第8話 幼馴染

「……あれ、寝ちゃってたか」


 目を覚ますと、すでに零時を回っていた。

 いまだに気だるさが残っている体をゆっくりと起こし、ぼんやりとした思考のまま首を回し、周囲を見渡す。どうやら自室のようだった。

 確か、帰宅したのは十時ごろだったか。

 おおよそ四時間のバイトを終えた俺はそのまま部屋に直行し、ベッドで眠ってしまったらしい。

 ……帰ったら宿題をするつもりだったんだけどな。

 というか、こんな半端な時間に寝てしまうと生活リズムが崩れるから嫌だな。

 しかも眠気が段々晴れてきてしまった。

 朝までどうしろと言うのだ。

 まあ、無理にでも眠るしかないんだろうけど。

 ため息をつきながら自分の体に目をやると案の定、制服にしわがついている。

 慌てて脱ぎ、手近なハンガーにかけた。

 明日の朝にアイロンをかける必要があるだろう。

 帰ってからエアコンもつけていないので、体に纏わりつくような汗の感覚が不快だ。


「……とりあえず、風呂入るか」


 俺は妙に重い体を立ち上がらせ、部屋の扉を開けた。

 僅かに視界が揺れる。

 気を付けて階段を下りていく。

 ちなみに夕食はバイト先のまかないで済ませた。

 だから後は風呂に入り、歯を磨き、もう一度寝るだけだ。

 宿題は面倒だし、朝やればいいか。

 両親はすでに帰宅し、もう寝静まっているようだった。

 父のいびきが聞こえる。

 微妙にうるさい。

 俺は両親を起こさないように足音を潜めながら、一階に降りて風呂場に向かった。

 くあ、と欠伸をしつつ風呂場に隣接する洗面所の扉を開くと、その先には、


 全裸の比奈が驚いたように目を瞠っていた。


「は――はぁ!?」


 一瞬で眠気のすべてが吹き飛んだ。

 濡れた茶髪から、水滴が床に滴り落ちる。

 少しつつましやかな胸元は、辛うじて右手に持つバスタオルによって隠されている。だが、その下は丸見えだ。

 シミひとつない、美しく瑞々しい肌。すらりとしていて女性らしい曲線を描いている肢体の中では、特にひどく細い腰のラインが最も可憐であり、加えて言うなら、太ももは今にもむしゃぶりつけそうなほど綺麗で煽情的な様相を――あ、バスタオルで隠された。おい! 

 おいじゃねえよ。

 なぜ俺はそんな必死に観察しているんだ。

 もっと他にやるべきことがあるだろう。

 ――そう、比奈の体の観察だ。

 違うな。明らかに違う。

 そんな本能との闘いを繰り広げること数秒。

 バスタオルで体を覆った比奈はみるみるうちに顔を真っ赤に染めると、そっと目を逸らし、今にも消え入りそうな声音で呟いた。


「……閉めて」

「……え?」

「ド、ドア閉めてって言ってるの!」

「あ、そ、そうだよな。すまん」


 ピシャリ! と、俺は後ろ手に風呂場のドアを閉める。


「……」

「……」


 そうして密室の中、全裸の比奈と向かい合う。

 奇妙な空白。

 明らかに間違えた選択。

 ダラダラと流れる冷や汗。

 ポタリと落ちる水滴。

 俺が動けずにいると、比奈は耳まで赤くしながら下を向いて早口で叫んだ。


「ででで出ていけって言ってるんだけど!? ア、アンタ馬鹿じゃないの!?」

「ごめんそれはマジでごめん。でもお前何でいるの?」

「そんなの後でいいでしょ!?」

「……いいや、これは切実な問題だ」


 ドヤ顔で言う。

 その時間稼ぎの間にも、この光景を可能な限り目に焼き付けるべく思考をかつてないほど高速で回していた。

 具体的に言うなら魔女との戦闘時よりも速い。

 

