り付いている状態だ。


 それを蹴り上げて跳び続けるベアはまさに非常識としか言いようがない。常人の発想からかけ離れていた。


「――」

 ラトリアが自身の騎乗するドラゴンの背をブーツで軽く小突く。

 それでラトリアの意図を察したのか、ドラゴンが高度を上げる。

 本能のままにベアを襲う他のドラゴンとは全く異質な行動……やはりラトリアはドラゴンを支配下においているようだ。


 ラトリアもまた、明らかに戦術を編んでいる。本能に任せて暴れ狂うだけのドラゴンとは訳が違う。

 その戦闘能力は数日前に遭遇した時と同じ……いやそれ以上だろう。


「……小賢しい」

 ドラゴンを足場にして宙を舞うベアが、ラトリアの戦法に憤る。

 攻撃手段が格闘戦しかないベアに対して、制空権を支配するラトリアは計り知れないアドバンテージを有している。

 上空からグラントゥイグで狙撃を繰り返すだけで、理論上はベアを封殺できる。


 ――無論、そんなことを許すベアではない。


「――ハッ!」

 襲い掛かってきたドラゴンの腹を殴り飛ばす。

 吹き飛ばされたドラゴンが砲弾となってラトリアに向かっていく。直撃すれば、倒せないまでも騎乗しているドラゴンは飛行能力を失いラトリアは落下するしかない。


「――」

 そんなベアの戦法こそ小賢しいと、上空からグラントゥイグが降りかかる。

 ラトリアの前方に垂直落下してきたグラントゥイグは、撃ち飛ばされてきたドラゴンを上空から串刺しにして地面に叩きつけた。


 この程度の攻撃でラトリアを撃ち落とせると考えているのなら浅はか過ぎる。

 迎撃手段はいくらでもある。

 ラトリアの前方に突き刺さっていたグラントゥイグを消し、次弾に備える。


 ――その直後、五体のドラゴンがラトリアに迫ってきた。


「――ッ」

 前方に展開したグラントゥイグのせいで一瞬視界を奪われたラトリア。

 その一瞬の間に、ベアは周囲のドラゴンを手当たり次第に殴り飛ばしてきた。


 巨大化したグラントゥイグは強力な一撃だが、取り回しがきかない。

 連続的に襲い来るドラゴンを一度に対処するのは不可能だ。


 ラトリアを乗せたドラゴンが飛翔する。

 迫りくるドラゴンを回避しようとするが、その移動先にもベアは休むことなくドラゴンを殴り飛ばしてくる。


「――」

 ラトリアが背の大太刀を抜き払い、構える。

 一斬。振りぬかれた大太刀の斬撃が迫りくるドラゴンを一刀両断する。

 その動作と合わせてグラントゥイグを射出。ラトリアの意思だけで操作できるグラントゥイグは、大太刀で自身を防御しながらの攻撃を可能とした。


 ドラゴンが飛行速度を上げる。それだけベアはラトリアを狙いづらくなるはずだが、その程度の足掻きは誤差にも等しい。

 ベアはドラゴンを足場にして空を駆けのぼり続ける。

 何十体のドラゴンに一斉に飛び掛かられようとベアが捕まることはない。華麗な回避と同時に攻撃を繰り出し、吹き飛ばされたドラゴンの砲弾が絶え間なくラトリアを襲う。


 ラトリアを乗せたドラゴンがどれだけベアから離れようと関係ない。周囲にはドラゴンが満ちている。どこであろうと移動できない場所はない。


「――」

 この状況であっても互角に渡り合われているという事実が、洗脳によって自我を封じられたラトリアの心を、それでも刺激した。

 ……強い。

 森で戦ったときにも底知れない相手だと感じたが、今度ばかりは出鱈目に過ぎる。


 ラトリアは直観する。

 スノウビィによって強制的にレベルを上昇させられた今の自分でも……まだグレイベアには届いていない。


「……」

 一方でベアもラトリアの力に少なからず動揺を覚えていた。

