若紫 その十一
あの紫の上の保護者である尼は病気がよくなったので山から下りてきた。尼は京に住み、時折光源氏は尼に手紙を出す。
紫の上のことは相変わらず断られるのだが、最近は藤壺の宮のことが恋しく、他のことは手につかない様子だ。
秋も終わりに近くなった。月の美しい夜。光源氏は夜歩きをしたくなった。その道中に、見るからに荒れ果てた家が見えた。いつものように光源氏についてきていた惟光が
「ここが紫の上の父、按察使の大納言の邸宅です。この間、ついでがありまして訪ねたところ、尼がすっかり衰弱して困っている、と女房が申しておりました」
と言う。
「それは気の毒なことだ。すぐにお見舞いにいかなくてはならないのに、なぜそれを知らせてくれなかったのだ。すぐに人を使わせるように」
光源氏が来た、ということが伝わると、女房たちは驚いて
「まあ、どうしましょう、困りました。尼様はめっきり衰弱していますのでお会いできるとはとても……」
とは言うものの、このまま光源氏を帰すこともできない。とにかく一室を片付け、光源氏を通すことにした。
「散らかっていて大変見苦しいですが、せめてお見舞いのお礼だけでもと思いまして。なにぶん急なことで、ご用意ができずに申し訳ございません」
「いえいえ。いつもお伺いしたいと思いながらあのような返事ばかりいただいているため、ついつい遠慮をしてしまいました。そのためこのような容体が重くなっているとは知らずに日々を過ごしていました。申し訳ございません」
と光源氏が言うと、尼は女房を通して
「私の具合が悪いのはいつものことです。しかし、今度ばかりはダメかもしれません。実際に会って挨拶できないのが心残りです。
紫の上のことは、大人になりましたらぜひともお目に掛けてください。私もあの子のことが心配です。紫の上がお礼の一言でも申し上げられる年頃でしたらよろしかったのですが……」
と言った。
「前世からの因縁か、紫の上を初めて見たときから可愛くてたまらないのです。これは前世からの約束事としかおもわれません。このままではお伺いした甲斐がありません。何とか紫の上の声だけでも聞くことはできないでしょうか」
「さあ、そうは申しましても、紫の上はまだ何もわからない無邪気な年頃でして……」
などと言っていると、向こうから近づいてくる足音が聞こた。
「おばあさま、光源氏様がいらっしゃるの? どうしてお会いにならないの?」
と紫の上が無邪気に話すのを、女房たちががばつの悪い顔をして
「しっ、お静かに」
と言って制した。
「だって光源氏様を見たら気分が悪いのが治ったって、おばあさまがおっしゃったから」
と、自分は良いことを言ったと思い込んでいるようだった。
光源氏はそれを面白く聞いていたのだが、女房たちが困っているので聞いていないふりをして帰宅した。
「なるほど、紫の上は確かに子供だ。しかし、だからこそ好きなように教育してみたい」
と光源氏は考えた。
明くる日も、光源氏はとても行き届いた細やかな手紙を書いた。
いはけなき田鶴の一声聞きしより
葦間になづむ舟ぞえならぬ
「私はいつまでも同じ人を思い続ける」
と、子供っぽい字で書くのだが、これまた見事なので
「このまま習字のお手本にしましょう」
と女房が紫の上に渡した。乳母の少納言から返事を書く。
「尼様は今日一日も危ない状態でして、これから山寺に引きこもる予定です。わざわざお見舞いに来ていただいたお礼は、あの世からすることとなりましょう」
とあった。光源氏はとても哀れに感じることになる。
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