第55話 阿保の本音

朝まだき

小鳥のさえずりを聞きながら明鏡みょうきょうは夢を見た。


それは母、明慶みょうけいが病身を無理に起こして化粧をする姿。


乳房が見えるほど胸元をはだけて青白い肌に白粉を塗り、唇には紅。額に花子かしを付けて髪を結い上げて一番上等の衣装を身に纏って父を待つ母は、まるで仙境に住まうと云われる仙女のように美しかった…


父は10日に1度の間隔で夜の闇に隠れるように私たち母娘のもとを訪れては「逢いたかったぞ」と母を抱き寄せ、眠気をこらえて居る私を膝に乗せて

「お前は会う度に大きく美しく成長して父を驚かせるな」

と目を瞠り、殿方にしては綺麗な手で私の頬や髪を撫でてくれたものだ。


酒肴の支度をする母に父は「無理しなくてよい」と手酌でお酒を飲み、どうだ元気だったか?今日は良い薬湯を貰って来たぞ。と手ずから薬湯を飲ませて細やかな優しさを見せる。

父はやはり、母を深く愛していたのだろう。


ふと夜中に目覚めた時、泣いている母を抱き寄せた父が「いつか必ずお前たちを正式に迎えに行くから…寂しがらせて済まない」と絞るような声で詫びるのを見た。



幼心に見てはいけないものを見てしまった。と明鏡は思い、すぐに寝たふりをしてそのまま寝入ってしまった。そしてそれが間近で父を見た最後の夜だった。



けさは雀の声が大人しいこと…と思いながら明鏡はいい薫りのする衣の中で目覚めた。


宮女たちが忙しく立ち働く音で、しまった、自分は寝過ごしてしまったのだ!と、明鏡は慌てて飛び起き、衣がはらりと落ちて全裸になっている自分に気づいた。


あ。私は昨夜春宮さまと…と昨夜のことを思い出して頬を上気させ、恥ずかしくなって頭から衣を被り、繭のようにくるまって座り込んでしまう。


そんな明鏡の様子を微笑ましく見ながら嘉智子に髪を結ってもらっている春宮神野は、

「よいよい、今日は昼過ぎまで休んでいいから」と優しく声を掛けた。嘉智子が神野の身支度を整えているのを見て明鏡は

「す、すいません、嘉智子さまにお仕事をさせてしまって…」


と上ずった声で急いで衣服を着ながら春宮さまのご側室に労働をさせてしまった事を謝した。

「いいのよ、わたくしだってついこの前まで神野さまの侍女で、こうやって毎日お世話をしていたのですから」

と普段通りに嘉智子が接してくれたのが明鏡には有難かった。が同時に、


やはり神野さまは嘉智子さまのものなのだ…


と胸の奥ちくり、と傷んだのも事実だった。


「それにしても、やっと明鏡も春宮さまのお手付きになった訳ね、明鏡」

と神野のもう一人の側室、多治比高子たじひたかこが読み終えた漢籍の巻物から顔を上げ、片付けるようにと明鏡に巻物を手渡すと「これで明鏡も『仲間』ですか」と意味ありげに細い目をさらに細めてにやりと笑った。


「はぁ…、ゆうべいきなりの事だったのでまだ実感が」と照れて首をすくめる明鏡に高子は「何年も『あの』神野さまにお仕えしていてあなただけ生娘のままでいたから変だ妙だ、と他の侍女たちは噂していたのよ」

「噂とは?」

「あなたが実は先帝の落とし子で、妹にあたるから神野さまは手を出さない、とかもしかしていわくつきの貴族家の姫だからでは?とか、ね」

「はあ!?」


陰で自分がそのように言われていただなんて、しかも、噂の内容が当たらずとも遠からずな事に明鏡は、


女人の勘働きとはなんとは恐ろしい…!と冷や汗をかかずにはいられなかった。

彼女の母、明慶はまだ若くて身分低かった頃の桓武帝と百済王明信との間に生まれた娘で明信の父、敬福の子として育てられた。つまり明鏡は桓武帝の孫娘で神野とは叔父姪に当たる。


神野自身も明鏡の実の祖母、明信に出自を確かめるまでは、

もしかして実の妹なのではないか?と怪しんで彼女に触れようともしなかったのは事実である。


「もちろん根も葉もない噂よ。あなたの後見人は先の尚侍明信ないしのかみみょうしんで、百済王家の縁者で両親を亡くして宮仕えに来たことは皆知ってるし、身元のあやふやな娘が宮中に入れる訳がないじゃないの」

まったくひまな侍女たちだこと!と高子は鼻で笑って侍女たちの噂を一刀両断したが、


高子さま…それ当たっております。私の母は隠し子だけど皇女で、父は、今上帝の最側近である北家の参議、藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろです。


野心家の父が娘の私を政治利用するのではないか?