 森で戦ったときとは別人。新たな武器を手に入れたことで戦法も変わったようだが、それ以上に、明らかに戦闘能力が上昇している。

 言ってしまえば、レベルが上昇しているように見える。


 その理由を知る由もないが、今のラトリアはグレイベアを以てして全力で応戦するに値する相手だ。

 それでなくとも無限のドラゴンの大群を従える彼女はとてつもない脅威。


「いいでしょう」

 陽の落ちた空の上で、二人の視線が交差する。

 鋭く研ぎ澄まされた眼光は、互いに必殺の一念を宿していた。


「――お相手いたします」


 ベアが一層高く跳躍。

 それを受けるグラントゥイグの一撃が激しく大気を震わせた。






「……なんだと?」

 セドガニア基地の作戦室内で、バロウンは眉をひそめた。

「……もう一度……報告してくれ」

「は、はい!」


 通信手は再度同じ報告を行った。

「ラトリア・ゴード殿と思しき人物がドラゴンに騎乗してセドガニアに出現。灰色の魔人と交戦中……とのことです」

 バロウンは重苦しく押し黙り……傍らで待機していたシィムは唖然とした顔で目を見開いていた。


「……本当にゴード殿なのか?」

「はい。間違いなくラトリア・ゴード殿とのことです」

「北西の魔力反応はどうなっている?」

「依然変わらず。動きはありません」

 占星術師が応える。ラトリアの任務は召喚魔法を停止させることだったはずだが、現在も変わらずドラゴンは召喚され続けているようだ。


 なのに何故ラトリアが町に戻ってきたのか。

 ……いや、それ自体は最悪、無視しても構わない問題だ。

 それがどんな事情であれ、ラトリアの判断に基づく行動であれば許容できる。


 召喚魔法まで辿り着けなかった。

 あるいは停止する手段がなかった。

 ……仮に敵に敗北し撤退してきたのだとしても、バロウンにはラトリアを責める気はなかった。

 それ自体は頭を抱えたくなるような絶望的な結果ではあるが、逆に考えれば町の防衛力が格段に上昇したとも言える。ラトリアが戦死するよりはよほどマシだ。


 召喚魔法の停止は諦め、後続のエルダー部隊の到着まで防衛戦を続け、改めて召喚魔法攻略作戦を開始する……最善策ではないが、そんな作戦も取れる。


 ――だが、その報告内容にはどうしても見過ごせない情報があった。


「……ドラゴンに騎乗している……というのはどういうことだ」

「詳細は不明です。……しかし、観測手によると……まるでラトリア・ゴード殿がドラゴンを操っているように見える、と……」

「……」


 視界に入った人間を無差別に襲うドラゴン達が、何故ラトリアを襲わないのか。

 ラトリアがドラゴンを操っているとはどういうことか。


「……」

 僅か数時間の間に、理解不能な出来事が連続して起こりすぎている。

 擦り切れそうになる頭をバロウンは懸命に働かせた。


「ゴード殿が……敵の手に落ちた……?」

「そんなこと有り得ません!」


 そう叫んだのはシィムだった。

「隊長が……ラトリア隊長がそんなこと……あるはずない!」

「……」

 そんなことを言われてもバロウンにはもう判断がつかない。

 全てにおいて情報が不足しすぎている。


「戦闘中とのことだったが、なんとかしてゴード殿に接触できないか? なんでもいいから状況を説明してほしい」

「……ラトリア・ゴード殿は灰色の魔人と戦闘中ですが、80レベルを超える二人の戦闘はあまりにも苛烈で、接近することすら困難とのことです」

「……現場の被害は?」

「甚大です。灰色の魔人の戦闘力は凄まじく、ほぼ全てのドラゴンの対処を一手に担っていたようです。だからこそ戦況は拮抗していましたが、灰色の魔人がラトリア・ゴード殿との戦闘に移行してからは……ドラゴンの対処が追い付いていません」

