第77話 智泉の祈り

それは、天啓というものだったのかもしれない。


と後になって智泉は思うのだった。


高雄山寺から持って来た法具を持ち、燃え盛る炎を前に真言を唱えて加持祈祷に没入している時、ふと智泉の脳裏に、


サマンタ・バドラ


と梵語で書かれた空海による横書きの文字がまぶたの裏に現れたのだ。その事を修二会の儀式を終えて心配して奈良から駆け付けて様子を見に来てくれた空海に相談すると、


「サマンタ・バドラとは天竺での普賢菩薩ふげんぼさつの呼び名。それは、普賢菩薩が夫人さまに子をお授けになるという暗示かもしれん…智泉、お前は澄んだ祈りの心で普賢菩薩の像を自ら彫り、完成させるのだ」


と助言を与えて菩薩像を彫るための良木を与えると、


「本気の加持祈祷を満行させるために大切なことはただ一つ、自分の祈りを一切疑わないことや。その為には体を損ねてはいけない。お前は集中し過ぎて寝食を忘れる悪い癖があるからな、気を付けろ」


と忠告した途端に、


しまった、若い頃のわしもそうだったやないかい。


虚空蔵求問持法こくぞうぐもんじほうという究極の荒行を行う自分をずうっと見ていた相手に向かって説教している自分の。


どの口が言うてんねん。


と思うと急に恥ずかしくなって甥っ子からつ、と目を反らした。


「と、とにかく心身を保ちながらなさい。わしは夫人さまのご様子を見に伺うから…」


とそそくさと立ち上がり、お堂から出て来た空海に吉清よしきよ氏人うじひと弟氏おとうじ氏公うじきみら嘉智子の兄である橘四兄弟はわっ!と空海を囲み、


「決して智泉阿闍梨を疑うわけではありませんが」

といきなり祈祷を依頼した相手に失礼な前置きをしてから、


「堂内に籠ってもう10日余り、何かご霊験でもありましたでしょうか?」


「本当に密教の呪術というものは効くのだろうか?」


「妹が懐妊しなかったらどうするつもりなのだね?」


と半ばすがり付くような半ば威圧するような態度と口調で尋ねてくる。


ああ、お上から棒録を貰っているだけで家で鬱々としながら暮らしている貴族の男たちとは、


こんなもんかいな。


と空海は依存心の塊になりきっている貴族の男たちに心底呆れ果てた。


ご自分で働いて家族を養っていらっしゃる逸勢さまや、帝の御近くに仕える藤原の三守さまや冬嗣さまとはえらい違いや。


いやいや、この方々も本当は機会が無いだけで宮中にお仕えするようになればそれなりに能力を発揮なさるのかもしれない。


「先ほど普賢菩薩から御子を授かる。という有難い暗示をいただきました。ついては智泉に自ら菩薩像を彫らせる事で願いを果たせましょう…」


と空海が合掌すると「但し」と顔を上げて、

智泉を橘家の男たちから離して自由に祈祷させるべし。「そうしなければ満行叶わず」と念を押して無理矢理了承させた。


密教僧のつとめとは、ただ祈ること。


初めて本格的な加持祈祷を行う智泉を、せめて橘家の男たちの妄執の念から引き離してやりたい。という親心からくるものだった。


どんな手を使ってでも己の立身出世を願う、という貴族たちの濁った望みは智泉のつとめを邪魔するだけ。


しかしまあ、

世俗には祈りと妄執を履き違えて神仏に向かう人々がぎょうさんぎょうさんいてまんなあ…


と空海は重い荷物を肩から下ろすようなため息をしてから橘家を後にした。



夜明け前にはいつも隣で泣く赤子たちのふえ、ふえぇ…と泣く声で明鏡は短い眠りから目覚める。


「…はいはい、いかがなされましたか?」


と明鏡は眠たくて閉じてしまいそうになる目をこすってまずは皇女正子と我が子である信皇子の産着の裾をめくっておむつが濡れていないのを確かると、右のお乳を正子に含ませ、次に左のお乳を信に含ませた。