と恐れた祖母明信がかどわかすように私を百済王家から連れ出し、見習いの宮女にしてしまったのです。


いえ、もしかしたら祖母は、

母の出自を知らない父が私を桓武帝の後宮に差し出して…実の祖父が孫娘と交わる。というおぞましい事態は避けなければ。と考えた末の処置だったのかもしれません。


「あら、今日は涼しいのね。と思っていたら」

と高子が御簾の間から外を覗くと。お昼過ぎの空に黒々とした分厚い雲がかかり、やがて大粒の珠のような雨が庭の地面や草木や、廊下、高子がめくる御簾までばらばら、と音を立てて降って平安京に久方ぶりの涼をもたらした。


大同元年(806年6月8日改元)の、梅雨の始まりである。




「阿保よ、お前は先帝の皇女である伊都内親王いづないしんのうと結婚するのだ」


と久しぶりにお会いする父、平城帝に命じられた阿保あぼはいかにも不本意そうな目つきで父を見上げた。


父親に似て色白で端正な顔立ちをした少年、阿保親王あぼしんのうはことし元服を済ませた13才の世間では立派な「おとな」であり、元服と同時に親同士が決めた許嫁と結婚するのはこの時代の皇族にとっては当たり前の事である。のだが…


「なれど父上、伊都内親王さまは確かお年は」

と阿保が問うとやはりそう来たか、と思いながら平城帝は指先をこめかみに当て、顔をしかめながら答えた。


「ことし3才になったばかりだ」


「父上、いえおほきみ

天皇のご命令とあらば謹んで受けるつもりですが…いくらなんでも3才の妻は幼なすぎでは?」


「お前の言いたい事は解っている」と平城帝はなだめるように息子の両肩に手を置いてじっと目を見て説得にかかった。

「なあ阿保よ…伊都は朕にとっても愛しい末妹で、父親を亡くしたばかりの不憫な子だ。それに、皇女の結婚相手は皇子と決められている。

いいか?阿保。お前は『保護者』として伊都を引き取り、10年待って正式に夫婦になればいいだけの話だ。そうだろ?」

ほらきた。と阿保は思った。そうやって父上は天皇らしくない馴れ馴れしいそぶりをしてみせて臣下たちを取り込もうとする。


「伊都さまの母は南家、藤原乙叡ふじわらのたかとしの娘、平子ひらこさま。…所詮、南家との政略結婚なのでしょう?」


と阿保が父帝の本心を見透かすように尋ねると平城帝はふっ…ふはははは、とさも愉快そうに笑って

「その通りだ阿保。お前は聡い子だな。


いいか?皇族にとって結婚もまつりごとの一つなのだ。

誰の娘と婚姻してして子を産ませるか、生まれたのは皇子か皇女ひめみこか、それが天皇家と外戚の家を大きく左右するのだ。

理解しているようで父は安心したよ」


と息子の頬をつるりと撫でてからもう下がってよい、と阿保を下がらせ、入れ代わりに呼んだ7才の息子、高岳親王たかおかしんのうが乳人に伴われて現れると平城帝は明らかに相好を崩して「おいで」と高岳を呼ぶと高岳は元気よく駆け出して、父帝の膝に座った。


