器
「斎王様、不躾ですよ」
あれでは道雅に好きな相手を訊いているようなものです、と道雅が帰ったあと、成子は命婦に怒られた。
「早朝、斎王様のところにわざわざ来られたのだから、斎王様のことに決まってるじゃないですか」
ねえ、と女官たちは笑い合っているが。
いやいや。
それ、此処に居たことに対する、ただの言い訳だから。
関係ないような、と思いながら、先程の道雅の言葉を思い出していた。
『成子様でも、歌に詠んだようなお心を抱かれることがあるのですか?』
『さあ?
なんだかそんな気がしただけよ』
と答えたが、あのとき、確かに、自分は、どきりとしていた。
誰かを好きだと思ったことが、私にはあるのだろうか。
今生、自分の周りをウロウロしていた男は、今上天皇くらいのものだし。
特にそのようなことはないような。
そう思ったとき、ふと、頭に思い浮かんだ。
自分を井戸に蹴り落とした、夜空を背に立っていた白い衣に長い髪の男。
こんなところに居たんだ……。
そう思ったときの自分の感情を思い出そうとしたが、何故か、それは、すうっと自分から遠ざかる。
何故だろう。
そう思うことさえ、長くは出来ないような。
まあ、真剣に考えられる環境じゃないからかもな、と成子は笑った。
庭先では、今は喋らない例の黒猫が、かゆいのか、砂利にこすりつけるように、背中をうねうねとさせている。
気持ち良さそうだ。
前から居る黒猫の霊が、その羨ましそうに周りをうろうろとしている。
平和な時間だ。
今なら、道雅でなくとも、穏やかな良い歌が詠めそうな――。
『朝の歌、良かったわ』
という成子の言葉がいつまでも道雅の心に残っていた。
御簾越しだったので、成子の姿は見えてはいなかったのだが、穏やかに微笑む成子の幻が見えた。
『誰を思って詠んだの?』
貴女以外に誰が居ると思っているのですか。
思わずそう思ってしまった己の心を消し去るように首を振る。
そのとき、ととととっと自分の目の前の砂利道を歩く黒猫の姿が見えた。
「師匠っ」
と思わず呼んだが、足を止めた猫は、にゃ? とこちらを見て言い、ごろんと転がり、腹を出してくる。
……可愛いが、今は悪霊は入ってはいないようだ。
呼び止めてしまったので、道雅はその場にしゃがみ、猫の気が済むまで、腹を撫でてやる。
手を洗おうと、井戸のところに行ったとき、ぎくりとした。
水に自分の顔が映っていたのだが、それがこちらを『見ている』と感じたからだ。
いや、自分が水を覗いているのだから、見ていて当然なのだが。
水の中に居る自分が自分とは違う意思を持って、自分を見ている、と感じたのだ。
『道雅……』
とそれは呼びかけてくる。
よく見れば顔も違う。
いや、表情が違うというか。
同じ顔なのに、何処か高貴な感じがした。
『道雅。
悪しき魂にすがるのはやめなさい。
私が入れなくなる』
……神なのか?
これが?
いつも乗っ取られるばかりで、彼と対話したことはほとんどない。
『あの男も、悪霊に身体に入られたせいで、私を受け入れることが出来なかった』
どうやら、真鍋のことを言っているようだと気づく。
『成子はあちらの男の方が好みだったようなのだがな』
……うっ。
さすが神だ。
こちらの気持ちなどなにも考えず、ズバズバ言ってくる。
人間の男など、ただの器にしか見えていないのだろう。
『悪霊と親しくするのはやめなさい。
お前が成子を手に入れたいのなら』
そう神は言うが。
いや、違うだろう、と思っていた。
手に入れるのは貴方だ。
私はただの器だから――。
道雅は、成子の居る寝殿を振り返る。
ただの器だから。
だが、それでも――。
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