第76話 火の継承

「明鏡さま、皇子ご出産。母子ともどもご無事です」


との報を三善高子から受けた嵯峨帝は側近である藤原冬嗣を呼び出し、

「手筈通りに事を進めよ」という密命を下された。


一時も経たぬ内に冬嗣の邸に呼び出された四十半ばの男、


名は広井弟名ひろいのおとなという。


祖を遡れば百済系の血筋で延暦の昔、父が井戸掘り職人として活躍したことから朝廷より広井造ひろいのみやっこという姓を賜った。


「後宮に務めるある娘が皇子をお産みまいらせた。しかし、娘はとうの昔に両親を亡くしていて帰る実家も無い…後宮の女にはよくある話だ」


下級職人である弟名は真冬だというのに顔中に汗を浮かべ、自分のような男が生涯お会いすることもない雲上人である筈の、


藤原家の貴族を前に緊張しきってしまっていた。


「そんなに畏まるな」と冬嗣は微笑みを浮かべて弟名の緊張をほぐしてやってから、


「そこでだ、その娘の血筋に多少なりとも縁あるお前に父親になってもらいたいのだが」


は、はあ…と喉で声をもつれさせた弟名は冬嗣の言うままにうなずくだけであった。冬嗣が弟名に提案しているのは皇子を産んだ娘の身元を確かにするための、いわば名義貸しの斡旋である。


わ、我が身が皇子さまの祖父になるだなんて畏れ多い…


と思いつつも冬嗣が名義貸しの謝礼にと提示した報酬が向こう10年は余裕で家族を養える内容であったので弟名には何の反論も無かった。


これより明鏡は公の場では、広井弟名娘ひろいのおとなのむすめ。と呼ばれる事となる。


「これで妻子を凍えさせないで済みます」と手付金代わりに炭と米を受け取って嬉々として帰って行った弟名の顔を思い出しながら冬嗣は、


ああ、これでまた俺は、文書偽造の咎を重ねてしまった…

と秀麗な眉目に翳りを落とすのであった。


愛妻の膝の上でため息をつく夫に美都子みつこは、


「そんなにいちいち文書偽造の咎だと落ち込むのではなく、拠り所の無い女人に立場を与え、お助け申し上げた善事だとお思いになさればいいのに、殿ったら…」


「そうか、そう考えればいいんだよな」


とわざわざ言葉にして気持ちを切り替えていかないと既に25人も妻を抱えていらっしゃる「あの」帝の後宮の管理はやってられない。とつくづく冬嗣は思う。


だって、今回の弟名の件で名義貸しの文書偽造を行ったのは、これで五件目なのだから。


膝の上でうたた寝をする夫のこめかみに白いものを見つけた美都子は、

まああ、なんとおいたわしい!まだ35だというのに。でも、我が家にいらっしゃる時だけはこの美都子、精一杯殿を労わってお務めでの労苦を忘れさせて差し上げますわ…


と美都子は夫の疲れた寝顔を優しく手で包むのであった。



あう、あう。と声を上げて手を動かす赤子たちのつぶらな瞳が興味深げにこちらを見上げている。


朕はこの日をもうずっと前から待っていたのだ。こうして最愛の女人たちとの間に生まれた子らを抱けるとは…!


右腕に嘉智子が産んだ正子、左手に明鏡が産んだ信を抱いて嵯峨帝は感無量だった。


「我が子がすくすくと育っていく様を見るのは人として生まれて一番の幸せであるな。智泉」


と話しかけられて智泉は「おそれながら僧侶である我が身には解らぬことで御座います」と馬鹿正直に答えた。


そ、そうであったな済まない…と赤子を抱きながら謝る嵯峨帝に智泉は、本来ならば自分以外の人間を人とも思う必要のない天皇であらせられる御方がまさか、自分のような若い僧に本気で謝って下さるとは。


