やさしい雨
繋いだ手は磁石のようにくっついて離れることなく、茜色に染まる道は永遠に続くと思っていた。
だけど、この世界は残酷だ。
生暖かく優しい時間は刹那で、そんな優しい時の流れに浸っていても、いつか終わりが来ることを悟っている。そんな自分が嫌いだった。
それは今でも変わっていない。
初めて手を繋いだ相手は母だった。勿論、その時のことを覚えている訳ではないが、多分そうだろう。
母は病院で私をこの世界に誕生させた。
私が望んで生まれてきたのか、それとも母が望んで私を産んだのかはわらない。
私が産まれた時、父は仕事をしていた。父は法律事務所で働いている。いわゆる弁護士。
その時、父は厄介な裁判に巻き込まれていたらしく妻の出産どころではなかったらしい。
いや、裁判なんてなくても父は母の出産に立ち会うことは無かっただろう。今となってはどうでもいい事だ。
母は優しかった。一人っ子の私をいつも温かい手で包み込んだ。母といる時の私はひどく安心していた。この世に悪者なんていないと思っていた。
冷たい雨でさえも、母と一緒にいたら優しいものに思えた。
彼女は絶対に私を裏切らない。
私も彼女を絶対に裏切らない。
そう、思っていたのに。
世界は本当に残酷だ。
ブーブー
うるさい。
目こをすりながら震えるスマホを停止させる。
人工物に目覚めさせられる朝は非常に気分が悪い。
スマホの画面にはアラームではなく、朝から気分を下げさせるのに十分な効力を持つ名前が表示されていた。
ー 船見健一郎 ー
「もしもし」
「もしもし、秋か」
「なに?」
「生活費についてだ、お前の通帳に今月分振り込んでおいた、足りないようだったら連絡しろ」
「分かった、ありがとう」
「それだけだ、じゃあな」
切れた。
彼はいつもこうだ。一方的に電話を寄越し、用事が済めばこちらに興味は向けず切る。そういう人だ。
とりあえず今月も彼に寄生して私は生きていけそうだ、きもちわるい。
早くこの寄生生活から抜け出したかった。でも今の状況では無理だ。どうしても彼の支援が必要なことは分かる。
それでも心は強い反抗心を持ち続けている。
彼からの一番の支援は金銭的な面だ。
ただ、これは支援というより借金だと考えている。だから、今のうちにアルバイトをしてお金を貯めていた。
時計を見るとアルバイトまであと一時間となっていた。
秋のアルバイトは家庭教師だ。夜の仕事以外で給料がいい仕事を探した結果だった。
今日は土曜日なので午前中から指導に行くことになっている。
支度を終わらせ自転車にまたがる。本当ならバスや車で行ったほうが楽だったが、節約出来るところは削っておきたかった。
呼び鈴を鳴らすと、小柄な女の子が上下スウェット姿で出迎えてくれた。お邪魔しますと言い靴を脱ぐ。
あぁー、眠いと言う少女の後ろ姿を追った。最初の頃はスウェット姿なんて絶対に考えられなかったが、今となってはお洒落な彼女の私服が思い出せない。
「秋ちゃん、今日勉強やめない?」
「クビになりたくないからやります」
「えぇー、でもママいないしバレないよぉ?」
「お説教と勉強どっちがいい?」
「いじわる」
彼女は今年、高校受験を控えた中学三年生だ。秋は土曜日の九時から十二時までの間彼女の家庭教師をしていた。
「お母さん今日は仕事?」
「そう、先週夜勤だったから」
「なるほど」
彼女の母は看護師をしている。父親も土日仕事らしい。
「ご両親忙しそうだね」
「あの人たちは忙しいのが好きなんだよ」
「偉いねぇ」
「美久は偉いと思わないけどね」
「そう?」
「そう、ってか勉強しないの?」
「するする、美久ちゃんの大敵の英語を倒さないとクビになっちゃうからね」
「あぁー、言わなければ良かった」
彼女はそう言いながらテキストを机の上に広げた。
「ここのカッコに何が入ると思う?」
「あ、わかった!haveだ!」
「正解」
丁度お昼の鐘がなった。
「もう十二時か、お疲れ美久ちゃん」
「うん、ねぇ秋ちゃん」
「ん?」
「ちょっと、時間ある?」
「うん、なんで?」
「料理作るから、あの、食べてくれる?」
「料理?いいけど」
話を聞いたところ、どうやら
明日彼女の彼に手料理を振る舞うことになったらしい。
まず、美久ちゃんに彼氏がいたことに驚きだったが、それ以上に勉強している時よりも料理を作っている時の真剣な表情に恋の凄さを感じた。
出来上がったのはオムライスだった。
まぁ、恋人への手料理と言ったらオムライスが妥当だろう。
