第13話 罪の呪い

 ――別に、大したことではなかったと思う。

 この世界では、似たような目に遭っている人は少なくないはずだ。

 そもそも、私はそのときのことをほとんど覚えていない。

 物心ついたばかりの頃だった。ありふれた平民の両親のもとに生まれた私は、ごく普通に育てられていたような気がする。少なくとも暴力は受けなかった。

 けれど、構ってもらえることもほとんどなかった。

 ただ食事だけを渡されて、後は子供にもできる手作業か何かの指示をされて、頑張ってやった。仕事をこなば、構ってもらえた。

 ちゃんとやれば、声をかけてくれた。それだけで十分だった。

 私は幸せだった。

 もはや両親の顔すら鮮明には思い出せないけれど。

 当時の私には、他の何よりも大切な二人だった。

 彼ら以外の誰とも関わったこともなかったから。それだけで十分だった。

 そんなある日、両親が死んだ。

 大した事件性もなかった。間違って貧民街の方に迷い込んだ二人が、身ぐるみはがされて殺された。それだけの事件。

 この世界では、この国では、この街では、毎日のように繰り返されるありふれたことだった。だから私のところに両親は帰ってこなかった。

 後日、私は住んでいた家を追い出され、両親の亡骸を見せられた。

 私はそれを見て、哀しい、と思った。

 血の繋がった両親に対して、その程度の感情しか抱けないことが何よりも嫌だと思って、そんな自分の性根を何よりも恨んだ。

 ――嫌いだった。

 本当は、何もかもが嫌いだった。

 優しくしてくれない両親も、誰一人関わろうとしない街の人々も、残酷なこの世界も、そんなふうに思ってしまう愚かな私も。


 だから世界を呪ったのだ。


 憎しみを詠ったのだ。

 この世界に呪いあれ、と。こんな世界に災いあれ、と。

 世界の広さなんてまるで知らない愚かでちっぽけな子供が世界を憎み、恨み、呪った。

 もう少しだけ、いっしょにいてほしかった。

 そういう未来を夢見て、それが叶わない世界を呪った。

 それだけの、どこにでもありふれた、よくある日常だった。

 ただ一つ違う点があったとすれば。

 私には常軌を逸するほどの呪術の才能があった。

 ――それこそ、《呪いあれ》と心の底から願っただけで、禁忌とされたそれが発動してしまうほどに。

 そのとき、私はやっと気づいた。

 そんなこと、最初から分かっていてもいいはずだったのに、私は愚かだからぜんぜん気づくことができなかった。


 ああそうか、私は、生まれてきてはいけない人間だったのだ――と。



 喫茶店めんやの外。

 入り口を出て裏手に回り込むと、店員が休憩の際に使う長いベンチと、木々に囲まれた小さなスペースが存在する。

 俺はベンチの端に腰掛け、対する魔女は逆側の端にちょこんと座った。


「――それで、いったい何なの? どうして、わざわざ話を遮ってまで私を呼び出したのかしら。……昨日のことを話したいのなら、もう少し自然に呼び出せないのかしら?」


 魔女はそう言って、フンと鼻を鳴らす。

 相変わらず俺の前でだけは強気なヤツだった。

 比奈たちがいると借りてきた猫みたいになるのに。


「……あー、悪いな。気が回らなかった」


 俺はひとまず、そんな風に謝る。

 自分でも驚くほど平坦な声だった。

 それを聞いた魔女の瞳が怪訝そうに細まる。


「何? ……まさか昨日、図星を突かれたせいで苛々しているの?」

「そうじゃない」


