第83話 夜居の僧

「よくぞ朕の妻子を守り抜いた。誉めて遣わす」


と土蜘蛛襲撃の翌朝、嵯峨帝は内道場に妻子たちを匿ってくれた内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんしを呼び出して感謝のお言葉と十分すぎる褒美をお与えになり、最澄一人を残して他は皆下がらせると…


「お前が本当に欲しいものは何か朕は解っている。

最澄、お前を内供奉十禅師の任から解く。これからは好きに天台教学を広めろ」


と、父桓武帝が反奈良仏教勢力の急先鋒として常に我が傍に置きたいがために無理に内供奉十禅師の任に就け、本人の意に反して13年もの長きにわたって宮中に縛り付けていた最澄に、


自由。という彼が最も望んでいたご褒美をお与えになられた。



その日のお昼過ぎ、二人の弟子と共に比叡山に帰った最澄はまだ葉が色付く前の樹々を見上げ、


終わった…


と長年の重圧を両肩から降ろし、まずは寺を守っていてくれた弟子たちに「おーい!」と晴れやかな声で呼び掛けた。…最澄さまだ、最澄さまだ!と僧侶から稚児まで寺にいた者全てがわらわらと最澄を取り囲み、


最澄さまお帰りなさいませ!おい、わが師のお帰りだぞ!とまだ来ぬ者たちに口々に呼びかけた。


「実は、宮中での任を解かれてしまいましてね」


と帽子を取る最澄はにこやかに罷免と言う名の解放を集まってくれた弟子たちに告げた。


「お留守の間に徳一和尚からの文がこんなにも」

と師の僧衣を衣文掛けに掛ける泰範が最澄の文机にうず高く積まれている手紙の束をうんざりした顔で示して見せた。


が、最澄は「どうせ天台教学に対する文句と否定ばかりだ。しばらく放っておきなさい。それよりも」

と白衣姿で床に寝っ転がりながら泰範の袖を引いて「今日は本当に疲れた…」と愛弟子を強引に抱き寄せる。


泰範は師の白衣の胸に頬を押しつけて「お帰りなさい、最澄さま」と熱い声で囁いた。



いつもこうだ。

兄上は頼みにくい事を仰せになられる時はいつもこうして前触れもなく私の部屋をお訪ねになるのだ。


今までは兄上に押し切られてきたが…今回ばかりは、呑めぬ。


とばかりに大伴親王は帝が目の前に床座していらっしゃるというのにわざと我が子の恒世親王つねよしんのう氏子内親王じしないしんのうの遊び相手ばかりしていて嵯峨帝が二度、話しかけようとなさったが聞こえない振りをしていた。


子供好きな帝は親子水入らずの場を邪魔して悪い、とお思いになり気を削がれてしまう筈だ。と策を授けたのは幼い頃から大伴の従者として仕えて来た藤原吉野であった。


吉野の父は藤原式家の参議、藤原綱継。

母は式家の祖、藤原宇合の九男で藤原蔵下麻呂の娘の姉子で、吉野は血筋の確かな式家の貴族ということになる。


母の姉子が大伴の乳母を務めたことから大伴とは乳兄弟という間柄で、


その絆は実の兄弟よりも深い。


困ったなあ…と呟かれた嵯峨帝は問わず語りに「朕としては高岳を皇太子のままにしておきたいがそれではよくない、と周りが強く言うのでね」


平城上皇の皇子で甥の高岳親王を廃太子にする代わりに大伴、お前に皇太弟になってもらいたいのだが。


と仰せになるに決まっている。それだけは嫌だ。


皇族に生まれて窮屈な思いをして生きてきて、兄の平城上皇に臣籍降下の願い入れまでして却下された私の思いを知った上で兄上は…


次の天皇はお前だ。と私が一番嫌がる立場を押し付けようとなさっているのだ。


これは、絶対呑めぬ!


おじうえ、と恒世親王が嵯峨帝のお膝にとりついて豊かな黒髪を結い上げた角髪みずらを揺らしてきゃっきゃ!とはしゃいでいる。


いいぞ恒世。せめて兄上の御衣によだれでも垂らして…

どんな無礼を働いてでもいいから兄上を追い返してくれ。


「元気だな。恒世はことしで何才になる?」

と膝に乗ってきた恒世に少しもお気を悪くせずに嵯峨帝が弟に尋ねると、


「は、五才になります」

とつい大伴は答えてしまった。


しまった、大伴さまが帝との会話に乗ってしまわれた!

