第54話 翡翠の数珠

具文珍よ。

なぜ躊躇っているのだ?

その毒の丸薬を我が口に押し込んで水を飲ませれば事は済む。

ふふふ…お前、この期に及んで畏れているのか?


また、し損じるのではないか、と。


父徳宗を毒殺したのも、毒酒を飲ませた宮女を口封じに殺したのも、即位した私に早々に毒を盛ったのも…

文珍、全部お前がやったのであろう?


そんなに私が憎いか?邪魔か?

そうだろうな。私は宦官から軍権を剝奪しようとしたのだからな。私は卒中でものがうまく言えなくなり口伝役のお前は「陛下の勅である」と言い置いて「自分の意志」を臣下たちに命じていたのだからな。


私は玉座の上でお前の傀儡を演じてやったよ。

皇帝という権威の盾の裏であるじの命を弄び、権力をほしいままにする。

宦官のやることは秦の趙高の頃から何も変わらぬな。


どうだ満足だったか?愉しかったか?


でも殺そうとするお前が脂汗を浮かべ怯え、殺されようとする私が早くやれ。と眼で合図しているだなんて…滑稽じゃないか。


具文珍よ。お前は一年もの間全ての真相を知る私に見られている事に耐えられなくなったのだろう?

逆にお前が哀れでならないよ。


さあ宦官具文珍よ、私を殺せ。


「陛下、お赦しください…」


と宦官具文珍は親指で主の口をこじ開けて毒の丸薬を押し込み、水晶の水差しで水を流し入れて主の口を塞いだ。


短い痙攣を何度かした後で彼の主がこと切れたのを確認するとその亡骸に拝跪し、天蓋から飛び出して大袈裟に泣き叫び


「上皇帝陛下ご崩御!」と触れ回った。


ああ、これでやっと自由になれる…


文珍よ。

上皇帝と宦官と立場は違えど私たちは


この肥大し切った大唐帝国の、王城の囚われびと同士だったのだ。


既に天意を失った国で生きていても何も面白くはない。さて、天意を追ってあの若き青龍の所へ行こうか…



「あーあ、暇だ暇だ。ほんと退屈で死ぬ」


と若者は呟き、手のひらで碁石を弄んで白黒の石を宙に放り投げた。彼はここ越州に滞在する日の本の留学生の中ではずば抜けて背が高く、顔の彫りが深いので、


「あなたは大陸の人の血を引いているのか?」

と唐人たちから幾度ともなく聞かれ、その度に

「倭国には帰化した渡来人が大勢いますからねえ、そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

と深く切れ込んだ二重瞼を細めて微笑んで答えるのであった。


誰が誰の血を引いている。などとこだわっているのはその地位で飯を食う王侯貴族か、自分の心に拠り所の無い奴だけさ。

と肚の底では質問者を侮蔑しているのだが。


彼の名は伴雄堅魚とものおかつお

碁学生として空海と共に海を渡り、棋待詔きたいしょう(唐王朝公認の碁の官職)のもとで碁を修めた遣唐使である。


さて、彼が今もたれている壁の小窓から甘やかな男女の囁き声が洩れる。雄堅魚は窓からその様子を覗き込み、胡人の伎女と戯れている男の顔を見ると急にいたずら心が沸いてきて手のひらに乗せた白い碁石を指で弾き、それは見事に標的の後頭部に命中した。


「あっ!」という叫び声と共に男は頭を抑え、続いて哎呀アイヤーという伎女の呆れた声と衣擦れの音。室内はちょっとした騒ぎになっているようだ、と雄堅魚はほくそ笑んだ。


「このいたずら者が!お前のせいで女が逃げてしまったではないか!」

といたずらされた怒りと房事の最中を見られた恥ずかしさで顔を真っ赤にした橘逸勢が窓から手を伸ばして雄堅魚の胸ぐらを掴んだ。


「顔中に紅が付いていますよ」

と言われ逸勢は慌てて手の甲で顔を拭った。が、手の甲には何も付いていない。

「き・さ・ま~…」

とさらに怒りをたぎらせる逸勢に向かって雄堅魚はにやにや笑い、

「ねええ、逸勢さまもその色事の汗と女の匂いを落としに今から湯に入りに行きませんか?もちろん空海と一緒に、ね?」と温泉に誘うと「それはいいなあ」と逸勢は素直に肯いた。