 首を振る。

 確かに昨日の言葉は……図星だったのかもしれない。

 が、それは今の複雑な気持ちに影響しているのかと言われると、たぶん違うんじゃないかと思う。


「まあ、昨日のお前の言いぐさを聞いて、俺も少し考えたんだけどな」


 だから、俺は言った。


「――お前、


 結局、魔女に言いたいことなんて最初からこれしかなかった。

 気に入らないのだ。

 呪いに侵された魔女と卑下し、自分の命を軽く扱うその精神が。


「何を……言っているの?」

「流石に、いくら何でもおかしいなとは思ってたんだよ」


 魔女は確かにポンコツで、コミュ力もないダメ人間だ。

 でも――俺の知っている前世では、彼女はここまでコミュニケーションが取れないわけではなかった。

 俺以外の相手でも、会話を成立させることぐらいは可能だったはずだ。

 そもそも前世における魔女は、今のように笑って誤魔化したり、ぺこぺこと安易に頭を下げるようなヤツではなかった。

 無愛想で素っ気ないけれど、優しい言葉を言えるヤツだったはずだ。

 たとえ相手が魔女に憎しみしか持っていなかったとしても。

 俺はこの変化を、単に記憶が戻る前の性格の影響か、と安易に考えていた。

 だが、そもそも性格は年月の積み重ねで変化するとはいえ、前世で過ごした年月の方が圧倒的に長い。

 ゆえに魔女の性格は、ほとんどが前世の経験を基に形成されているはずなのだ。

 そもそも俺の前でだけ本性を晒している時点で、それは明白だった。


「どう考えたって気を遣いすぎだろ。無理してるようにしか見えない」

「何で、そんなこと急に……」

「できるだけ、誰かを不快な気持ちにさせないように。自分の存在が、なるべく他者に影響をもたらさないように。誰も、自分に関わらなくなるように」


 ――呪われた魔女に、誰もが近づかなくなるように。


「だから仮面をつけてるんだろ。本当は誰かと関わりたいくせに、自分からは人と話さないように意識している」

「そんなことは……」

「けれど、自分が理由で相手を不快な気持ちにさせたいとおも思っていない。お前は優しいヤツだから。悪口を言って突き放すような真似ができない」

「……私は、優しくなんてない。貴方に、私の何が分かるというの?」

「――よく言う」


 しばしの無言があった。


「……お前は、今世で生まれ変わった。もう前世での罪を気にする必要なんてないだろう。自分の気持ちに、素直になればいい」


 魔女はスッと立ち上がると、てくてくと無言のまま数歩、足を進める。

 そうして俺の正面で足を止め、小首を傾げた。


「――私は、《魔女》よ?」


 妖しい微笑を浮かべながら――告げる。


「周囲に、呪いを振り撒く存在。周りにいる人間を、不幸にしてしまう存在。本来なら、ここにいることすら許されない。生まれ変わるなんて事態が許されるべき存在ではない。生きていることすらすら傲慢に過ぎる。そんな私が他者と関わるなんて、できる限り避けなければならない」


 魔女は――前世から何も変わっていない。

 こいつは相も変わらず、罪という見えない呪いにまで縛られている。

 そう感じた瞬間だった。


「そうは思っていても、私は不器用だから気を遣わせてしまう。存在を意識されてしまう。……私という最悪の存在に、わざわざ言葉を投げかけさせてしまう。それが私には許せない。何より、それを嬉しいと感じてしまう私自身・・・・・・・・・・・・・・・・が、私には許せない」