と廊下から部屋を覗き見ていた吉野は大いに慌てた。

大伴さま、吉野の策もここまで。後は強いご意志で固辞なさりませよ。と我が主を見守った。


「五才か…高志との間に生まれた恒世なら血筋も近いし皇統として申し分ない。ちょうど立太子させてもよい年頃だ。なあ恒世、今から一緒に東宮に行くか?」


と嵯峨帝が甥っ子を抱き上げて立ち上がろうとなさったところを父親としての本能が働いた大伴はひったくるように恒世を奪い返し、


「幼い我が子にそんな重責、とても耐えられませぬ!父の私が成り代わってでも阻止しますよ」


と口にした処で嵯峨帝はゆっくりと大伴を振り返り、


「そうか、皇太弟になる役目引き受けてくれるか」

と両目に涙を滲ませて大伴の手を握り、


「幼い頃いつも一緒に過ごした兄弟同士、これからは手を取り合って政を執り行おうではないか」


と固まって何も言い返せない大伴にそう告げると踵を返して足早に部屋から去ってしまわれた。


しばらく呆然と立っていた大伴がやがて「吉野」と従者を呼びつけ、


「…してやられた。子供を使った策を逆手に取られてしまったぞ。いつも兄上はこうだ。人を自分の思い通りに動かす知恵に長けていらっしゃる」


「まさか帝が恒世さまを連れ去ろうとなさるとはこの吉野思いもよりませなんだ」


と吉野は主に己の不策を詫びたが心の内では我が主が次の天皇に決まった事を喜んでもいた。


確かに大伴さまは帝ほどお強くはないが、帝のご兄弟の中で大伴さまほど天皇に相応しいお方はいない。


大丈夫です、大伴さま。この吉野何があっても貴方をお支え致しますから。

そう心に決めた通り吉野は大伴と生涯を共にする。


大同5年9月13日(810年10月14日)、廃太子された高岳親王の代わりに大伴親王が立太子した。後の第53代、淳和天皇じゅんなてんのうである。


まだ11才の幼い高岳は廃太子にされた、という自分の立場が明確には理解できずに宮中から出されて異母兄の阿保親王の邸に身柄預りになっても嘆く母や従者を尻目に元気をもて余して遊び回り、

庭園の木々に登ったりしては

「危ないからそういうことはおやめ」

と心配する兄親王や従者たちを困らせていた。


「へへーん、兄上はこんな低い柿の木が怖いのですね?大人なのに臆病だなあ、待って下さいね、いま実を取ってあげますから」


とさらに上の枝に手を伸ばそうとする高岳の目の前にふわり、と真新しい直垂姿の少年が降り立ち、

「高貴なお生まれの方がわざと木に登って周りを困らせてはいけませんよ」

と切れ込んだ二重瞼の目を細めてめっ!と叱るような目付きをしてみせる。


「空から降ってきたの?」


高岳が目をぱちくりさせて少年を見上げるとまさか!と言うと相手は高岳を抱き上げ、

「地から木の上に飛び乗るなんて造作もない事でございます」

と言うとそのまま地面に飛び降りた。

「世話をかけたな、ソハヤ」と弟を引き取った阿保親王が礼を述べると「いえ、従者として当然のことをしたまで」と表情の無い顔で素っ気ない返事。


「相手が阿保さまだったからよかったものの…あの態度は無礼だぞ。俺たち最低でも三年は都にいなきゃならないんだから少しは愛想と如才のなさを身に付けろ」


とその日の夕餉の時にスガルが弟分のソハヤを叱った。言われた途端、ソハヤは椀を置いてそっぽを向き、


「俺は誰の下にもなったつもりはないし、誰の上にもなるつもりはない。エミシの戦士として誇り高く生きる」

と傲然と言い放った。


お前の困った所はそこなんだよ…とスガルはため息を付く。


「あのなあ、都びとの間ではアテルイどのの死でエミシはとっくに従属したものと認識されてるぞ。

今さらエミシの誇りを振りかざすな。

お前、あの坂上将軍の詮議を受けてよく生きて帰れたな」


別に、と言ってからソハヤは椀の中の鶏肉を飯と一緒にかっこんで咀嚼してから「詮議というほどのものでもなく、普通に客としてもてなされた。素性は確かだから疚しいところはないよ、兄者」