「父上、わたしの字を見て下さい!」と高岳は手習いの紙を広げて父の眼前に押しつける。

「おお、おお…ためらいの無い堂々とした字だね。なあ尚侍、阿保は人見知りで引っ込み思案な子だが、幼いのに時々鋭いことを言う。驚かされるよ」


と平城帝は傍らに控えていた薬子に軽い口調で話しかけた。


「人見知りなのは用心深く賢い御子だという証です。阿保さまは帝によく似ておいでです」

と口元に微笑をたたえて薬子が答えたので気を良くした平城帝は

「なあ…甘南美かんなびとの結婚話だが、受けることに決めた」

と最愛の女人に振り返ってから告げた。桓武帝の皇女、甘南美内親王の母は薬子の妹、藤原東子で薬子の姪に当たる。身元も血筋も、天皇の后として申し分ないのだが…


「なれど甘南美さまはまだ6才。この縁組は兄の仲成が推しているだけで」と口ごもる薬子に「いいのだ」と平城帝は言い切った。


「いまさっき我が子に幼な妻を押しつけて政略結婚の必要を説いた朕が、それをせぬ、という訳にはいくまい…なあ薬子」

「はい」

「この高岳の母は代々伊勢神宮の造営を務める伊勢氏の娘の継子つぎこだ。もし伊勢氏の血を引く高岳が天皇になれば天津神の怒りは和らぐのだろうか?」


「そ、それは…いち宮女の私には解らないことです」

と薬子は目を伏せた。前の斎王で平城帝の妃、朝原内親王に毒入りの酒を注いだ時それを見抜いた朝原の霊力と「飲みなさいよ」と平然と毒酒を突き返す胆力と、


もし後宮の女たちに何かがあれば、尚侍の不始末として責任を取って貰いますからねという宣戦布告ともとれる言葉を思い出し、身震いしたからだ。


神や仏などは無力で愚鈍な民か血筋がいいだけのお飾りの帝を操るだけの道具でしかない。


いいか?見えないものは、利用するためにあるのだ。


結局何も信じない者が最後に生き残るのだ。


と父、種継は常々言っていた。


藤原の者は神々の系譜に、藤原の先祖もその中にいた。

と高祖父のふひと(藤原不比等)が古事記をはじめあらゆる史書を改竄したおかげで今の地位を得ている訳だから、種継の言葉はある程度真実なのだろう。

しかし…


父種継は、より現実主義者だったあの男、山部王こと桓武帝に殺されてしまったではないか。


むしろ藤原の者は、見えないものに利用されているのではないか?

と父の横死以来そんな考えがふと頭をよぎる薬子であった。


「さいわい春宮である神野にはまだ皇子が生まれていない。後継のことについてはいずれ神野と話をつけねばな…」


そう言って高岳に手習いを教える平城帝の横顔は、目だけ異様に光らせて笑っていた。


どうして父上は、後宮を汚して追放された女、薬子を傍に置くのか?

どうして父上は、大勢いる子らの中で弟の高岳ばかり溺愛するのだ?

どうして父上は、臣下の不評をお耳に入れていながらもちっとも反省なさらぬのか?

どうして父上は、天皇という至尊の地位にありながら藤原式家のいいなりになってらっしゃるのか?


どうして…と自問し続ける阿保の心中は父、平城帝に抱いている情けなさやら恥ずかしさやらの憤懣やる方無い気持ちがごちゃ混ぜになって、従者が戸惑う程の早足で庭園を歩いていた。



皇子として生まれて、周りの者たちは形だけは皇子さま皇子さま、と丁重に扱ってくれるけど、と阿保は池を泳ぐ鯉の群れに目を落とした。


さっきの結婚話といい、結局皇族というのは何一つ自由にできない人間たちの総称ではないか!と若い皇子は怒りをそのまま行動に移し、ひときわ白く大きな鯉に向けて石を投げた。が、鯉はするりと躱して白い飛沫が上がるだけ。

