一番じゃなくても大切なもの (里美)





 とてつもなく身体が重い。



 瞼がずっしりと目に覆いかぶさり、開こうとしても上手くいかなかった。


 手を朝日にかざしてみる。締め切ったカーテンの間から差し込む明かりが眩しい。

 朝の光に共鳴するように埃が瞬いていた。

 昨日は最悪な一日だった。


 はぁと溜息をつく。

 昨日は家に帰ってきてから化粧も落とさず、そのままベッドに倒れた。お陰で朝から肌の調子は最悪だ。しかも大量の肉を胃に詰め込んだせいで、お腹がぱんぱんに膨れ上がっている。


 大学は一限からあった。行かなければと思うが、身体が動かない。というか、心が身体を支配して動けない。

 大学、今日は休んじゃおうかな。一日くらい問題無いだろう。うん。

 中学生の頃の自分だったら有り得ない選択だった。風邪もひいていないのに学校をさぼるなんて死んでしまうほどの罪悪感で押しつぶされてしまったはずだ。


 それが大人になった今、何も感じなくなった。これが大人になるという事なのかな。

 適度にさぼる事を覚え、何かを全力ですることを忘れてしまう。

 少し可笑しくなって笑った。

 そのまま里美は夢の世界に引き戻された。




 目を覚ましたのは二時だった。

 さすがにこれだけ寝ると身体も軽くなっている。ゆっくりと上半身を起こす。


 よく寝た。


 眠れるということは健康な証拠だ。

 昨日、あんなにも傷ついたのに身体は至って通常運転だった。

 スマホを見ると奈穂から連絡が入っていた。なんだろう。今まで里美が休んでも連絡が来たことは一度もなかったのに。



  ー里美大丈夫?今日会える?



 予想外の内容に驚く。

 会う?二人で?どうして。

 疑問符が飛び交う。

 どうするか、別に二人で会うのはいい。

 ただ、そこに沙生が居たら少し気まずい。

 それに今日は一人で家に居たかった。

 断ろうかな。

 今、沙生には会いたくない。

 どうしよう。


 でも、奈穂がこんなふうに突然誘ってくるのはとても珍しかった。何かあったのだろうか。少し気になる。

 結局、好奇心が勝ち行くと返信した。



「やっほー、お待たせ」

 奈穂がふわふわのマフラーを首に巻き小走りで近付いてきた。

「あれ、沙生は?」

 見渡しても奈穂一人だった。日は既に落ちていて、駅の傲慢な明かりが二人を照らしていた。奈穂が一人出来たことに少しほっとしていた。勿論、そんなこと顔にも出さないけれど。


「今日は誘ってないよ。里美と二人で会いたかったから」

「そう」


 なんか冷たいと言いながら奈穂が自然に腕を絡ませてきた。こういう所、奈穂は凄いと思う。里美はこんな自然に出来ない。もっとぎこちなくどぎまぎしてしまう。


 それ以前に、人と触れ合おうと思わない。


「何か食べたいものある?」

「肉以外」

「じゃあお好み焼きは?」

「いいよ」


 わーいと奈穂が手を挙げた。その姿があまりにも子供っぽいので笑ってしまう。


「なに笑ってるの?」

「なんでもないよ、さぁ着いた」

 木製の横扉をガラガラと引き、またもや木製の靴箱にスニーカーを入れる。奈穂は里美の隣の靴箱にパンプスを詰め込んでいた。


 二人で向かい合って座る。席は掘り炬燵の座席になっていて、とても落ち着いた。

「明太子もんじゃと、もちチーズお好み焼き食べたい!」

「ん、それでいいよ」

「本当にいいの?」

「いいよ、私もそれ好きだし」

 そう言うとやっぱり奈穂は瞳をキラキラさせて喜んだ。本当に子供みたいだ。


 二人の前にもんじゃと、お好み焼きのタネが運ばれてきた。奈穂がもんじゃを焼き始めた。


 奈穂は里美にこれ宜しくと、具の無くなったもんじゃの汁を渡した。どうやら奈穂が作ったドーナッツ状の土手にこの汁を流し込めということらしい。


「里美そういえば今日どうしたの?」

 いきなり現実的な話になり戸惑った。

「面倒くさくてさぼった」

「そっか、なら良いんだけど」

「どうして?」

「あぁ、うん。最近元気なかったから」

「そんなことないと思うけど」


 この子は天然に見えて案外鋭いところがある。里美に彼氏が出来た時、何も言っていなかったのに奈穂はすぐに気がついた。いや、奈穂が鋭いのではなく私が分かりやすいだけか?