時は元和元年(806年4月)、春。

唐の越州(現浙江省)は各地に温泉が湧き出ており役目を終えて長安から出立した遣唐判官・高階遠成たかしなのとおなりと帰りの遣唐使たち一行は越州の宿に滞在して任務と苦学の疲れを癒している。


…というのは聞こえがよいが、実際は任務から解放された遣唐使たち、


長安での任務を予定よりかなり早く切り上げた遣唐判官の滞在費用が余ったので、帰国して取り上げられる前に使ってしまおう!とその金で美酒美食、女を買って愉しみ、無料で温泉に浸かり放題という、開放的すぎる日々を送っていた。


金と暇を持て余した役人のする事は時代国籍を問わずいつも同じ。いう歴史の不文律をこの第18遣唐使団も実践していた。


そう、空いた時間があれば各寺を巡って僧たちに教えを乞い、最新の建築工学、地理学、医術などを寝る間も惜しんで学ぶ空海以外は。

唇まで湯に浸かった空海は今にもこの場で眠りこけそうな様子だった。


「まるで何者かに取り憑かれたみたいな猛勉強ぶりだな。空海は…長安では余裕の天才児だったのに

越州に来てからは定規とぶんまわし(コンパス)持って図面と睨めっこして苦学してるなんてなあ。なんかぶつぶつ言って鬼気迫った様子なんで怖くて声をかけづらかったんだぞ、空海」


「へえ、無事日の本に帰ったらさあ密教を布教しよう…といってもちゃんとした密教寺院も、曼荼羅も、八面六臂の仏像も、日の本にはあらへん。

ぜんぶぜーんぶわし一人で作り方覚えて職人たちに指図せなあかん、という事に長安を出る直前気づきましたんや…」


「へえー、それでつちのみを持って木工職人たちに交じって見習いかい?って気づくの遅くないか!?長安じゃ今を時めく空海阿闍梨が、ねえ」


と雄堅魚が空海の頭に冷水で濡れた布を被せ、「坊主頭に似合うぞ!」と愉快そうに笑った。

「越州で全て吸収したい焦りは解るがしばしここで休んで、寝ろ。おまえこのままじゃ倒れる」

「冷たっ!でも気持ちよくて頭が冴えます…」

と岩風呂の淵にもたれて冷たい鉱泉を飲んで一息ついた空海は


「そういえば逸勢さまは胡人のおなごはんが好みだそうで」

といきなり逸勢に向き直った。


「な、なんなんだ急に!?」

「いいえ、国元に好きなおなごはんが居る。って聞いてたからてっきり逸勢さまは女買いをなさらないかと。

ふうん、へええ…」


こいつ、西明寺でのあの夜語りをいまここで言うか?

二人だけの秘密って口止めしたよな?


「何だよそのひがみっぽい口調は!お前越州に入ってから性格と口の悪さに拍車がかかったな」

別に、と空海は口をつぐんで湯でばしゃばしゃと顔を洗う。


「そうなのか?逸勢どの。ならば帰国早々その女人を娶らねばなあ」


と会話に口を挟んで来たのは遣唐判官でいちおう現時点での空海たちの上司にあたる高階遠成たかしなのとおなり

さっきまで妓女を左右に侍らせ、だらしなく笑って通訳におい酒持って来い!と命じていたが若者たちの話が耳に入って興味をそそられたのだ。


「…いえ、その女人は身分が高い家の姫でとても結婚なんて」

と逸勢は言葉を濁した。

まさか相手が親王様の寵姫で従妹の橘嘉智子だなんて…言える訳ないではないか!


