第135話 外伝40.1932年頃 ジャンとアルベルト

――1932年頃 日本 東京

 日本、いや世界で最も知名度が高いと言われている物理学者の一人であるアルベルトは、日本で開催される物理化学の世界会議に出席するため、東京を訪れようとしている。日本では経済学会議をはじめ数々の学術的な国際会議を定期的に開催してからだ。

 学者による世界的な日本ブームは、イギリスの経済学者間に端を発する。イギリスの著名な経済学者は自説を再現し世界恐慌を寄せ付けなかった日本を絶賛し、彼をきっかけにして世界中の学者たちが日本に興味を持ち始めたのだ。また、1920年代後半からどのような研究であってもお金を出すのが日本と世界に認識されつつあったのも大きいだろう。

 それに応えるかのように日本で多数の学術的な国際会議が開催されることになり、招待者には旅費まで工面していた。


 アルベルトは1900年代から1910年代に著名な物理理論を発表したことで一躍有名になったが、彼自身はその後病気に悩まされる時期があった。そして勃発した欧州大戦ではユダヤ系ということもあり、スパイと疑われたりと不遇時代を過ごす。

 そんな彼に転機が訪れたのはオーストリア連邦の成立だった。オーストリア連邦はあらゆる民族の平等を唱え、法規制だけでなく実際にその精神を過剰なまでに実行した。

 彼はユダヤ系の友人の誘いもあり、ドイツのベルリンからオーストリア連邦のプラハに移り住む。彼は元々プラハ大学で教授を務めていたこともあるので、ここに舞い戻った形になる。

 今はプラハ大学の教授職を行いつつ、年に数か月間、日本の京都大学で教鞭をとっている。今年は物理学の世界会議が開催されるため、彼は例年より少し早く日本を訪れたというわけだ。

 

 アルベルトの人気は日本でも高くここ最近は日本で教鞭をとりたくても取れない学者もいるなか、彼に関しては全く話が異なった。毎年京都大学で数か月間教鞭をとるアルベルト本人だけでなく、京都大学に対しても日本の他の大学からこちらでも講義をしてくれと依頼が殺到しているのだ。

 しかし、アルベルトはお金で動くような者ではなく、頑固なところもあったので京都大学以外で講義を行うことは無かった。

 

 世界会議が終わった翌日、アルベルトは歌舞伎を見に行くことになった。彼自身は歌舞伎に興味があるわけではなかったが、彼を歌舞伎に誘ったジャンという詩人が歌舞伎に並々ならぬ興味を持っていたためだった。

 アルベルトはジャンとこれまで直接会ったことは無かったが、手紙では何度かやり取りをしたことがある。どこか気難しいところのあるアルベルトと同じく芸術家であり詩人でもあるジャンも少し普通の人とかけ離れた性格をしている。

 何故かこの二人は手紙のやり取りを通じて馬があい、ジャンがとある映画を撮影し映画の宣伝も兼ねて日本へ来るという話から二人は日本で会うことになったのだった。

 

 ジャンはフランスのパリ在住で、演劇、映画撮影をはじめ様々な芸術活動へ精力的に活動している。1930年現在のパリの芸術サロンは間違いなく世界一といえる状況であるが、彼は土地柄を活かし多くの芸術家たちと交流を持っている。

 著名な芸術家が多く住むパリにあっても、彼の名前は世界中に知られるほど有名で世界各地に彼を支援するパトロンが存在するという。その中には日本企業もあるとかないとか。

 

 アルベルトが入口で待っていると、彼の前にタクシーが止まりジャンが降りて来る。

 アルベルトは物理学者として、ジャンは芸術家としてどちらも顔写真は出回っているため、二人は顔を見るとすぐにお互いの事が分かる。

 

「アルベルト、会いたかったよ」


 ジャンは笑顔でアルベルトに握手を求めると、アルベルトも彼にしては珍しく微笑み握手に応じる。

 

「ジャン、まさか日本で会うことになるなんてね」


「パリとウィーン……どちらからでも日本は遠いからね。僕も少し驚いているよ」


 二人は流ちょうな英語でお互いの近況を語り合う。初めて会う二人だったが、手紙と同様に不思議と馬が合った。

 

 彼らは歌舞伎の公演を見た後、アルベルトの案内で都内の日本料理の料亭に入り、夕飯を食べることにした。

 アルベルトにとって日本料理は慣れたもので、いまでは刺身でも躊躇なく食べることができたが、フランス出身のジャンは日本料理がまだ珍しいらしく、料理が出て来るとその美しさに目を奪われていた。


「アルベルト、日本料理は芸術性が高い。この繊細な色使い……素晴らしいよ」


 ジャンが感動しているが、アルベルトには芸術が全く理解できない。確かに美しいとは思うが、フランス料理と比べてどこがどう美しいのかとなると彼には違いが分からないのだ。

 しかし、ジャンが喜んでくれているようだから、この料亭にしてよかったとアルベルトはホッと胸を撫でおろす。

 

「喜んでくれて嬉しいよ」


 二人は酒で乾杯した後、またお互いの話に花を咲かせる。


「アルベルト、君の発表した理論は宇宙開発にどうこうとか、すごいね」


「人類はきっと宇宙へ飛び出す時代が来る。私にはどの国が最初に宇宙へ行くかも分かっている」


「ほうほう。それは……ドイツかい? 日本かい? それとも君の居る国オーストリア?」


「日本に間違いないとも。いまのような日独墺の協力関係が続けば、日独共同になるかもしれないな」


「その時まで生きていればいいけどなあ。宇宙からの映像はさぞ美しいんだろうね。僕は宇宙をテーマにした映画を作りたくなってきたよ」


「それは面白い。宇宙ということなら、私も協力できるかもしれないな」


「おお。宇宙の物理法則を教えてくれると嬉しいな」


 酒を口に運び上機嫌のジャンに、アルベルトはふと思い出したかのように問いかける。

 

「そういえば、ジャン。君の映画はいつ公開なんだい?」


「よくぞ聞いてくれた。来月から日独墺仏英米で一斉公開されるんだ。世界初の試みなんだよ」


「それは……翻訳も大変だったろうに……」


 映画に詳しくないアルベルトにも容易に想像できるほど、六か国同時公開は困難だと誰にでも理解できる。

 しかし、ジャンは意外にも肩を竦め、何でもないといった様子であった。

 

「そうでもなかったんだよ。アルベルト。そもそも僕はフランス語、英語ができるから、君のようにドイツ語と英語ができる者は多い」


「なるほど。となると残りは日本語だけになるのかな?」


「うん。意外や意外、日本語の翻訳者を探したところ人数がいっぱいで逆に戸惑ったくらいだよ」


「あんなに複雑怪奇な言語を良くもまあ……」


 アルベルトも一度日本語を勉強しようと、日本語の教科書を手に取ったことはある。しかし、英語と違い文字からつまずいたため、今では日本語の読解を学ぼうという意志は皆無であった。

 日本で仕事をしているのだから、簡単なコミュニケーションくらいは取れるよう少しだけでも会話ができるようにと思っているが、会話だけでもなかなか学習が進まない。

 

「アルベルト、僕は日本に来てさっそくいくつか言葉を覚えたんだ」


「そいつはすごいな、ジャン」


 ジャンはアルベルトに語って聞かせた日本語は「おいしい」「こんにちは」「かわいい」であったという……

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