第120話 月下の鬼 その1

 帰省の晩。

 天に満ちた月は、渡り廊下の上に音もなく進む人影を落としていた。


「……むっふっふっ」


 忍び足で歩むB子は何ともだらしない笑顔を作った。


「こう言う夜ばいもスリルあるわねぇ。旅は人を大胆にするというかあんなワイルドな姿見せられると女が疼くのよねぇ。待ってなさいよぉご主人様」


 B子がご主人様の部屋まであと数メートルに近づいた時であった。

 B子は背後に気配を感じ、すぅっ、と飛び退く。


「人のナリはしても動きは野良猫だな」


 B子はいつの間にか寝間着の春慶に背後を取られていたことに驚いた。


「い、いったいいつの間に」

「夜ばいしかけられるとは秋徳も罪な男だ。ふわぁ~」


 春慶は大きくあくびをした。眠そうなその様子は隙だらけである。


「――そう、見た目は、ね」


 B子は身構えたままであった。小者のあやかしならこの隙を狙って襲ってしまうだろう。

 だが“音もなく現れ、相手に全く気取られずに背後を取った男”に隙など存在すると思う方が愚かであった。


「ほう」


 春慶は様子を窺っているB子に感心した。


「400年モノは流石に誘いに簡単に乗ってこないもんだな」


 そう言って春慶はもう一度、わざとらしくあくびをする。


「詳しいのね」

「<皇城(すめらぎ)の黒猫>といえばこの業界でも有名だ」


 春慶がその名を口にした途端、B子は凄まじい形相に変貌した。


「……そこまで知っていたか」

「知っているが、判らんよ。何故、祟った相手の家の守護獣として仕えているか」


 それを聞いた時、B子の眉が、ぴくり、と動いた。


「<黒猫>の話は退魔師の間でも珍しい話だから有名な方だがな。……お前、あの嬢ちゃんをどうする気だ?」


 春慶はB子を睨み付ける。

 春慶に睨まれたB子は一瞬、身がすくむ。


「……噂以上じゃないかこの男」


 B子は寒空だというのに冷や汗をかいている自分に気付いていなかった。

 背後を取られてからずうっと、B子は春慶に圧倒されたままであった。


「……底知れないとはこう言う事か」

「どうした?答えたくないなら力づくでもいいんだぞ」


 B子ははっとする。

 春慶が一歩前に進んだのと同時にB子も反射的に飛び出していた。

 殺らなければ殺られる。野生プラス400年培った直感が身体を突き動かしていた。

 黒い弾丸へと変貌したB子は春慶の頸動脈を狙っていたが、まさか正面に巨大な右人差し指が現れるとは思いもよらなかった。


「――違う、これは」


 それは春慶の圧倒的な霊格がもたらした錯覚であった。

 春慶は右人差し指ひとつで400年生きた猫又の念とその身をはじき返してみせた。

 黒猫の姿に戻ってしまったB子は弧を描きながら渡り廊下の上にぽとり、と落ちる。


「な……何この……男……? ――指一本でわたしを封じてみせるなんて!」


 〈鬼の春慶〉恐るべし。

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