「い、い、か、ら!」


 比奈は左手で胸元のバスタオルを押さえると、俺を右手でぐいぐい押す。

 俺は分かったと言いつつ後ろ手に扉を開け、洗面所から出ていく。

 比奈はフン、と鼻を鳴らしながら、をドアにかけ、即座にドアを閉めようとする。

 その瞬間、ふわりとバスタオルが床に落ちて、


 ――比奈のすべてが俺の眼前にさらけ出された。


 ◇


「もうあたし、お嫁にいけない……」

「はいはい悪かったって」

「あんなに凝視されたら、もう犯されたようなものだし……通報しよ」

「すみませんやめてください!!」


 涙目で枕に抱き着く比奈に対して、俺は高速で土下座に移行した。

 頭を下げつつ、ちらりと比奈を窺う。

 彼女はむくりと体を起こしたものの、まだ頬を膨らませていた。

 目元も赤い。

 服装はジャージだった。

 湯上がりでいつもと違う格好の比奈に、なぜだかどきどきしてしまう。

 俺はどうにか比奈の機嫌を直すべく思考を巡らせる。

 悩んだ末、俺は明るい調子でこう言った。


「まあほら、子供の頃は風呂ぐらい一緒に入ってたし」

「~~!」

「それに将来は俺のお嫁さんになるって言ってたし、問題ないでしょ、うん」

「こ、子供の頃の話でしょ!? てか何で覚えてんの!? キモい!」

「キ、キモい……」


 余計怒らせてしまった。

 比奈は真っ赤になっている顔を枕に埋める。

 それ、俺のなんだけど……。


「――で、結局、何で俺の家来てるの? 久々だよな」


 比奈の隣に座り、壁に背を預けながら俺は言う。

 何の因果か、昼間に比奈に聞かれたことと似た質問を投げかけてしまった。

 ひんやりとしたエアコンの風が心地いい。

 直接エアコンの風に当たるのは体に悪いとか聞くけど、仕方ないね。

 そっと比奈を窺うと、枕を抱いたままの彼女は毛布を壁に俺の視線を遮る。


「こっち見ないで。変態が移る」

「ひどい言われようだ」

「あ、あたしだって、アンタにはお風呂借りてること伝えてなかったし、仕方ないかなって思った。だから許そうとしたのに……あんなにガン見されなければ」

「……ごめんなさい……」


 何も否定ができない。

 俺はただ頭を抱えていた。

 違うんだ。

 あのときは動揺しすぎて、いろいろとテンションが上がっていたんだ。

 つい本能が目覚めたんだ……。

 うん、何も違わないな。


「……はぁ、べつにいいわよ」


 比奈は嘆息すると、切り替えるように言う。

 肩が触れ合うほどの距離、壁際で体育座りをする彼女は首を曲げ、隣にいる俺を上目遣いで見やると、


「――だから今度、ケーキバイキング奢りね」


 花がほころぶような笑顔で言った。

 俺の財布に大ダメージである。

 だが本能に負けた俺に反論の余地はなかった。


「それで、話の続きね。確か、アンタん家に来た理由だっけ」


 比奈は体育座りを解いて足を伸ばすと、んー、と伸びをしながら語る。

 残念ながら反ったぐらいでは胸はあまり強調されなかった。

 やはり脱ぐしかないな。

 何が?


「……どこ見てるのよ」


 比奈は自分の体を抱くようにして、ジト目を向けてくる。

 俺の毛布をぐるぐると体に巻きつけながら、比奈は「油断も隙もない……」と嫌そうに呟く。


「いい加減、本題に入ろうぜ……」


 俺は言う。


「こっちのセリフなんだけど……」


 という返答がきた。俺もそう思う。

 ちなみに両親はあの程度の大声ではまったく起きなかった。

 図太い精神だ……。

 比奈は天井を仰ぎながら、語る。


「うち、お風呂が壊れたらしくて、お湯が出なくなっちゃったの。お母さんとお父さんは旅行中だし、どうしようか迷って、最初は銭湯にでも行こうと思ってたんだけど」


 その時点で察した。

 俺は頭を抱える。


「……ああ、うちの親が連れ込んだんだろ。悪いな」

「そう。途中でアンタん家のお母さんに遭遇して、事情を説明したら『じゃあ、うちで入っていきなさいよ! お金がもったいないでしょ!』って」


 比奈は目をつり上げて母さんの物真似をすると、直後に表情を崩し、ふふっと微笑む。

 母さん、いつもやることが強引だからな……。

 しかも客人を放置して寝るってどうなの? 