「……」


 当然そうなる。

 バロウンはセドガニアの全戦力での攻勢を命じたが、それは規格外の力を持つ灰色の魔人の戦闘力をアテにしてのものだった。

 それが失われた今、均衡が崩れるのは必然。


 バロウンが采配を誤ったというよりも、拮抗していた戦力差が、ラトリアという強大な戦力の投入により一気に傾いたという方が正確だ。


「……くそ」

 なぜこうも作戦が裏目に出る。

 まるで誰かの掌の上で踊らされているような感覚にバロウンは唇を噛む。


 なんとかしなければならない。

 全兵士に戦闘を命じた以上もう後戻りはできない。ここで判断を誤れば、今度こそセドガニアは壊滅する。


「……さっき、言ったな?」

「……は?」

「私はさっき、言った……セドガニアの敵は、召喚士だと」


 兵士に語り掛けるというよりは、自身に言い聞かせるようにバロウンは呟いた。

 自分のすべきこと……正しいと思える選択をするために。


「人も魔人も関係ない。ドラゴンが敵であり、ドラゴンと戦う者が味方だ。そして……ゴード殿はドラゴンを操っている」

「ま、待ってください!」

 背後から駆け寄ってきたシィムがバロウンの肩を掴んで振り向かせる。


「まさか……ら、ラトリア隊長を攻撃する気ですか!? 魔人を助けるために!?」

「……今、灰色の魔人の戦闘力を失うわけにはいきません。……いえ、既に半ば失われている。ゴード殿との戦闘に力を割く分だけセドガニアの防衛力は激減してしまう。この状況が続けば、迎撃部隊は一時間もせずに全滅します」

「きっと何か事情があるはずです! ラトリア隊長がセドガニアを襲うわけがありません!」

「グラッセル殿!」


 今度はバロウンがシィムの肩を掴んで強くゆすった。

「我々にはもう後がない! 我々は今……ともすれば人類存亡の瀬戸際に立っているんです!」

「……」

「誰が見たって、ゴード殿の行動は異常だ。普通に考えて、ドラゴンと交戦中の者をわざわざ襲うわけがない。貴女の言う通り、きっと何か事情がある。それは私にもわかる」

「……」

「だが、どんな事情があるにせよ……それはきっと我々の望むものではない。我々は、を倒さなければならない」


 バロウンはこの非常時であってもシィムを突き放さずになんとか説得しようと努めていた。

 その気遣いが、この急場において私情を挟もうとしているシィムの心を揺さぶる。

 だがこれだけはどうしてもシィムも譲れない。


 ラトリアの気高き精神を慕い憧れたシィムは、ラトリアが被った汚名がそそがれる日を待ち続けてきた。

 彼女こそ騎士の鑑。人類の守護者に相応しい者だと証明したかった。


 そんなラトリアを……人類の敵にしていいわけがない。


「――私が行きます」

「な、なに?」

「私がラトリア隊長に接触し、事情を聞きだします」

「む――無茶だ! 彼女は今80レベルオーバーの魔人と戦闘中なんだぞ! しかもその周囲には無数のドラゴンがひしめき合っている。そんなところに飛び込んで悠長に話などできるわけがない!」

「行かせてください! これは隊長の部下である私の使命なんです!」


 シィムは装着していた通信魔石を取り外してテーブルに置いた。

 それはルドワイア帝国との通信用に装備していたものだ。シィムにもしものことがあった場合、この作戦室内の誰かがルドワイアとの連絡を取らなくてはならない。


「ろくに引き継ぎもせずに任務を放棄することをお許しください。処罰は後ほど、いかようにでもお受けいたします。……ですから、どうか。どうかあと少しだけ、私に時間をください!」


 そう言い残してシィムは駆け出した。

 バロウンが呼び止める声にも立ち止まらず、そのまま作戦室を飛び出し、やがてその足音も聞こえなくなった。


「クソッ!」

 不測の事態が続く状況にバロウンが苛立ち任せに吠える。

 だが彼の試練はまだ終わらなかった。


「バロウン殿……戦闘中の部隊から、ラトリア・ゴード殿への対応を指示してほしいとの通信が多数届いています。……いかがいたしますか」

「……」


 そう。今ラトリアの登場に最も困惑しているのは現場だ。

 彼らは乏しい戦力でドラゴンに抗いながら、ラトリアと灰色の魔人……そのどちらを支援すべきか判断できないはずだ。

 その指示が一秒遅れるごとに兵が死んでいく。現場はそんな状況なのだ。


「シィム・グラッセル殿の報告を……待ちますか?」

「……いや、そんな余裕はない」

「――ッ! で、では……!」

「……恨むなよ、グラッセル殿」


 最後の迷いを振り払い、バロウンは決心した。

 今セドガニアが戦うべき『敵』は誰かを。



「部隊に伝えろ。――現時点より、ラトリア・ゴードを敵性勢力と断定。灰色の魔人を援護し、ラトリア・ゴードを撃破しろ!」

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