橘嘉智子が空海の弟子智泉に


次に生まれてくる子は必ず皇子であるように。


と必死の子授け祈祷を依頼してからひと月近く経った日の朝のことである。


赤子の泣き声で目覚めた嘉智子は、

明鏡が夜着をはだけて大きく張った両乳房を露わにし、右のお乳で正子に、左のお乳で信にお乳を遣るその姿を見て、

「そんなに無理しなくていいのに…」と後ろめたい気持ちで言葉をかけた。


生まれた子供が皇女だったことに落胆した実家の兄たちの重圧による気苦労でお乳が止まってしまった事で嘉智子は乳母の明鏡に負担をかけている自分を不甲斐ない、と嘉智子は思っていた。


そんな主人にあはっ、と寝不足の顔で明鏡は笑いかけ、

「一度のお産で双子が生まれる事もあります。女にお乳が二つあるのはこのためかもしれませんわねっ!…乳母としての当然の務めなのですから夫人さまは少しもお気になさらないで下さい、ね?」


とあっけらかんと言い切り、赤子たちの強い吸い付きにい、痛っ!と悲鳴を上げる様は自然と嘉智子の笑みを誘った。


やがてお腹を満たした正子が乳から口を離すと我が子の小さな体を嘉智子が抱き取り、眠るまで腕の中であやし続ける。御簾の向こうでは起き出した雀たちがぴちち、と羽ばたく。

それが嘉智子の母としての一番の幸せのひとときであった。


やがて給仕の侍女たちが朝の膳を運び入れ、お椀の蓋を開けた瞬間的、粥の匂いで嘉智子は吐き気をもよおした。


「ま、まさか嘉智子さま?」


お産からこんなにも早く?と明鏡は思ったが薬師を呼んで診てもらった結果…


「嘉智子、嘉智子はいずこにおるか!?」


と朝議を終えていそいそと廊下を早歩きさなさる嵯峨帝は嘉智子の姿を見るなり駆け寄り、


「そう、そう…なのか?」

「はい…」

と笑顔で目を見合わせた。


「でかした」と嵯峨帝は嘉智子をひし、と抱き寄せた。


橘の夫人第二子懐妊の報は実家である橘家にも届き、嘉智子の兄たちは、


「やはり密教の祈祷というのは効くものだなあ。もう御子を授かったのだからいいのではないか?」


と空海を呼び寄せて智泉に祈祷を止めさせていいものか相談すると、


「いいえ、智泉は皇子さまご誕生の報を聞くまで祈祷をやめません。

密教僧とは在家の者達の祈りや罪業を肩代わりして神仏と命懸けで渡り合う役割を担っているのです」


「し、しかしご誕生まで何ヵ月も智泉の世話する身にもなってみろ、勿体ないではないか?」


と言う三男弟氏の言葉に

「何が勿体ないのですか!?」と空海は思いきりよく両眉を跳ね上げ声に弟氏に食って掛かった。


「わしら密教僧は結願成らなかったら、はどとは最初はなっから考えず決死の覚悟で祈り続ける者たちなのですっ!


名族橘家の皆様に失礼を承知で申し上げますが、

あなた様方がご誕生を願っていらっしゃる皇子さまとは、将来天皇になるお方のを差してのことではありまへんか?」


そ、それはそうだが…と口ごもる相手に空海はさらに語気を強めて言った。


「ならば、なぜあなた方は真剣に祈らないのか?


我ら密教僧を薬師や陰陽師の如く気安く呼び付け、妹が皇女を産んだのが気に入らないから皇子を産み直させろ。と謝礼だけ払って祈祷を代行させればそれで済む、とお思いだったのですか!?


勿体ないから祈祷をやめさせる、やて?

ならば、ご出産までの夫人さまの無事をあなた達は願わないのか?