と叔父空海の命で宮中に参内し、御目通りして間もない嵯峨帝に智泉は好感を持った。


「さて、智泉」

「はい」


「朕がお前を呼び出したのは他ならぬ夫人の頼みである、空海より阿闍梨号を授かったのはそなたしかおらぬと聞いてな」


と言ったところで信が身をよじって泣き出し、それにつられて正子も泣き出したので嵯峨帝はどうしていいか解らず硬直し、


「明鏡、明鏡!」と一番頼りにしている宮女の名を呼んだ。

すぐに出てきた明鏡が「あらあら、きっとお乳を欲しがっているのですわ」と赤子たちを両腕に抱き取ると泣き声がぴたりと収まる。


母親とは不思議なものだ…。と嵯峨帝と智泉がその様子を感心して見ていると、


「橘の夫人さまお支度が整いましたゆえ智泉どのはお控えになってくださりませ」


と命婦から言われた通りに智泉は平伏し、衣擦れの音と共に湯で身を清めたばかりの洗い髪の清潔な香りが鼻腔をくすぐった。


「顔を上げて下さい智泉阿闍梨」

言われて智泉は顔を上げ、

「空海どのから正式に阿闍梨号を賜った弟子はあなた一人だけとお聞きして強引な形であなたをここに呼びつける形になってしまいました…どうかおゆるしあそばせ」


御簾の向こうから透き通るようなお声が降りかかり、そこまで仰せになられて橘の夫人さまと思しき人影は何かをためらっているかのように沈黙する。


帝も妻の気持ちを慮っているような様子であり、気まずい沈黙が嘉智子と智泉の間に流れたが、

やがて「御簾を上げて下さいませ」と傍らの宮女にお命じになり、御簾が巻き上がった先には、今まで見たこともない美しいお顔をした貴婦人が座っておられた…


「わたくしは先月皇女さまを出産しました。けれど、実家の一族は皇子では無かったことにひどく落胆し『次の御子は必ず皇子であるように』と空海阿闍梨の一番弟子であるあなたに祈祷の依頼をしたのです…」


我が家の娘が帝の御子を無事ご出産なされただけでも喜ばしいことなのに、皇子では無かったから祈祷を受けてまで、


子を生み直せ。


とご実家から強要されているとはあまりに酷な話ではないか!


智泉は夫人さまをこのような切羽詰まったお気持ちにさせる橘家に最初は憤り、次に娘を後宮に入れて皇子を産ませその子を天皇にすることでしか一族の栄達を望めない貴族階級の人々に憐れみを抱いた。


「まあ、わしら新興の教えの坊主は貴人とほどよう付き合うて寺を建ててもらって食わせてもらう身の上。

帝御寵愛の夫人さまの頼みは断れへんのや…

智泉も阿闍梨としてしっかりしてもらわなあきまへんから最初の試練と思って、おきばりやす」


と本来なら空海が行うべき子授けの祈祷を彼自身は東大寺の十一面悔過じゅういちめんけか(修二会)に参加するため東大寺に籠らねばならず智泉に祈祷を代行させねばならなかった。という背景があったのだが。


「謹んで祈祷のご依頼、承ります」

と智泉はあのお美しい夫人さまのためなら自分は食を絶つことも火の中に飛び込むことも、できる!という不退転の覚悟で嘉智子の依頼を承諾した。


参内しようとする智泉の背中にあ、ちょっと。と一言。わざわざ呼び止めてまだ20才の甥っ子に


「ただし、夫人さまには惚れるなよ」


と釘を刺した空海の忠告なぞとうに吹っ飛び、橘家が都の外れに建てた報恩院というお堂に籠って智泉は本気の加持祈祷を始めるのであった。



いつの頃からだろう?

自分の中に燃え盛る炎のようなものがある、と気付いたのは。


大学寮を抜け出して山中を彷徨い、月明かりの下で出会った最初の師である戒明さまに、


さて、お前さんの中にある、揺らめく炎はなにかね?


と指摘され、自分は激情に駆られやすい性質たちなのだ、と長らく自分で思い込んでいたが。


次に炎に魅せられたのは受戒の翌年の正月のこと。勤操さまの誘いで参詣客の中に混じって実忠和尚のお堂の屋根近くに登った練行衆が振り回す松明の炎が爆ぜ、火花が細い橙色の雨となって降り注ぐ光景に、


ああ、光の雨が降る…と魂奪われたように魅入ってしまい、空海、おい空海!と勤操さまに揺すられてやっと現に還った。


大同4年の年末、良弁僧正の命日に儀式を行う練行衆に指名された僧侶や童子11人の名が発表され、その中に


咒師しゅし


という密教的修法を行う僧侶に空海が選ばれた。

「空海は東大寺に所属する僧ではないが、唐土の恵果阿闍梨より正式に密の教えを授かったこの国唯一の人物。皆、空海阿闍梨を咒師に迎える事に異存はなかった」


という実忠じきじきの指名は有難いが、まだ若輩者の我が身が新年の国家祈祷行事の大役を任されるのが畏れ多くもあったが…


何よりあの美しい炎のお祭りに参加できるのが嬉しくてたまらなかった。


東大寺に入ってからの空海の態度は

「我は新参者ゆえ何事も東大寺の皆様の教えのままに…」

と恭謙を極めたものであり、東大寺の僧たちは皆彼に好感を持った。


俗に「お水取り」と呼ばれるこの火と水のお祭りは58年前、当時まだ20代だった実忠と数人の若い僧のみで行われていた。


ご本尊である十一面観音像の前で過去一年間の罪を懺悔し、さらには五穀豊穣、国家安泰を祈念する儀式を光明皇太后は重く用い、新年を迎える国家祈祷の儀式として公認なさった。