 魔女は語る。

 これまで俺があまり触れようとしなかった部分に、踏み込んでいく。


「でも――。生きていてはいけないのに。私が死ねば今度こそ、私の魂を縛る莫大な呪いを解放することになってしまうから」

「……」

「貴方には、あまり教えていなかったわね」


 魔女の顔を見る。

 そこには前世の面影が少しだけ残っているように見えた。


「私がこの世界に転生した理由は、自分自身の魂にそういう呪いをかけたから」

「……そうしないと、あの世界が滅んでしまうから」

「そう。私が転生した理由は、あのまま死んでいたとしたら、この身に縛られていた莫大な呪いが解放され、世界を怪物が埋め尽くしてしまうから」


 魔術や聖術は、術者の死後は効果を発揮しない。当然である。使う者が死んでいるのだから、発動などできるはずがない。

 だが、何事にも例外は存在する。

 それは魔術の中でも、呪術に分類される特異な分野。

 あの世界でも使う者などほとんどいなかった全滅寸前の技術体系。

 せいぜい魔女を含めて数人いればいいところだろう。

 その呪術――呪いを操るそれは、術者の死後にこそ、何よりも力を発揮する。

 呪いとはそういうものだ。

 ただでさえ呪いは術者の死によって強化されるというのに、さらに魔女ほど尋常ではない量の呪いを貯めこんでいた場合――世界はどうなるか。


 人を呪わば、穴二つ。


 かつて世界を呪った、呪うことに成功してしまった魔女は、その代償として莫大な呪いをその身に背負っている。

 ――だから。

 魔女は、あのまま死ぬわけにはいかなかった。


「そもそも、呪いというのは他者に災いや不幸をもたらすもののこと。ただでさえ私一人を縛っているのに無理がある状態だったのだから……そうなって当然なのよ」


 俺の考えが足りていなかったのだ。

 実際に魔女が世界にまき散らした呪いはすべた祓い、それによって生まれた怪物はすべて殺した。だから俺は、世界を救った英雄と呼ばれていた。

 実際には、世界の危機を隣にいた少女だけが背負っていたというのに。


「そういう事情でもなければ、転生しようだなんて普通は考えないでしょう? 別に、二回も人生なんてものを歩みたいとは思っていなかった。少なくとも私は」

「……俺は」

「貴方が責任を感じる必要はない。これは、私が勝手に隠していただけ。貴方の剣は、私の呪いを斬り祓う。そういうふうにつくられているから。それこそが《英雄作成計画》において最も重要視された能力だから……だから、怪物を斬り、各地の濃度が高い呪いを祓って回った貴方の行動は、確かに世界の人々を救っていた。――貴方の剣で、私を殺さなかったこと以外は」

「俺は、お前を助けたかった」


 空虚な言葉だと思った。

 魔女が隠していたことを何一つ気づけないで。


「嘘よ」

「そんなこと、ない」

「――だったら、どうして私を殺さなかったの!?」


 魔女は叫ぶように言った。

 顔を歪めて放たれた切実な叫びだった。

 ひどく取り乱していた。


「あのとき貴方が私を殺していれば、それだけですべては解決だったのに」


 ――前世において。

 呪いに汚染された魔力は瘴気となり、瘴気は怪物という人類にあだなす異形の存在を生み出す。

 だから世界を呪いにかけることにより、怪物を大量に発生させる魔女がいた。

 その魔女は強かった。

 世界の国々を脅かす怪物の元凶を絶つために、さまざまな強者が挑んでは敗れていった。

 人間たちが住む国々は『英雄作成計画』を立案、実行し、やがて俺という最強の存在が生み出された。

 魔女を討伐する目的で作り出された俺に求められたのは、魔女の討伐よりも先に『英雄としての振る舞い』だった。


「お前は他者に救いを与える英雄である」

「その力を振るう目的を間違えるな」


 ――そんなふうに言われ続け、それに疑いは持たなかった。

 そして俺は各地で強大な魔獣との戦いを繰り広げ、助けを求めてきた人間たちを救い、感謝を受け、期待を背に背負いながら、魔女との決戦に挑んだ。

 七日七晩に渡る死闘を繰り広げて――最後に立っていたのは俺だった。

 この巨悪を倒せば、呪いを祓う性質を持つ俺の剣で殺せば、世界には平和が訪れる。

 魔獣が生まれることのない、誰もが幸せな世界がやってくる。

 ――けれど、そこに魔女の居場所はない。


『殺して……』

 

 倒れ伏す魔女の姿を見て、


『貴方に殺されるのなら、私も安心だから。これ以上ないくらいに、安堵できる』


 涙を流すちっぽけな女の子の姿を見て、


『私には、抱えきれないほどの幸せだよ』


 この少女は倒すべき巨悪などではないと判断し、俺は命を救った。

 どれだけ魔女に恨み言を言われようと、もう譲る気はなかった。

 世界中の人々を敵に回して、憎悪の火に追い詰められ無惨な死を遂げようとする場面で、これが自分には望めないほどの幸せだと言う少女の姿なんて見たくもなかった。そんな少女に手を下すのは、絶対に英雄のやることではないと思った。

 それが正義だと、英雄のなすべき正しいことだとは信じられなかった。


『お前は……』


 俺は尋ねる。

 これまでは災厄としてしか、巨悪としてしか認識していなかった相手に、初めて目を向ける。目を合わせる。


『どうして、世界を呪ったんだ?』


 それが発端。

 すべての始まり。

 世界の各地に呪いが刻まれ、人々の生活を脅かす魔獣が出現するようになった根本的な原因。魔女が世界に憎まれた理由そのもの。

 彼女が《人間》であるなら、行動には理由があるはずだから。

 魔女は言った。

 少しだけ、辛そうな顔をしながら。


 ――小さな女の子が夢見た、少しだけ幸せな未来の話をしたのだ。


『そんな……』


 世界のすべてが裏返ったような感覚だった。

 俺の信じていたものがすべて手の中から零れ落ちていくような気がした。

 こんなものの何が《英雄》だというのか。

 分からなかった。俺には何も分からない。

 少女を殺そうと必死になって追い回した者のどこが英雄だというのか。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