「では、私の姪を添わせようではないか」

「は?」

「年はことし15で、気立ての良い娘である。あなたは帰国すれば橘氏を背負う身だ。そろそろ妻を持たねば、なあ?」

「そ、その前にまず無事に海を渡って帰国してからでして…あの、その…」

と口ごもる逸勢に


「い~い話じゃないですか~、逸勢どの。橘家と高階家との縁組は申し分ない」

と雄堅魚はにやけ顔で煽り、


「逸勢さま、ご婚約おめでとうございます」

と空海は満面の笑顔でとどめを差した。


「よし決まった!無事帰国したら橘家と高階家の縁組を帝にご報告申し上げよう」

と遠成がぽん!と手を打ち、話がまとまってしまった。


なんてことだ…温泉の中での会話の勢いで人生の一大事が決定してしまうなんて!


「それになあ逸勢さま」

と耳元で空海に囁かれた逸勢はつい振り返ってしまった。


「ご指摘のようにわし、憑りつかれてますねん」


と据えた目をした空海がふうっ、と学友の口の中に息を吹き付けた瞬間意識は消失し、逸勢はぶくぶくと湯の中に沈んでしまった。

「わ~、逸勢さま~!」

湯治場はしばらく騒然となった。



「湯あたりですな。気が頭に集ってのぼせてしまったのです。頭を冷やしてしばらく寝てれば治ります。ここの鉱泉は気付けにもよいからよく飲ませることです」


と言って往診の医者は帰って行った。


は、そのようにいたします。と頭を下げて見送る空海に雄堅魚は「俺は聞いてしまったぞ。憑りつかれてた、ってどういうことだ?空海、逸勢さまに何をしてくれたのだ」と詰め寄る。


「言葉の通り越州に入ってからのわしは『とある御方』に憑りつかれておりましてな…正直困っておりました。隙を見て逸勢さまの躰にその御魂を移したんでえろう体が楽になりましたわー」

と空海は清々しい顔してばきぼきっと首や肩を鳴らした。


「ならお前が身に付けた密教の秘法とやらで調伏できなかったのか?密教の後継者のくせに」

と呆れた雄堅魚に問われた空海は、

「それはいつでも出来たんやけどね、相手が調伏していいものか?ってくらい偉い御方なもんで。雄堅魚はん、いまからこの部屋に誰も入れんように戸にかんぬきをかけて下さりませ」


調伏するのをためらう大物って?


と訝しく思いながら雄堅魚は言われるままに扉に棒を通して閂をかけた。すでに空海は逸勢が横たわる卓の傍で香炉の炭に火を起こしその上にぱらぱらと護摩をかけて即席の修法を始めている。


空海は翡翠の数珠を握り締め、数珠の中の両手で次々と印を変え真言を唱え始める。


程なく、気を失って呼吸をしていただけの逸勢が急に苦悶の表情を浮かべてぶつぶつ言い出した。


「さあ、いい加減出て来てわしらに付いてきたわけお話になって下さい…


順宗上皇帝陛下!」


と逸勢の鼻先で空海が鋭く叫ぶと逸勢は、いや、彼の体に封じ込まれた順宗上皇帝が上半身を起こして目を見開き、


「いかにも」と朗々とした声で答えたのである。


「なぜ王城を離れ我々小国日本の遣唐使たちについていらっしゃったのです?陛下」


「もう死した身だから李誦りしょうと諱で呼んでくれ。空海…お前が謁見に来た時、おまえらの故国日本に行ってみたくなったから下賜した数珠に本気の魂込めをしたのだ」


「世界一偉大な大唐帝国とご子息の憲宗皇帝を捨てて?言っちゃなんですが日の本は小国でほんっと何にもない国ですよ。李誦さまを満足させるものは」


「それは違う」と順宗は空海の言葉を遮った。


「日本国には唐より優れたるものあり」


「何でっか?」


「人だよ。たった半年の修行で国師恵果から密教の全てを伝授された空海、私の御前で対局してわざと師に敗れて面子を保ったそこな碁師、伴雄堅魚、そして…いま私が入っている橘秀才の芸術的才能。