「どう?」
「うん、美味しいよ」
少し卵が焦げているところを除けばよく出来ていると思う。味も悪くない。
オムライスは卵が半熟でなければ嫌だという人で無ければ問題ないはずだ。
「本当に?」
美久ちゃんは上目遣いで少し泣きそうになっていた。なんだかその仕草が沙生に少し重なって可愛いなと思った。
「うん、味もいいよ。あとはケチャップでハートを描けばばっちりだね」
「そのつもり」
なんともませた生徒だ。中学生って皆こんな感じなのだろうか。
「秋ちゃんって彼氏いないの?」
「いないよ」
「美人なのにね、作んないの?」
「逆になんで作るの?」
美久ちゃんは不思議そうな顔をして、そして当然のように言った。
「好きだから」
その通りだ。むしろ、それ以外の感情があって付き合うって何なのだろう。
秋にとって、恋は好きが中心にあって、きっと嫉妬とか独占欲とかが好きの周りに肉付く、そんなイメージだった。
でも、秋は自由でいたかった。そして、誰も束縛したくなかった。
束縛とか独占欲は自分と相手を傷付け、負の感情しかもたらさないと思う。だから、出来ればそこから一番遠くの人で居たかった。
美久ちゃんを見ると自分で言った言葉で照れていた。
少し乾いたオムライスを平らげる。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
「よかった、これで明日自信もって作れそう」
外に出ると、雲行きが怪しかった。今にも泣き出しそうな空が、不安そうにそこにある。
美久ちゃんの家から自宅まで急いでも三十分はかかる。それまで待ってくれたらいいのだけれど。
自転車をとばす。ぐんぐんと加速する車輪は大きな金属音を奏でた。
頑張った方だと思う、走って十分くらいの所で雨が降ってきた。雨はさらに強くなり秋の体を濡らした。
今日の雨は全然優しくない。いや、母が去ったあの日から雨は冷たくなり、優しさは温度を無くした。
母が去ったのは、秋が小学四年生の時だった。
目が覚めたらいなくなってたとか、そういうのではない。
真夜中の事だった。確か、静かな雨が降っていた。
母が眠っている秋にごめんねと言い、家を出ていった。
家を出ていく母を見て雨に濡れ無ければいいなあと思った。
秋は母を信じていた。絶対に帰ってくると。自分を置いてどこかに行ってしまうことは有り得ない、そう思っていた。
しかし、何日待っても母は帰ってこなかった。
そのうち、父から母と離婚したことを告げられた。
程なくして父は再婚した。
雨は先程よりも明らかに強くなっていた。風も出てきて、正面から受ける雨が顔を叩きつける。雨は全然優しくない。
自転車に乗り続けることが困難になり、仕方なく降りる。ずぶ濡れの猫みたいに自転車を押す。
無性に沙生に会いたくなった。
今、何をしているのだろうか。きっと、秋が電話をすれば出てくれるだろう。メッセを送れば返事もくれるはずだ。
でも、出来なかった。
今それをしてしまえば、自分が自分で無くなる気がした。きっと、一人で立っていられなくなる。沙生に寄りかかってしまう。
それは秋が一番恐れていることだった。
「秋?」
自転車を押す力を緩める。
俯いていた顔を上げ、真っ直ぐに前を向いた。
「え?沙生、なんで?」
「いや、バイト終わって帰るところ」
そういえばもう少し道を外れれば沙生のバイト先だった気がする。
でも、今はそれどころでは無かった。正直、動揺していた。さっきまで考えていた人にまさか偶然にも出会えるなんて思ってもいなかったから。
「ねぇ、秋!びしょびしょじゃない!傘は?」
「無い、降ると思わなくて」
「天気予報で90%雨だったよ」
「みてない」
「だろうと思った」
沙生が自分の傘に秋を招き入れた。
「いいよ、もう濡れちゃってるし」
「良くないでしょ、うち近いから寄って」
「えぇ、いいって」
「良くない、風邪ひくよ」
そこには有無も言わせない強い意志があった。秋は仕方なく頷く。
二人で雨の中を歩くのは初めてだった。同じ傘の下、肩が少し触れ合う。その度少し心臓が高鳴った。
何でもないような言葉を交わす。雨のようにポツポツと流れて行く言葉たち。それが、心地よかった。
さっきまで冷たかった雨が、沙生のお陰で熱を持つ。
少し雨が優しくなった気がした。
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