ソハヤはエミシの俘囚シルベの息子ある。


俘囚とは陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもののことをいう。


彼らのの経緯は日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二つに分けられるが、


父のシルベは戦士だったため戦場で負傷して捕らえられ、捕虜として国内移住させられた後者であった。


八才の時に病で父が死に、ひとりで父の遺体を埋めていたところを通りがかった旅人が「童、ひとりで親を弔うとは偉いぞ。手伝ってやる」と手を貸してくれた。


実は、旅人の正体は畿内の鉱山を視察に廻っていた修験者の頭タツミであり、タツミはそのまま吉野にソハヤを連れ帰って修験者の弟子として育てた。


あれから八年。吉野の山で修験者として生きる筈だった自分がなぜかお目通りの一見で帝に気に入られたようで帝はわざわざ名指しで「ソハヤとスガルの二人を三年傍に置きたい」と修験者の頭タツミに請うた。


「あの二人は我が子同然に育てた少年たちで特に素軽すがるは次代の修験者を統率する跡取りなんですがね」

と最初タツミは渋ったが、


「東国に鉄の鉱脈がいくつかある。が、地盤が固く掘り当てる人足が集まらなくて難儀しているところだ」


東国の鉄。

と聞いて鉱山師タツミの嗅覚が反応しない訳がなかった。強く硬い東国の鉄は加工次第で丈夫な農具、鋭き鑿、そしてより強力な甲冑や刀とその可能性は計り知れない。


これからの人びとは豊かな資源を求めて東国へ向かっていく新しき時代の予感にタツミは心躍った。


「お任せください、鉱夫も鍛冶師もとびきり優秀な人材を揃えてみせましょう。但し、採掘権を任せてもらえればの話ですがね」


「これで決まりだな」


「ただし3年きっかりであの子たちを返してくださいよ」


「約束する」


という帝とタツミとの生臭い取引の末に東国の採掘権と引き換えに期限付きで少年二人は売られたのだが…

そんなことスガルの父の蓼にも言えず「3年都に居て様々な価値観の人間たちと交わるのは大いなる学びじゃないか」と不本意そうな顔をする蓼の肩を強く叩き言い訳するタツミであった。


「蕨手刀も没収されずに帰されたなんてお前、坂上将軍に相当気に入られたんだな」


それが何故だかソハヤ自身にも解らない。確かに将軍の目の前で三男の浄野どのと棍棒で手合わせしたが本気で打ち合ってぎりぎりのところで浄野どのに肩を付かれて敗れた。


「やはりお前は短刀のほうが得意なようだな」と笑う将軍どのが見分していた蕨手刀をソハヤに手渡した時、何故か自分の手の形を食い入るように見つめ、次に顔のつくりをこと細かに見た将軍の顔色が変わった。


「お前の父シルベは死んだ時の年はいくつだった?」


「は、確か50半ばだったと」


「お前の母は?」


「ヤマトの里の娘でしたが我を産んですぐ死んだ、と父が」


そこで将軍どのはそうか、と鷹揚に頷いて「気に入った。いつでも我が家の門をくぐるがいい」と従者の見送りまでつけて坂上家の門をくぐったソハヤであったが…


「自宅で寛いでいても将軍どのには髪の毛一本ほどの隙も無かった。ご子息たちも物凄く強いし家人ひとりひとりにも躾が行き届いている。無事に出られた後で震えちまったよ」


「隙を伺うなんてまさかお前」


とスガルは眉を顰め「仇討ちなんて考え今ここで棄てるんだな。下手したらお前が消され、お頭も修験者の里も詮議を受けて潰される」と激しく膳を打ち、彼の手の下で器が真っ二つに割れた。