 いくら昔から家族ぐるみで仲が良いとはいえ……。


「あ、でもべつに文句があるわけじゃないよ。余計なお金をかけずにすんだし、それに」

「……それに?」

「アンタの家、久しぶりだったし」


 比奈は笑顔で俺の顔を見ると、瞬きして、また逸らした。

 どうしたんだろう。

 でも確かに、ここ数年は俺の家に来ていないな。

 幼い頃はほとんど毎日来ていて、もはや家族のようなものだったが。

 まあほら、思春期だし……恥ずかしいよね?。

 ちなみに比奈の家はちょうど俺の家の裏側にある。

 住宅街の真ん中。

 家屋が二本の線のように立ち並び、道路に挟まれている。

 だから帰宅するときは途中で別れる必要があった。

 裏の塀を乗り越えれば一瞬でいけるのだが、自転車があるときはそういうわけにもいかない。

 ともあれ。


「……なるほどな」


 俺は頷く。

 ひとまず事情は分かった。


「でもやけに入るの遅いな。もう零時回ってるぞ」

「まあアンタの両親と夕ご飯を食べて、しばらく喋ってたからね」

「母さんの長話のせいか……」

「てかアンタ、帰ってきてそのまま寝ちゃうんだもん。どんだけ疲れてたのよ」

「バイトだったからな」

「それだけじゃないでしょ」


 ずい、と比奈は顔を近づけて言う。

 ふわり、とシャンプーの甘い香りが漂う。


「最近、ボランティア活動もやってるって聞いた。期末テストも近いのに……」

「まあちょっとな」

「ちょっとじゃないでしょ絶対。べつに、良いことだとは思うよ。でも、自分が無理してまでやろうとすることじゃない」

「無理なんかしてないって」

「してる。あたしは誤魔化せない。だって、ずっと見てきたのよ? 小さいときからずっと。だからアンタが今、体調が悪いことも分かってる」

「……」

「熱はまだ出てないみたいだけど」


 よくわかるものだ。流石は幼馴染とでも言えばいいのか。

 比奈は俺の額に手を当てて呟く。

 冷たく、細い指の感触があった。


「でも、たぶん明日の朝には熱が出てる。そうなったら学校とバイトは休むこと。いい?」

「はーい……」

「はぁ、今日のバイトも止めればよかったかな」

「……まあ、そのときはまだ体調悪くなかったし」

「とにかく、今日はもう寝ること。はい毛布、あげる」


 比奈は体に巻いていた毛布をベッドに敷くと、俺の肩を掴んで強引に寝かせる。

 そして、その隣に入ってきた。

 ええ……寝れないんですけど……。


「か、勘違いしないでよね」

「ひと昔前のツンデレみたいな台詞を吐くな……」

「最後まで言わせて」

「はい」


 比奈は反対側を向き、俺と背中を合わせながら、早口で言う。


「こ、これはアンタを放っておくと心配だから、仕方なくやってるだけだから!」

「そ、そっかー」

「反応が雑」

「お前のツンデレがすでに雑なんだが」

「ひと昔前とか言われても、あたしそもそも最近アニメとか見てないし」

「あー……」


 陸上で忙しそうだしな。

 比奈はノリノリでそっぽを向きながら、続ける。


「け、決して今更家に戻るのが面倒くさいとかじゃないんだからね!」

「妙に生々しい理由はやめろよ」

「事実なんだからしょうがないじゃん」

「帰るの面倒臭いが理由で主人公と一緒にいるヒロイン……人気でなさそう」

「やかましい。それにちゃんと帰るしね」

「いや帰るんかい」

「当たり前でしょ。本気でアンタみたいな変態と一緒に寝たら、何をされるか分かったもんじゃないし」


 まあ昔はこういうこともよくあったとはいえ、流石に高校生の男女が同衾するってのは非常にアレだろう。

 比奈もそのへんは分かっているらしい。

 欠伸をしながら、比奈はベッドから立ち上がる。

 すたすたと歩き部屋を出る直前、彼女は俺のほうを振り返りこう言った。


「ちゃんと休んでね」

「おう」

「それから、無理に人助けをするのもやめること」

「……」

、あたしが言うのもおかしいけど」


 比奈は小さな声で、告げる。


「――でも、アンタを心配してる人がたくさんいるってことも忘れないで欲しい」


 ◇


 名は体を表す、という。

 その少年は光の御子だった。

 生まれたときから英雄となるべく、選ばれた者だと呼ばれ続けた。

 魔を退け、人を助ける者。

 それが英雄という存在。

 だから少年には、それ以外の在り方など決して許されなかった。


 ゆえに、英雄という言葉は永遠に彼を縛り付ける呪い。

 期待という名の、希望という名の、善意の鎖。

 だからこそ、鎖で雁字搦めにされた少年は世界を救い、そしてこう言った。


  ――俺は、? と。


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