ぬるい、温すぎる。


橘家から将来の天皇を出す。

という事の重要性を考えていないのは…あなた達やないですかっ!」


予想だにしなかった空海からの厳しい叱責に橘家の男達は、


没落状態だった家の再興も天皇の外戚になって出世するという自分たちの野心を、


後宮に入れた妹ひとりに託してすっかり頼りきりになってしまっていた事を…改めて空海に指摘されて初めて深く、己を恥じた。


「愚かなことを聞いて済まなかった…空海。我々実家の者たちは妹を助けるために今後どのようにすればよいのだ?」


と申し出たのは三男の氏公だった。


どうやら橘家で話が解るのはこのお方だけらしい。


と空海は見定め、それならば、と氏公に向き直って、


「智泉や夫人さまに頼りきるのではなく、橘のお家の方々総出で余計なこと考えず、ただ夫人さまの健康と皇子ご誕生を、祈るのです」


と般若心経と真言が書かれた短い在家向けのお経と百八つの珠が連なる数珠を人数分渡してから皇子誕生の結願けちがんまで朝晩手を合わせ勤行するよう指示すると、


今度こそほんまに心を入れ替えて欲しい…と願いながら橘家を辞した後、思うところあって興福寺の徳一和尚宛に文をしたため、「なるべく早くな」と使いの者に念を押して奈良に送らせた。


さて、ここ山城国相良郡にある報恩院の堂内では手書きの普賢菩薩の絵姿と、空海から送られてきた人の背丈以上もある丸太を前に首をひねって座り込む智泉の姿があった。


普賢菩薩は人の子を喰らう悪鬼だった鬼子母神を改心させ眷属にした唯一女人を助ける仏である。

そのお姿を彫り起こせば必ずや夫人さまのお助けになる。


という叔父空海の助言で実果阿闍梨の掛軸を元に自ら普賢菩薩像を描き起こしては見たものの…仏像を彫った事もない智泉にとってはまず何処から手を付けていいのか分からない至難の技であった。


皮を削った木肌に墨で菩薩の姿を描いてのみを入れようとするものの…なかなかこれが出来ない。


「なんだなんだ、随分手こずっているようだな」


と背後から声がしたので智泉が振り返ると三十過ぎくらいの痩せて色白の男が智泉を品定めするかのようにじっ、と見つめている。


黒烏帽子に真っ白な直垂姿のその男はずかずかと堂内に入るなり智泉が描いた普賢菩薩を見て、


「ふうむ、婆羅門教の言い伝え通りの象に乗ったお姿か…これでは一本彫りは難しい。象から降りた菩薩立像でも差し支えはないか?」


といきなり専門的なことを聞くので「あ、あなたは?」と呆気に取られて名を尋ねると、


あぁ、悪い悪い。と感じのよい笑みを浮かべてから、


「我が名は椿井双つばいのならぶ、興福寺の仏師だ」

と名乗った。


椿井双、といえばその腕、彼にならぶ者無し、と呼ばれるこの国一番の仏師ではないか!


その椿井どのがこのような若い人だっただなんて…と驚いて何も喋れずにいると双は事情は全て心得ているとばかり両頬にえくぼを浮かべ、問われずとも語り出した。


「私はあるじの徳一和尚にあなたの手助けをするよう命じられた。大体の彫り方はお教えする、が、細かい部分は仏師にしか出来ない故な…空海阿闍梨は何から何まで手回しのよいお方よ」