 まぁ、どちらでもいい。


「あのさ、違ったら否定してくれていんだけど。里美、沙生となんかあった?」

「え...なんで?」

「最近、二人あんまり話してないから。少し気になってたの」

「別に、何もないよ。ただ...」

「あ、里美汁入れて」


 何ともいい所でもんじゃの完成が近づいていた。明太子の焼けるいい匂いがした。昨日あんなに食べたはずなのに、もうお腹は空っぽみたいだ。朝から何も食べていないお腹がぎゅるぎゅる鳴っていた。

「ただなに?」

「え?ああ...」

 言おうか悩む。これは里美と沙生の問題だ。そこに奈穂を巻き込むのは気が引けたし、なんだか告げ口するみたいで嫌だった。


「言いたくないならいいよ。でも、心配なの。三人で居られなくなっちゃうんじゃないかって。沙生も船見さんだっけ?と最近仲いいし」


 ぐつぐつと煮えたぎるもんじゃを奈穂は一心に見つめている。里美と目を合わせないようにしていた。奈穂の顔が赤い。目も若干潤んでいる。きっとそれはもんじゃの熱と煙のせいだろうけど。


「そっか、ごめん。でも心配しなくて大丈夫。今日休んだのそのせいじゃないし」

「本当?」


 また子供みたいにこちらを見つめてくる。里見はなだめるような優しい声を出していた。

「本当だよ。実はさ、昨日彼氏と別れたんだよね。あいつ浮気しててさ。だから少し落ち込んでたの」

 なにそれ最低と奈穂がバンとテーブルを叩いた。今度は本物の涙を目に浮かべて、顔を真っ赤にして怒っている。自分のことのように怒る友人を里美はとても愛おしく感じた。



「許せない、絶対に許せない!相手の女呼び出して謝罪させてやる」

「ありがとう。でも、大丈夫。昨日帰り際、あいつの携帯トイレに流してやったから」


 それを聞いた奈穂はさすが里美やることが男らしいと笑っていた。

「じゃあ、沙生とは何も無いんだよね?」

「何も無いって訳じゃないけど、沙生は何も悪くないよ。私の心の整理がつかないだけ。ただの八つ当たりみたいなもん」


 奈穂は不思議そうに話を聞いている。まあ、そうだろう。私が沙生に八つ当たりする理由なんて分からないだろうから。


 いくら鋭い奈穂でもこればかりは当てられない。

「何に八つ当たりしてるのか分からないけど、このままの状況はやだよ」

「うん、分かっている」


 ちゃんと分かってる。


 彼女...船見秋に気持ちを伝える勇気も覚悟もない自分が沙生に対して八つ当たりする資格がないことも。

 それに、沙生だって船見さんとどんなに仲が良くても友達以上にはなれないのだ。


 そう、同性は友達の線は超えられない。


 それでも羨ましかった。あんなに仲が良さそうに寄り添い合う二人が。とても羨ましかった。


 大人になりたい。


 間違った嫉妬心を抱く自分がとてもちっぽけに思える。

 大人になりたい、ちゃんとした大人に。

「里美、お好み焼き焼いていい?」

 あぁ、うん。空返事をして残りの焦げたもんじゃを一口食べた。


 それは少し苦く大人の味がした。

「私達が初めて会った日のこと覚えてる?」

 奈穂と初めて会った日...確か

「うん、覚えてるよ。私と沙生が二人で居たら奈穂が隣いいですかって話しかけてきたんだよね」

「そうそう、凄い緊張したんだよ」

「それにしてはめちゃくちゃ笑顔だった気がするけど」

「緊張すると逆に笑顔になっちゃうの。私ずっと二人と話してみたかったんだよ」

「知らなかった。そういえば奈穂と仲良くなったのって入学して少し経ってからだよね」

「そうそう。だってさ、二人凄い仲良かったから話しかけにくかったんだよ」

「うそ、そんな事ないと思うけど」


 意外だった、だって沙生とは一定の距離感で付き合ってきたつもりでいたから。

 そんな仲良く見えていたなんて、知らなかった。


「最初、二人が同じ学校出身だと思ったくらいだよ。いつも二人でいたし。長年一緒に居ましたって雰囲気が漂ってた」


 そんなふうに見えていたのか。なんだか照れくさい。自分から見る人間関係と、他人から見る人間関係はどうやら異なるらしい。


「でも、私は奈穂が来てくれてよかったって思ってるよ」

「そう言って貰えると嬉しいな」


 奈穂は本当に嬉しそうにお好み焼きを頬張りながら笑った。

 里美も習ってお好み焼きを口一杯に詰め込んだ。


 お好み焼きの煙のせいで涙が出そうになり瞼を閉じた。



 そうだった。最初は二人だったのだ。



 知り合いのいない大学に入学してから、同じ不安を共有しながらずっと隣にいたのに。

 船見さんより多くの言葉を交わしあい、笑いあったのに。



 馬鹿だなぁ。

 沙生と船見さんに抱く感情は全く違う。

 船見さんは特別だ。何百人の友人より遥か比べ物にならないくらい。


 でも、大切なんだ。


 沙生も奈穂も皆大切なんだ。

 どうして忘れていたんだろう。

 やっと大量に入れたお好み焼きを飲み下した。息をふぅと吐く。



 そして奈穂を見る。


「今度は沙生も誘おうね」

 そう言うと奈穂は嬉しそうに頷いた。


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