スガルのあまりの激昂ぶりに「分かったよ、兄者」とソハヤは肩をすくめた。


帝から仮の名前と身分が与えられるまで二人は阿保親王預かりになっている元皇太子、高岳親王の子守を仰せつかっている訳だが、


「貴人の子はもっとおっとりとしているもんだと思ってたのに…高岳さまときたら木に登るわ池の魚を取ろうとするわで元気すぎて困るぜ!里の子より手がかかる!」


と嘆息してまだ被り慣れていない烏帽子を取ってソハヤは髪をかきむしった。


「貴人どころか数日前まで皇太子だったお方だ。ある意味将来が楽しみだな」


スガルは傍で眠る高岳の夜具を掛け直してからからりと笑った。


「ねえ兄者、高岳さまはこの先どううなるんだろうな…負け組の皇族は大体殺される。って長老たちから聞いたけど」


そうだな…と顎に手をやりしばし考え込んでから「大丈夫、あの帝なら高岳さまを悪いようにはなさらない」と断言した。



この夜、嵯峨帝はなかなか寝付けなかった。

政変に伴う高岳廃太子と大伴立太子など天皇家にとって重大な決断ををここ数日でいくつも下して気が昂っているのだろう。


こういう時の嵯峨帝は夜御殿の廊下に居て天皇の無事を祈祷する役目の夜居の僧に他愛のないことを話しかけている内に自然に眠くなるのを待つ。


「今宵は湖面に映る月が美しいな」


とぶつぶつ読経を続けている僧侶の影に語りかけると影は振り向いて「ええ、ほんま吸い込まれそうな輝きで」とにっこり笑った。空海であった。


「なんだお前か」


「へえ、本当は勤行中に話し掛けられるのは邪魔なんやけど帝はそういうところがおありだから相手して差し上げるように申し送りがありまして」


日頃内供奉十禅師たちが思っている本音を空海を介して告げられた嵯峨帝は面食らったがすぐに気を取り直し、丁度よかった。と空海の傍にお座りになられた。


「高岳のことなんだがね、やはり空海、信頼してあの子を託せる人物はお前しか思い浮かばないんだ」


「夜が明けたらすぐにでも親王様を受け入れる準備を致します」


そうか、と嵯峨帝はひとつうなずくと空海と並んで恐ろしいくらい橙色に輝く月を庭園の水面越しに黙って見つめた。


「出家なさった上皇さまに平城宮に居てもらう事で奈良の僧たちは上皇さまにかりそめの仏の姿を見出しかつての誇りを取り戻すことでしょう…」


「最澄も比叡山に帰したし、これで長岡遷都以来の僧たちの不平不満が弱まってくれればいいが」


「次第にそうなりますって」


不思議だな、この男と話すと全ての事が大丈夫と思えてくる。月の光を浴びて微笑む空海を見ている内に瞼が重たくなり嵯峨帝は「もう寝る」と告げて立ち上がり寝所にお入りになった。


帝。

人は月の光を浴びすぎない方がいいんですよ。最初の師、戒明さまと出会ったのも月の光のもとでした。

わしのように月に魂を吸われた人間はやがて人ならぬ道に入ってしまうんですから…


翌日、空海に連れられて東大寺入りした高岳親王は「ねえ母上はどうしたの?」と初めて心細さを口にした。

「ここは寺ですからお母上は入って来れません」と告げると高岳は初めて唇を噛んで涙を見せた。その様子を見た空海は賢いお子やな。と感心した。


高岳は本当は自分の置かれた状況を全て解っていてわざと周りが困るくらい明るく振舞っていたのだ。


泣き出した高岳を空海が抱きあげ、

「大丈夫、これからはわしが親がわりで寺の者はみな家族ですから」と力強く励ました。



おい…これで子供たちは全員か?


まだあと二人足りないんですって。傀儡子の子供たちよ。


雑事師たちがとうに去った平城京の芝の広場で白装束の修験者が駆け回る。


くぐつ、という言葉を聞いて人形を抱いて隠れていた幼い兄弟が隠れていた草むらから顔を上げた。


いた!と兄弟を見つけて駆け寄って来た女修験者葛に「いまくぐつって言ったよね?おとうはどこ行ったの?あんたらおとうの知ってる人?」と兄の方が矢継ぎ早に質問する。


どう答えていいものか葛が困っているとタツミが兄が持っていた関羽の人形を覗き込み「黒い美髯、いい細工だ…」と呟き「お前らのおとうは?」と尋ねると兄弟は口を揃えて「タガミ」と言った。

「俺はタガミに頼まれてお前たちを探しに来たんだ」と言うと兄弟は気を許してタツミの膝に取り縋った。


これで土蜘蛛の遺児たち全員が見つかった。


彼らの親に手を掛け孤児にしてしまったこの子らを里に引き取って育てる事が修験者たちのせめてもの償い。

女帝持統の御代から里の者たちはためらいもなくそうしてきたのだ。


そこには渡来人だろうと政争で負けた咎人だろうと敵の子だろうと関係ない。


それを偽善だ、と云う者もいるかもしれないが、

偽りの善でも善をなし得なければ人は人足り得なくなるのだ。


歩ける子の手を引き、小さな子をおぶった修験者たちが出発の準備を整える。


「これ、あたしはそんなに老いちゃいないよ!」とタツミに無理矢理背負われた白専女が杖で息子の頭を小突いて周りからどっと笑いが起きた。


「何もかももういいんですよ…母上」

と言われて白専女の目に巻いた布がわずかに濡れ、老婆は育ての息子の背にもたれた。


昔、血縁も恩讐も越えた大きな家族が故郷の里に向けて歩き出した。



「薬子」終わり。


第四章「秘密」へ続く。






































































































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