その瞬間、阿保の中の抑圧の蓋が弾け飛んだ。


「おやめくだされ、親王様!」と従者が止めるも「うるさいだまれ!」と阿保は石を投げ続ける。


ちくしょうめ、ちくしょうめ…何一つ思い通りにならないなら、こんな現世めちゃめちゃになってしまえ!阿保はさらに大きな石を持って白い鯉に狙いを定めたその時、


「こらっ!」とひときわ鋭い叱責の声を耳元で浴びた。


「どこの貴族のばか息子か知らんが、その池の鯉は内裏のものであり、国のものだ。国の財産に手を掛けた罪でどう罰してくれようか?」


と強い力で腕を掴み、我に帰らせてくれた衛士えじ(当時は近衛兵)の顔を見て阿保は「あ、安世叔父上」と声を上げた。

「なんだ阿保さまではないですか…怒鳴ったりして失礼いたしました」と衛士大尉、良峯安世は阿保に向かってうやうやしく無礼を詫びた。


あの馬鹿な兄帝の子にしては、大人しいが出来のいい皇子。


と安世は阿保のことを認識していたので先程の阿保の自棄な行動から、ははあん、さては何か理不尽な目にでも遭ったのではないか?と思い至り、


「阿保さま、今日はこの後ご予定は?私は東宮に行く用事があるのでご一緒しませんか?」と優しく阿保を誘った。

「いいのか?」小さい頃よく一緒に遊んでくれた神野の叔父に会える!と思った阿保は目を輝かせた。



ひとしきり阿保の愚痴を聞いてやった春宮神野は急に軽やかな声ではっはっはっは!と手を打ち、笑い出した。


「な、何がおかしいのです!?叔父上」

「いやあ…三才の伊都と結婚させられるとはねえ。昨夜の私よりも不運な皇子がいたか、と思うと哀れやらおかしいやらで…」


昨夜、神野は二人の姫を妻に迎えた。

一人は百済王慶命くだらのこにしききょうみょうといい寵愛する貴命の姪で年は14才。渡来人特有の彫りの深い顔立ちをした華やかな美少女である。

「慶命といいます。一身にお仕え致します…」


と長い睫毛を伏せて慶命が一礼する隣でそれを真似て「藤原緒夏ふじわらのおなつでございます」と自己紹介した右大臣、内麻呂の娘は…

「緒夏どの、年はいくつにおなりかな?」と笑顔をひきつらせた神野の問いに

「はい、10さいにござります。なにごとも春宮さまのおおせにせよ、と父から言いつかかってまいりました!」

と幼い姫は幼いながらにきりっ、と顔を上げて堂々と挨拶をした。

「では、緒夏。今宵は疲れただろうから早く寝なさい」

「はい!」

もちろん神野はその夜は慶命と床を共にした。


叔父上の結婚相手は10才…

と絶句した後で阿保は「右大臣はいったい何を焦っているんでしょうか?娘に皇子を生ませて外戚になるのが貴族の出世の道でしょうが…あと5年は待たないと」と首をひねった。


「藤原の他の分家に負けたくないのさ、阿保。お前は南家、私は北家、そして…帝は式家の甘南美と縁付く」


父上が、薬子の姪の甘南美さまと?


それは阿保には初耳だった。

「それは、式家が天皇の外戚になる事ではないですか…父上はどうしていちいち式家の言いなりになるんだっ!」


あれは7才の頃、父と薬子が息を弾ませて抱き合う光景を間近で見た事がある。


自分は幼かったので父と薬子が何か格闘し合っているのか?父か薬子のどちらかが殺されてしまうのではないか?と思うと恐ろしくなり、慌ててその場から逃げ出したのだが…


10才を過ぎた頃にあれは、男女のことだった。と初めて知った。


その頃には薬子は不義密通の罪で宮中から追放されていたし、父上は自分の母の葛野藤子や高岳の母の伊勢継子を寵愛していたので過ぎたことだ、と思っていたが…


「祖父、桓武帝の崩御の翌日に薬子を宮中に呼び出すとは…愚かにも程があります!父は、天皇になる以前に人として我慢をすべきところを出来ない性分なんですっ」


と阿保が吐き出したところで神野は急に強張った顔つきになり

「阿保」

「はい」

「いま言ったこと、決して私や安世以外に言ってはならないよ。みだりに本音を言って失脚したり死に追いやられた先人はいくらでもいるからねえ。特に、皇族の言葉は重いんだ。気を付けよ」


阿保は急に今までの放言が恥ずかしくなり、「はい…」とうなだれた。


「いやあ、阿保さまは元服したばかりなのに宮中の状況を把握してらっしゃる。聡いお方だ。ねえ、春宮さま」


この皇子は使えるぞ。と安世は神野に目配せをした。


使えるな。と神野は目線で返し、

「なあ阿保、私はずっと東宮にいるため、兄上の政の詳しい状況が解らないんだ。次の天皇になるになるためにはもっと学ばなければならない、帝に近い人物が私に色々教えてくれると有難いんだが」


と神野は不満だらけの甥に手を差しのべた。


阿保は叔父の優雅な振る舞いに

これこそ、皆から尊敬される天皇としてのあるべき姿を見た気がした。


「はい、喜んで」と叔父の手を取った瞬間、阿保は神野の密偵となった。


































































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