まずは本行前日の大晦日の夕方、御幣を持った咒師しゅし空海が心の中で中臣祝詞を唱え、他の練行衆を祓って歩く大中臣祓から儀式は始まる。


年明けの真夜中(午前1時頃)、受戒。


和上を勤める実忠が練行衆全員に守るべき八斎戒(殺生、盗み、女性に接することなど)を一条ずつ読み聞かせて「よく保つや否や?」と問いかけると、

大導師以下の練行衆は床から降りてしゃがんで合掌し、戒の一つ一つに対して

「よく保つ、よく保つ、よく保つ~」と三遍誓う。


受戒を終えた練行衆は二月堂に上がり、行の準備をして着座する。法要の行われる内陣をわざと真っ暗にして、

堂童子が火打石で新しい火を切り出すのを待つ。やがて蒼白い火花が着いてその火を灯火台に写したところで半月に渡る長い供養が始まる。


我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう

私が今までにおかしてきた数々のあやまちは


皆由無始貪瞋癡かいゆうむしとんじんち

すべて限りない過去からの、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(無知)により


従身語意之所生じゅうしんごいししょしょう

私の体や言葉や思いを通しておかしたものです


一切我今皆懺悔いっさいがこんかいさんげ

私は今、これらのあやまちを、全て残らず告白し許しを請います


と声明を唱える中、急に法螺貝の音が鳴り響く中、空海はつとめて平静を装い声明に集中した。


実際に参加してみなきゃ解らなかった事だが、このお水取りのお祭りは仏教のみならず神道、修験道、古密教の儀式を満遍なく取り入れた極めて呪術的要素の高い儀式や。


何もない闇に火を点ける所から始まる儀式を目の当たりにし、


もしかして儀式をお始めになられた実忠さまもまた自分と同じく、


現世に生きる絶望の闇を晴らすために生まれたての炎の清浄さに救いを求めたのではなかろうか?


さて、12日目の深夜に行を中断し、咒師を先頭に五人の練行衆が二月堂下にある若狭井と呼ばれる井戸から水を汲み、二月堂へ運ぶこと三往復。最初はその途中の道筋を照らすために松明を掲げたのが始まりなのだが…


「回を追う毎に松明が増えてな、派手に燃やせば燃やすほど見物客も喜ぶので火の雨降らす達陀だったんという行事にしてしもうた」


と15日の儀式を満行した後で疲労なと微塵も感じさせない80代の実忠が、60年近く続けてきた儀式の思い出を語り、


「さて、いずれは密教で国家祈祷を行う身であるあなたにこの儀式を見せて何か参考にしていただければ、と思って咒師の大役を任せてしまいましたが…いかがでしたかな?」


とおもむろに空海に聞いた。


「はい…とても神秘的な儀式でした。とりわけお松明の炎が美しく、唐留学中に見た西国の民の火の儀式と同じような厳粛さをいたく感じました」


西国、という単語を聞いて実忠はわずかに目を細め、


この若者はわしが拝火教徒の子で自分が何者であるかを見失わないためにこの儀式を始めたことを、見抜いているな。


なんと聡明な男だ。という驚きを内に隠しつつも行事を終えて馳走をふるまわれて寛いでいる東大寺の高僧たちを前にとんでもない発言をした。


「あなたが第一の仏と掲げる大日如来は華厳宗が掲げる毘盧舎那仏と大して変わりはない気がするが、いにしえの大陸での密教ではどうだったのか?」


「は、畏れながら毘盧舎那仏も大日如来も梵語ではマハー・ヴァイロチャーヤ。と呼ばれてまして…密教ではお二方とも同一である。という教えを受けました」


突然華厳の教えの真髄に触れる会話を始めた権別当さまと新参の密教僧に周囲はしん、と静まり返る…


「よかろう、東大寺内に密教道場を建てる事を許可する」


この国第一の教えである華厳宗が、空海の密教を承認した瞬間であった。


実忠はこの場にいた僧たちに、

「みな、異論はないかね?」と念のため尋ねたが、


お若い頃は建築別当の職に就かれ、建物としての東大寺を完成させたのは他ならぬ実忠和尚なのだ。


実忠さまなくして今の東大寺は無し。


とまで言われる伝説の人物がなさる事に何の異論があろうや。

と僧侶たちは目を伏せ、実忠の決断を是とした。


「新年初めに生まれた祭りの炎を、お前なりに密教の加持祈祷に使うがいいさ」


声明の習礼のために東大寺入りしてから儀式を終えるまで約一月の間寺に籠っていた空海にとって、外の光は眩しすぎて足元が覚束なくなる程だった。


南大門をくぐって東大寺から出た空海は

さて、大安寺に寄させてもらって気が済むまで寝るか。とくわあっと大欠伸をした。


しかし不思議やなあ。

何もかも終えてもなんや、ふわふわとした綿の上を歩いているような心持ちがする…


そして、実忠が東大寺を去る空海に肩に手を置き、慈愛に満ちた目で最後に言った。


「この国を、頼むよ」と。


海の向こうの大陸のはるか西の、今は滅びた砂の国で生まれた清浄な祈りの炎は時と距離を越えて、渡来人の僧実忠から日の本の僧空海に確かに継承された。







































































































































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