 寄ってたかって一人の少女を追い詰める、そんな冷たくて救いようのない残酷な世界に、本当に救う価値があるのか。

 そもそも《救う》とは何だ。

 そんな曖昧なものに頼ってどうする。

 だが、そういうふうに育てられたのだ。

 それしか手段を知らないのだ。

 俺は無力で、無知で、救いがたい。

 それでも理想を求めて足掻きたかった。

 そういう夢を見たかった。


『どうして……泣いてるの?』


 魔女は綺麗な銀髪を揺らして、尋ねてくる。

 口元から血の滴が零れる。

 満身創痍だった。苦しそうだった。辛そうだった。

 今にも意識を失ってしまいそうだった。

 でも、はかなげな微笑を浮かべていた。

 俺の顔を見て、本当に不思議そうにしていた。

 憎しみ以外で、誰とも関わったことがないから、分からないのだろう。

 魔女の笑顔がどうしようもなく哀しかった。

 雨が降った。冷たい雨だった。

 どこか自分と重なって見えた。

 けれど少女は不思議そうだった。本当に、本心を告げただけで、他意などありはしないのだろう。だから視界はぼやけて、霞んで見えた。

 彼女がどれほどの地獄を歩んできたのか、どれほど陰惨な光景を見てきたのか、俺には想像すらできなかった。

 それを少女が地獄だと認識できていないことが、何よりも残酷な現実だった。

 どうしようもなかった。

 暴力性しか宿さない英雄が魔女にしてやれることなんて何もない。

 そのはずだった。


『俺が、お前を助けてみせる』


 ――それでもただ、この少女にありふれた幸せの光景を見せてやりたいと思った。それが俺の抱いた初めての『感情』だった。

 ――それが英雄による魔女への呪いだった。

 結局、俺はそれをなす前に、魔女の誘惑に負けた大罪人として処刑されたけれど。


「英雄は善を救い、悪を倒す。だがお前は悪じゃなかった。だから殺さなかった」


 それは英雄の行動原理と矛盾するはずだから。

 求められた役割とは異なるはずだから。


「私は……世界を呪って! 怪物によってあれだけの死者を生み出して、人々を苦しめ、世界を恐怖に陥れた! こんな私が悪じゃないと、貴方はそう言うの!?」

「だったら何で……お前は俺に殺されそうになったとき、あんなふうに笑ったんだよ……!?」

「それは……だから、たとえ自分の死後であろうと、滅びゆく未来を受け入れるわけにはいかなかったから! 私のせいで、世界を滅ぼすわけにはいかなかったから!」

「――そういうふうに考える時点で、お前は絶対に悪人なんかじゃないんだよ」


 魔女はそこまで言って、僅かに笑みを浮かべた。

 儚く、今にも壊れそうな笑みを。


「結果的に私が滅ぼすべき巨悪になっていることに変わりはない。私の性根がどうこうなんて関係ないのよ」

「そんなことはない!」

「あるのよ! 私のせいで、私の呪いのせいで、たくさんの人が死んだ! そこは何も変わらないんだから!」

「だとしても、それは前世の話だ。今じゃない。過去の罪に囚われすぎなんだよ……!」

「――私は、生まれてきてはいけない人間だった!!」


 魔女は叫ぶ。

 瞳から涙がこぼれた。

 そんなふうに思い込む魔女に少しでも幸せを与えたくて、俺は彼女の命を助けたはずだった。

 けれど、まだ何も変えることができずにいた。


「ふざけるなよ。そんな人間がいるはずないんだ……!」


 仮にそんな人間がいたとして、そこから、その地獄から引きずりあげるのが英雄のなすべき役割のはずだ。

 それが絶対に正しいはずだから。


「……あのとき、お前は言ったな。世界を呪った代償として、私の魂には重い呪いがこびりついていて、その呪詛は自然と周囲に振り撒かれ、やがて汚染された魔力から魔獣が発生してしまう、と」