と空海が選んだ丸太を見上げ、


「ふうむ、さすがは唐で工作を学んで来たお方だけある。いい木だ」と合掌瞑目してから表面を撫でさすった。


「私はねえ、智泉阿闍梨。僧みずからが衆生の祈りも業も背負って差しで神仏と向かい合う。という密教の姿勢は我々仏師と同じものだと思う。

解るかい?智泉阿闍梨。

私はあなたが気に入ったんだよ。最後の仕上げまで手伝ってやるから心置きなく祈祷に専念しな」


鎚と鑿を手にして下描きを施した木材を前に智泉は立っている。


「いいか、仏を彫る行為は覚悟と勢いでが必要だ。とにかく木の中に眠ってらっしゃる仏のお姿を現世にお出しするのだ。と思いを込めて最初の一刀を入れろ」


まずは正中から鑿を打つがよろしかろう。


と双の助言を受けた智泉が呼吸を整え、心を落ち着けて半眼になると正中の一点に鑿を突き立て、かーん!と堂内に響き渡るいい音を思立てていきり良く鎚で叩いた。


うむ、初心者にしては上出来。これならたやすく作業に没入でき、いい仏像が彫れるだろう。


と双は満足げに頷いた。


ほえぇ、ほえぇ…!と真夜中、何処かの部屋で赤子が泣きだすとその声で目覚めた別の部屋の赤子が泣き出し、つられてお乳が離れた幼子まで起きてぐずり出してしまい、


お世話する乳母たちが寝かしつけるまで一時はかかる。


そのような状況が何か月も続くと…


「もう限界でございますわ、お兄さま!」


と手に力を込めて夫の襟元に掴みかかる妃の高津内親王の寝不足でやつれたかんばせを気の毒に見つめながら前に嵯峨帝は、


「い、いま貴族の妻たちに乳人めのと(幼い皇族の養育係)の募集を掛けているから…あと少しの辛抱だよ」


と肩に手を置いて宥める事しかできなかった。


13才の時、高津と結婚してから数多の女人と契りを交わしたが何年も子を授からなかった神野親王だった頃、


もしかして、我は子を作れぬ身なのか?

と人知れず思い悩んだこともあった。が、春宮になって間もなく次々と妻たちが懐妊し、今や嵯峨帝は15人の子の父親なのである。


「子が生まれるのはめでたい事だが…生まれすぎるのもまた悩ましいことだ」


「既に貴族や武官の妻たちに募集はかけておりますが、彼女らも己が子の子育てに忙しく、乳人の役目を果たせる余裕のある女人はとても…」


と申し訳なさそうに頭を垂れる三守に、


「いるではないか」

と嵯峨帝は仰った。


は?と怪訝な顔で帝を見上げる三守に、


「この宮中に何人の女人が仕えていると思っている?三守。

特に宮中のある部署では上役が仕事を独占するせいで己が持てる能力と経験を生かせず、はらわた煮え繰り返る思いで日々仕えている女たちがいるではないか…」


帝のそのお言葉で三守は、


「まさか、内侍司ないしのつかさの女たちを乳人めのとにするおつもりで?」


そんなことは前例にない!と困惑を露にした。

内侍司の女官は天皇に近侍し、奏請と伝宣(内侍宣)、宮中の礼式等を司ったいわゆる天皇の秘書役とも言うべき重要な役職で、学問・礼法に通じた有能な女性が多く任命されていた。


帝の仰せになることは、


女人ながら政の一端を担う重要なお役を仰せつかっている。という高い矜持を持って日々仕えている女官たちから、


仕事を奪って子育てに専念してろと言っているようなものだ。


「せ、僭越ながらそれは、内侍司の強い反発を招きはしませぬか…?」


と危惧する三守を押し退けるように、


「そんなことはありませんわ」

と声を揃えて主張する女官たちが嵯峨帝の御前に立ち並んでいた。


「典侍藤原和子をはじめ内侍司の女官たち全員が後宮での乳人役を申し出たのだ。朕としては彼女たちの望み通りにさせてやりたい」


「私たち女官も次代を担う御子さまがたの養育を仰せつかって光栄に思っております」


と寸分の違いもない所作で団扇を掲げてから誇らしげに後宮に向かう10人の女官たちの背を見送りながら嵯峨帝は、


た、助かった…と御椅子の上で安堵の笑みをお浮かべになられた。


「これで乳母不足の問題は解決したようにみえますが…これは内侍司の長である尚侍の怒りを買い、新たな火種を起こすことになりはしませぬか?」


成程、これしか乳人不足の解決方法は無かっただろうが、果敢ではあるが性急すぎやしないか?


怒った上皇さまがどんな反撃に出るか解らないのに。と心配する三守に、


「違うよ、三守。火種とはわざと起こして邪魔なものを燃やし尽くした瞬間踏み潰すものなのだよ」


と決然としたお声でお答えになられた。


そうなのだ、幼い頃からお仕えしてきた神野さまの…

これが本性なのだ。


わざと獲物を興奮させて追い回した挙句、疲れて動きが止まった所を放った鷹の爪に掛ける狩りを得意としてきた嵯峨帝のやり方を思い出し、


じきに上皇さまも尚侍薬子も私にも思いもよらない早さで帝の策に嵌まり、狩られるのだろう。

と思うと、


これからは何があってもおかしくないのだ。


我々側近は帝のどんなご命令でも迅速に遂行するのみ。


と自分に言い聞かせるのだった。































































































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