かように優れた才能を持ちながら驕らず、威張らずそれでも謙虚に学び続ける人々を育んだ日本とは何なのだ?行ってみたいと思うのが当然だろうが」


「やはり付いてくるつもりでっか…」

空海はじんわりと痛むこめかみを押さえた。


「それに、ここだけの話ではあるが」


「何でっか?」


「天意、既に唐を離れ西の小国に移れり。

とある占術師が言うた。もう20年も前の話だ…神獣鳳凰が李家を見捨てて倭国に飛び去ったのだ。

解るか?もう国土だけ肥大し切った大唐帝国は辺境にまで治世が行き届かず、地方の農民の不満の声も力で抑えつけるだけ。そんな国に未来なんかあるのか?空海。


それは宦官に毒を飲まされ殺された我が身を鑑みれば分かる事…」


「やはりそうでしたか」と生前に謁見した時の順宗上皇帝の黒ずんだお顔と結構離れた位置なのに順宗の体から漂う体臭を嗅ぎ取って…

何と言う事だ!

至尊の身であらせられる皇帝陛下が、日々の膳に毒を盛られているとは。

と既に李家を浸蝕している宦官たちの専横と、近い将来の唐王朝の滅亡を

ひしと肌身に感じたのだ。


おいたわしや李誦さま。


と空海はひとりでに熱を帯びる翡翠の数珠を握り締め、


「この世で一番不自由な御方は、国の頂に立つ高貴な御方なのですね…」


と涙を浮かべた。

「そう、その不自由な御方の事なのだが」とそこで順宗は言葉を切り、真剣な目で空海を見つめてこれからの大事を告げた。


「天意を背負った若い王が日本でお前を待っている。青龍空海よ、鳳凰を肩に乗せたその聖太子を助けるのがお前のさだめ。迎えの船が来たらとくと帰れ。そして若い王を支えよ」

と順宗は空海の肩を叩いてから笑みを浮かべ、すうっと逸勢の体から抜けて行った。


途端に逸勢の体が仰向けに倒れ、う、うーんと言う唸り声はまさしく逸勢のものだった。


「…気が付かれましたか?逸勢さま」

「ああ、ずっと雲の上を踏んでいるような心地だったよ…他人に自分の体をいいようにされるのはあまりいい気分じゃないな」

と、そこまで言った逸勢はせり上がる猛烈な吐き気に耐えきれず、大量の胃液を床にまき散らした。


「…雄堅魚どの、桶と鉱泉の入った水差しと、替えの衣を」

と頭から吐瀉物を浴びた空海はつとめて平静な口調で雄堅魚に指示した。


空海が気持ち悪いくらい穏やかな時は、怒っている時である。

と出航から二年近くの付き合いで空海の人となりが解っている雄堅魚はあ、ああ…と閂を外して外に出、湯屋に勤める唐人から桶と水差しを受け取りながらも


絶対秘密とされている密教の修法と、順宗皇帝と空海の対話だなんて…


俺はとんでもない光景を見てしまったのではないか?


と首をひねったが、

政治にも仏教にも関係のない碁師の自分に見られても空海にとっては些少ごとにもならぬか。と思い直した。


しかし、逸勢の吐いた物をまともに浴びた空海の顔ったら…


俺は溜飲が下がったぞ!


と後で誰にも見られぬところで雄堅魚は笑い転げた。


それから4ヶ月後、迎えの船の到着の報せを受け明州に渡り、いよいよ帰りの船に乗り込もうとする時、代表の高階遠成が


「ほれ、越州の温泉で逸勢が倒れたであろう?その翌朝からなんだか肩が重くてなあ、鍼療治を受けたがまだ治ってないらしい…」

と言って肩を鳴らしたので空海と逸勢と雄堅魚は、


やっぱり李誦さま付いて来る気だぞ!


とつい笑いそうになる顔を見合わせて船に乗り、故国に向けて出航した。




若い人たちよ、

これまでの国で学び取った知識と経験をこれからの国でどう活かすのか、

楽しみでならぬ、のう…


唐13代皇帝順宗より賜った翡翠の数珠を、

空海は生涯袖の中で握り締め、入滅の時まで手放すことは無かった。
























































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る