「……ええ、その言葉に間違いはない。この世界には汚染される魔力そのものが少ないから、魔獣が発生したりはしないけれど。私がそういう世界を選んだもの」


 だから呪われた世界は瘴気が多くなり、魔獣が異常発生し、魔女の住処に近づくほどに数を増していったのだ。


「それでも知らず知らずのうちに周囲に悪影響を出してしまうかもしれない。だから私は貴方のところに来た。まだ呪いを祓う性質は持っているみたいだったから。少しずつでも呪いを祓ってくれれば、もしかすると呪いが完全になくなる日も来るかもしれない」

「そんな日が来れば……」

「ええ。私もようやく、私が殺したすべての人に対して、死を以て償うことができる」

「そんなのは、間違ってる……」


 だいたい、魔女はこんな程度の振る舞いで、本当に自分が周囲に構われなくなると思っているのだろうか。

 一瞬そう思ったが、おそらくそうなのだろうと納得をした。

 してしまった・・・・・・

 魔女はそもそも、世界の呪いを引き受けてから、世界中の人々の憎悪の対象だった。

 彼女には、他者に愛されるという経験がほとんどない。

 だから、この程度で嫌われるものだと思い込んでしまっている。

 ただ人と関わろうとしないだけで、自分は誰かに憎まれるものだと思っている。


「……俺は、お前を助けてやりたい。幸せにしたいんだ」


 絞り出すように呟く。

 すると魔女は、俯きながら答えた。


「その言葉が《英雄》の呪いでなかったとしたら……私は」


 しばしの沈黙。

 氷のような空気が、周囲を支配していた。


「いいえ、何でもない」


 魔女は目元を拭うと、淡々とした口調で指摘する。


「……貴方は、人の心配をする前に、自分の心配をできるようになりなさい。そんな言葉の呪いに縛られた英雄衝動に突き動かされるのは、もう、やめて」

「俺は……」

「私を助けようとする行動が、過去の呪いに囚われていないと言えるの?」


 答えられなかった。

 唇は錆びついて、急に機能を停止していた。


「だったら、まずそれを直しなさい。笑わせないで。……人に幸せになってほしい、なんて。そんなもの……貴方自身が幸せになっていないのなら説得力が欠片もないのよ」


 俺自身の幸せと彼女は言う。

 けれどこれまで、英雄自身の幸福なんてものを求めた者はいなかった。

 英雄は誰かの幸せを守るための存在で、そこに英雄自身は含まれないはずだ。

 俺の幸せなんて、そんな役割を英雄に求めたのは、目の前の彼女がはじめてだった。

 だから、分からなかった。

 どうして俺に、そんなものを求めるのか。


「戻りましょう」


 魔女は背を向けて言う。

 俺が足を動かさないのを見て、彼女はこちらを一瞥した。


「そろそろ、みんなも不審に思う頃でしょう?」

「待ってくれ。……一つだけ聞かせろ」


 俺は気になっていたことを尋ねる。


「――お前、どうして俺にも転生の呪いをかけたんだ?」


 魔女は否定しなかった。

 当然だ。転生術なんて、自分の手で行えるような術師は限られている。

 あの世界に数人いるかどうかだろう。

 そして――そもそも、偶然に異世界転生なんて奇跡が起きるはずがない。

 であれば俺の転生も魔女が仕掛けたと考えるのが必然だ。

 俺の処刑の間際、彼女は確かに生きていたわけだし。

 魔女は淡々と言った。


「……さっきも言ったでしょう。呪いを祓う性質を持つ貴方がいれば、二度目の人生のいつかは、完全に呪いを除去できるかもしれないと思ったのよ」

「本当に、それだけか?」

「あの世界に、私の死によって呪いをまき散らしたくなかった。けれど、この世界ならいいのかと言うと、そんなことはない。こっちの方が魔力そのものが少ないから、私の呪いによるリスクが低いというだけで。呪いを祓えるに越したことはない。だから」

「――私は、私は……」


 くしゃり、と。顔を歪めて。


「貴方に、幸せになってほしいと思った」


 ひどい一撃だった。

 というか完全にブーメランだと思う。

 けれど、彼女の言葉が本心から発せられたことが伝わってきたから、俺に紡げる言葉なんて一つだってありはしなかった。

 魔女が喫茶店の中へと戻っていく。

 少し遅れて、俺もその後に続いた。

 雨は降らなかったけれど、曇り空はずっとそのままで、暗澹たる心境が変わることはなかった。

 昔はこんなに迷うことなんてなかったのに。

 いつから《英雄》の剣はこんなにも切っ先が鈍ったのだろうかと、そんなことを考えた。


 

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