帚木 その三

 その夜、光源氏は寝付けずにいた。そのとき、部屋の近くで話し声が聞こえてくる。光源氏は好奇心には抗えず、こっそりと聞き耳をたてるのだった。



「もしもし、お姉さまはどこにいらっしゃいますか?」



 この声は空蝉の弟の声だとすぐにわかった。弟の名前は小君こぎみという。すると、話しかけている相手は姉の空蝉ということになる。



「ここにいますよ。お客様はもうお休みになったかしら?」


「もう眠っているようです。そういえば昼間、噂の光源氏様を見ましたが、本当に美しく素晴らしい方だった」


「まあ。昼間だったら私もこっそり覗き見るのだけれども」



 空蝉はそのような話をしながら夜具の中に顔を入れた気配がした。もう眠るつもりなのだろう。



(じれったい。もっと私の話をしてくれないだろうか)



 光源氏は自分に興味を持ってもらいたいのか、ここで話が終わってしまうことを残念に感じた。


 小君は別の場所で寝るらしく、空蝉の部屋を出て行った。空蝉は襖を隔てた向こう側にいるようだ。


 そのとき、空蝉が誰かを探しているような気配がする。



「中将の君はどこかしら。そばにいてほしいのだけれども」



 中将の君とはこの屋敷の女房である。空蝉の世話をしているのであろう。


 空蝉の言葉に別の間に寝ている女房が答える。



「中将の君なら『すぐに戻ります』と言っていました」


「そう」



 空蝉は誰かに探しに行かせるわけでもなく、そのまま静かになってしまった。


 皆が寝静まったようなので、光源氏は大胆にも空蝉の部屋に侵入した。


 空蝉は先ほど呼んでいた中将の君が戻ってきたと思い、身を起こす。しかし、暗くてよく見えないが、明らかに中将の君とは違う人影が自身に迫ってくるのを感じた。



「だ、誰?」


「中将をお呼びのようでしたので、近衛の中将である私がまいりました」



 光源氏の朝廷での役職は近衛の中将である。そのため、空蝉が呼んでいた中将の君に成り代わって返事をしたのだろう。


 空蝉はあまりのことに声が出ない。その様子を見て光源氏は諭すように話しかける。



「あまりに突然なことなので軽薄だと思われるかもしれません。しかし、長年慕ってきた私の気持ちもわかって欲しい。これも浅い縁だとは思わないでください」


「ひ、人違いでしょう」


「人違いなどするものですか。はぐらかさないでください。私は胸のうちの想いを聞いて欲しいだけなのです」



 光源氏はそういって空蝉を抱きかかえて連れ去ろうとした。そこに空蝉が呼んでいた中将の君がやってくる。



「や」



 光源氏は思わず声を出す。その声と高貴な香りで中将の君は声の主を光源氏だと推察した。


 中将の君は狼狽する。相手が普通の身分のものなら無理やり空蝉を引き離すのだが、光源氏ほど高貴な身分のものを乱暴に扱うわけにはいかない。


 光源氏はそんな中将の君の心境を知ってか知らずか、そのまま空蝉を奥の部屋へと連れて行ってしまった。中将の君はその後を追いすがっていくことしか出来ない。


 光源氏は中将の君に



「明け方に迎えにきなさい」



 といって奥の部屋の襖を閉めてしまった。


 空蝉は中将の君がこの有様をどう思うだろうか、と考えると気分が悪くなってくる。しかし光源氏はその様子をどう思ったのか、空蝉の心に響くように口説き始めた。


 空蝉はこの状況をあさましく思い、恥ずかしく思った。しかし、空蝉には気丈にも



「私のような卑しい身分のものにも誇りがございます。このような扱いを受けてどうしてあなたのことを思えますでしょうか」



 と言った。


 光源氏は



「私はあなたという女性がどのような身分のものかわからないほど初心なのです。このようなことは初めての経験ですよ? それをまるで浮気者のように扱うのはあんまりではないでしょうか」


 と言って言い訳をする。


 何を言っても通じない光源氏に、空蝉は野暮な女のふりをして押し通そうとした。それでも光源氏はあきらめない。



「どうしてそこまで拒絶するのですか? このようになったのも前世からの因縁があったと思いましょうよ。そのような態度を取られると私も辛いのです」


「まだ娘の身であったなら将来を思って身をゆだねることも出来たでしょう。しかし、私は紀伊の守の妻です。一夜の浮気心だと思うととても悲しいのです。しかし、こうなった以上はどうしようもないこと。せめてこのことは人に漏らさないでください」



 こうして光源氏は空蝉と一夜を過ごしたのだった。

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